守勢、攻勢
『どこまでも流れる風は白刃となり、敵はそれに飲み込まれ地に落ちる』
洞窟から出てきた三人と一匹に殺到した蟷螂たちは、センの周囲からわき出した風の刃に切り刻まれて地面に崩れ落ちた。
うめき声と劈く悲鳴が交差して、その場を満たしていく。
「これはまた…。凄まじい魔術だな」
「私たちの魔術とは桁が違いすぎて、自信がなくなりますね…」
サイスとセルビアはそれをセンの後ろで眺める。二人は出来るだけ声を潜めて、センの後に続いていく。
センは強力な魔術を行使しているとは思えないほど、しっかりした足取りで進んでいった。
森の中の開けた場所に出た三人は同じように顔を顰める。
そこは小さな村だった。そう、『だった』だ。
十数件の家が支え合うように寄り添っている、そんな小さな集落。そこから漂ってくるのは強烈な腐敗臭と荒廃した空気だ。
セルビアは顔を顰めて鼻を手で覆い、サイスは眉根を寄せる。センは嫌悪の色を顔一杯に浮かび上がらせた。
何件かの家の壁にはどす黒い染みが広がり、腐りかけた肉片がそこら中に散らばっている。家の扉や窓は開けっ放しで、中には物が散乱しているのが見えた。
魔獣たちを引き連れたまま、三人は村を突っ切る。ターロンはサイスの肩に飛び乗り、そこで大人しくなった。その目にはどこか怯えの色がある。
「さすがにこの空気は聖獣には酷だろう。悪いな、ターロン」
センはそれだけ言って蟷螂たちに目を向けた。
蟷螂は遠巻きに三人と一匹を囲んでいる。
どうしてもセンが張った風の壁が破れないのだ。
侵入者を殺せないからといって、野放しにする気はないらしい。隙あらばいつでも飛びかかれるように身構えている。
「聖獣にとっては、今のこの状況は忌避の対象にすらなるからな」
「…そうなのか?しかし、ここに来たのは、こいつの意思だぞ」
「嫌だからこそ逃げたいというのと、嫌だからこそ消したいというのは、同じ想いの裏表だ。どちらを強く感じるというのは、個体差によるだろうよ」
村を通り抜けた一行はセンを先頭にさらに先へ進んでいく。それを囲んだまま、蟷螂たちも移動する。
そして、数分歩いて、一同は目的地に到着した。
そこにあったのは澄んだ水を湛えた小さな池。
しかし、セルビアとサイスは思わず足を止めてしまった。
どす黒い何かが水面を漂っている。細長く平べったいそれは、右に左にと水の上を動き回っていた。
その物体からは人の叫び声が響いてくる。それほど大きな声ではない。しかし、生き物に忌避の念を抱かせるには充分すぎるほどの痛みと恨みが籠った叫びだ。
「何だ、あれは…!」
サイスの言葉もうめきに近い。その顔は恐怖に染まっている。セルビアは逃げ出したくなるほどの怯えと戦っていた。ターロンは身体中の毛を逆立てて背中を大きく曲げる。
一応の平静を保っているのは、センだけだ。
「あれがこの状況を作り出している物だ。『怨嗟の蛇』と呼ばれている」
センは数歩歩くと池の縁にしゃがみこんだ。黒いそれは叫びを上げながら動いている。
「これは人々の苦痛と血を集めて作られたものだ。魔獣が生まれるのも蛇の副作用でしかない。…生き物とは呼べないが、物と言うのも正しくない。これは森羅万象の中には存在しないものだ」
センは淡々と言葉を紡ぐ。
「恨みと痛みを一つの道具として使い、狂気を生み出すことしかできない…」
センはその体勢のまま、首を捻って後ろにいる二人と一匹を見た。
「始めるぞ、準備はいいか?」
セルビアは力強く頷いてセンに背中を向けた。すぐ近くには蟷螂たちが風の壁のすぐ外で牙を鳴らしている。
それを睨みつけて、腰を落とし、柄に手をかけるセルビア。
サイスは自分の肩に乗っているターロンを見やる。
「ターロン」
子猫は地面に音も無く飛び降りる。
その体が一気に大きくなっていく。
黒の毛皮には薄い斑点が浮かび、牙と爪は伸びる。
ほとんど一瞬で姿を変えたターロン。そこにいるのは、雄々しく猛々しい黒豹だった。黒豹は重々しい足取りでセルビアの前に出る。
