120 - 『ワールドコール』
夢を。
見るんだ。
騎士の駐屯地となっている制圧地点から、さらに深部へ出発したのは、朝の八時。
外の様子はわからないけど、時計は時間を示している。
移動距離はもう、かなり短くなっていて――あっというまに、百階層目。
百十、そして百二十。
最後の階段を、僕らは降りて――最後の階層にたどり着く。
そこは明らかに異なる場所だった。
それまでの迷宮とは、すべてが違う場所だった。
床が微かに、それでも確かに光っている。
柱が天井がそして壁もが、ぴかぴかに磨かれている。
そんな部屋の中心には、小さな、掌に乗りそうな大きさの立方体がふわふわと浮いていて。
その横には、一人の女性がたたずんでいた。
女性は紺色のドレスに身を纏っている。
真っ黒な髪床に届くほど伸びていて、その髪は真ん中あたりで乱雑にまとめられていた。
「思ったよりかは早かったわね……」
こちらを見ることもせずに、その女性は言う。
なんとなく……その雰囲気に、僕は心当たりがあった。
誰かに、似ている。
とても似ている――けれどそれは、フゥにではない。
僕たち六人に似ているわけではないのだ。
「まあ、そこの授かりの御子がずいぶん派手に迷宮を進んだみたいだから、そのせいなんでしょうけれど」
女性はまるで見てきたかのように、そんなことを言って――浮いている立方体に、手を伸ばした。
瞬間、部屋の床の光が変わる。
それまでのどこか温かいような、橙色を帯びた色から、真っ白に。
その白色は――妙なことに、拒絶するような意思を帯びているかのようで。
「初めまして……ね。エネモシティア……なんて名前が、昔あったわ」
「…………?」
エネモシティア?
妙な名前だな。
ていうかその語感にせよ、その口調にせよ、やっぱり……似ている。
「あなたたちのような……というのも、おかしな話ね。だって、あなたたちは逸脱してしまうのだから。だから『あなたたち以外の』とあえて言わなければならないのかしら……? まあ、どうでもいいことね。人間は私のことを『魔王』とだけ呼ぶわ」
「…………」
はあ、魔王さんですか……。
…………。
実感がわかないんだけど。
なんかこう、魔王ってもっと存在感にあふれてたりするもんじゃないの?
そうでなくとも魔力がすごいとか。
そういうのが一切感じられないというのはどうなんだろう。
そんな僕の心中を見透かすように、その女性は笑う。
「無理もないわ。でも本当よ……魔王なんて呼ばれてはいるけれど、その実は所詮、魔物化した人間に過ぎないのだから。だから特別何がすごいわけでもない――ただ、少しだけこの、捻じれた世界に寄っているだけ」
それだけよ、と紡いで、女性はこちらをようやく見た。
正面から見て。
ああ、と――既視感に答えを得る。
マリージアさんに似てるんだ、この人。
「まさか、私の血族が勇者になるとはね。とことん……本当にとことん、この世はままならないわ」
「……どういうことですかー?」
彼女に対し、フゥが聞き返す。
彼女はそれに笑って。
「宿命を感じただけよ」
と、答える。
宿命、か。
嫌いな言葉というわけじゃあないけど、好きな言葉ってわけでもないんだよね、それ。
「少しだけ、昔話をしてあげてもいいのだけど。それをしたらあなたたちは、きっとこの世界に何かを想ってしまう。それでは、失敗するかもしれないわ。だから……何も知らないままに、すべてを終わらせてしまいなさい」
「…………、」
「やり方は、簡単よ。勇者。あなたが、この箱に触れれば全部わかるわ」
そう言って、女性自身は箱から離れる。
しばらく――迷って。
それでも、フゥは進んだ。
そして箱に手を伸ばし、箱に触れて。
「勇者が読み取るまで、少し時間があるわ。何か聞きたいことがあるなら、答えてあげるわよ――決意が揺るがないようなものならね」
「……じゃあ、一つだけ」
「なにかしら」
「魔物って結局、『何』の影響を受けたものなの? ……ですか?」
慌てて口調を正した僕の問いかけに、彼女は笑う。
そんなことか、と。
「あなたにとっては身近なものよ。それの影響を受けた動物を魔物と呼び、それの影響を受けた人間を魔王と呼ぶ。そしてそれの影響を受けた大地を迷宮と呼ぶ――それの名前は、『錬金術』。世界が繰り返し続ける『錬金術』の影響受けたもの。それが答えよ」
世界が繰り返す錬金術……。
「世界の掛け声。ワールドコール。その名前に心当たりがあるでしょう、錬金術師。それの効果も、ね」
ワールドコール。
灰色のエッセンシア。
物質的な破損を修復する……。
世界の掛け声。
世界が繰り返す錬金術、それの局地的な呼び出しをするエッセンシアってことなのか……。
「俺からも一つ聞きたい。…………。俺たちが『消費』された後、俺たちはどうなる? 俺はともかく……カナエには両親がいる」
「…………」
彼女は洋輔の問いかけに、目を細める。
関係のないこと。そう言ってくるのか、と思ったけれど。
「あなたたちは……世界が呼んだ『授かりの御子』。本来、この世界に生まれるはずのなかった存在――この世界に生を受けることのないはずの存在に乗り移るように、この世に顕現していたの。あなたたちが消費