微かな唸り声を上げ、ターロンはその爛々と光る目で魔獣を睨みつける。
サイスはセルビアの隣に立つ。
その手には鎖鎌が握られ、紫の瞳はその刃と同じ鋭さと冷たさが宿っている。
「仕方ない、毒も食らわば皿までだ。確かにあれは放置できない」
センはそれを横目で見ながら、懐から白色の石を取り出す。傷のない球形のそれはちょうど良くセンの手の中に収まる大きさだ。
センは怨嗟の蛇に視線を合わせて、ゆっくりとその玉を握っている右手の拳を池の中に入れる。
「始めるぞ」
『憐れな魂よ、囚われた咎無き罪人よ。今ここに救いを与え、その苦痛に終わりをもたらそう。どうか安らかに眠れ』
センの体から大量の魔力が流れ出す。
それと同時に風の壁が消える。劈く人ならざるものの叫びとともに蟷螂たちが雪崩となって襲いかかった。
その中でも二つの声は、はっきりとセンの耳に届いた。
『一条の閃光は闇を裂き、敵を貫け』
『この力は守るためにある。剣は人を斬るためにある。さあ、始めよう』
「つまり、俺たちに足止めしろと?」
「自分の身は自分で守れと言っただけだ」
池に到着する10分前、山の中を歩くセンは、そう言いながら金切り蟷螂の首を風の魔術で切り落とした。
「この元凶を排除する時、おそらく私は自分の身を守るのが、精一杯になるだろう」
「…」
セルビアは疑いの眼差しでセンを見る。センはそれからさりげなく目を逸らした。
「5分あれば術自体は終わる。それまで蟷螂どもとお前たちが戦う必要がある」
たかが5分、されど5分。サイスは眉根を寄せて呟く。
「…五分五分だな。一歩間違えば惨殺されるのはこちらだ」
「大丈夫だと思うよ?」
呑気な声でそう言ったのはセルビアだった。転がった蟷螂の死体を踏み越えながら、楽しげに笑っている。
「師匠と私が揃えば無敵だって!」
その自信の根拠はあんまりだったが。
サイスは頭を抱え、ターロンは呆れたように目を細めている。
「お前は…なんでそう肝心な時に馬鹿になるんだ…。まったく変わっていない…」
「失礼な。こういう時は理屈よりも感覚で動いた方がいいんだって。それに今更、引き返せないしね」
サイスは地面に膝をつきそうになる。
そんなサイスを慰めるようにセンは、その肩を軽く叩いた。
ターロンが真っ先に蟷螂に跳び掛かり、一瞬でその首を噛みちぎる。その横を一条の雷光が通り、縦に並んでいた二匹の蟷螂の胸を貫いた。
その雷光と共にセルビアが飛び出す。一拍遅れてサイスがそれに続く。
乱闘が始まった。
センは魔力の糸を蛇に伸ばしていく。糸が蛇に巻きつき、その糸を伝って幾重にも重ねられた声がセンの頭の中に響いてきた。
『ツライツライ恨めしい苦しいクルシい助けてシなせて死なせてくれヤダ嫌だどうして死にたいイタい痛いいたい痛いこわいコワい憎いニクいなんでどうして』
子供の声、壮年の男の声、若い女性の声、齢を重ねた掠れた声。様々な声が怨念を伝えてくる。
「ぐっ…」
呻きながらセンはさらに蛇を手繰り寄せる。蛇は抵抗するわけでもなく、素直にセンに近づいてきた。それもそのはずだ。この蛇自体に何か目的があるわけではない。
ただ理不尽な苦しみによって痛めつけられた人の思念が、術によって固められているだけだ。
センが蛇を手繰り寄せる間も、恨みと憎しみの声は彼女を消耗させていく。センだからこそ消耗程度で済んでいるが、常人なら一分で発狂するだろう。
蛇が白色の玉にゆっくりと入っていく。それと同時に黒が白球の底に溜まる。
センの顔には大粒の汗が浮かび、止めどなく流れていく。苦痛によって歪められた顔と震える体が、センに多大な負担がかけられていることを表していた。
『救いは与えられるもの。希望はどこにでも存在し、絶望は断ち切られる。光よ、闇を照らしたまえ』
暖かな光が蛇の体を包み込んだ。
セルビアの静かな戦いのすぐ後ろでは、熾烈な攻防が繰り広げられていた。
雷を纏った鎌が宙を飛び、魔獣の首を切り落とす。その鎌に続くように振るわれた刀が、そのすぐ後ろにいた蟷螂を胴体と下半身の二つに分けた。
それを跳び越えた黒豹が魔獣の動きをかわして、至近距離から拳大の閃光を打ち込む。それをまともに受けた蟷螂の動きが数秒止まり、その隙を逃さずサイスの鎌が首を切り飛ばす。
サイスは鎖を操り、その先端に取り付けられた分銅を目の前にいた蟷螂に投げつけ、その蟷螂が怯んだところにセルビアの刀が襲いかかる。
それと入れ替わるようにサイスがセルビアと背中合わせになり、振り下ろされた蟷螂の腕を弾き返す。
戦闘が始まって5分が経った。二人と一匹は息が上がっており、それは全員に疲労が溜まっていることを如実に物語っていた。
それでも体に鞭打って手を動かし、足を前に出す。ターロンは噛みちぎった蟷螂の首をくわえたまま、くぐもった唸り声を上げている。
余計な言葉は不要だった。紫、銀、青色の瞳が一瞬だけ交差し、そして、同時に前に出る。
「ギャン!」
最初に崩れたのはターロンだった。
痛みの声を上げてターロンの体が大きく跳ねる。その背中には深い切り傷がつけられていた。
「ターロン!」
相棒に気を取られたサイスの意識に隙ができた。その隙をかばう為にセルビアが大きく一歩前に出る。
薙ぎ払うように振られた鎌をまともに受け止めるセルビア。その衝撃をうまく逃がせず、セルビアの体の芯を揺さぶられた。
そのせいで一瞬、セルビアの動きが鈍る。
「ギャアアアアァァッッッ!!」
一際甲高い叫びと共に二人と一匹を取り囲んだ蟷螂たちが鎌を振り下ろす。
誰もそれを防ぐことができない。今から動いたところで後ろから両断されるのがおちだ。
(こんなところで死ぬのかな…。これじゃ、無駄死にもいいところだ…)
セルビアは襲いかかってくる鎌を見ていた。衝撃を受けた体は足掻こうとするが、頭では間に合わないと分かってしまっている。
自分のすぐ近くにいるサイスも動こうとしていた。その動きで地面に倒れているターロンを庇おうとしている。
ドガアアァァン!
突如響いた轟音にセルビアは棒立ちになった。
風が砲弾のように固まって、蟷螂たちを吹き飛ばしている。ぶつかるごとに生き物が出せるとは思えない重低音が響き渡り、ぶつけられた蟷螂は周りにいた他の蟷螂たちを巻き込んで地面に倒れ伏す。
「ようやく…」
おどろおどろしい声に、セルビアは恐る恐るその声がした方を見た。
そこにはゆっくりと背中を伸ばすセンがいる。その表情は影になって窺えない。
「ようやく本気を出せそうだ…。さあ、来い。『魔の僕よ、ここに来い。その呪われた魂を浄化せん』」
センが唱えた呪によって、蟷螂たちの動きが大きく変わった。セルビアやサイス、怪我をしたラーロンにも目をくれず、センに殺到する。
鉄をも断ち切る巨大な鎌がセンに狙いを定め、振り下ろされた。
ザッ…、ドォォン…。
血肉が鋭利なもので切られる音に続いて、重い何かが地面に落ちる。
『踊れ踊れ。風は惨劇と剣戟を連れてくる』
魔術によってセンの体から風が沸き上がる。センは頬に飛んだ返り血を片手で乱暴に拭うと、唇を引き裂くような笑みを浮かべた。
その視線が地面で弱々しく動こうとするターロンを捉える。笑みが消え、緑の瞳が深い色を放つ。そしてセンはターロンの側で膝をつくと、その体に右手を翳した。
暖かい光が手のひらから発され、その光がターロンの傷を急速に癒していく。
それを見ていたセルビアとサイスは揃って硬直した。
攻撃系と補助系。この二つを同時に扱える人間はいない。それが不文律であり、決して揺らぐことのない世界の理だ。
それを平然と行った女は、ターロンの傷が癒えたのを確認して、立ち上がった。
周囲の蟷螂の突撃は風の壁によって跳ね返されている。轟音とともに蟷螂の巨体が地面を転がり、森の木ごと体が折られていく。跳ね返すというよりも、吹き飛ばしていると言った方が正しい状況だ。
センはそれを一瞥してから、口の端を吊り上げる。それは慈悲など一片も感じられない酷薄で無情な笑みだった。
「ぬるいな。さあ、もっと来い。全力で相手をしてやろう」
そんな光景を呆然と見ていたセルビアとサイスは、思わず心の中で魔獣




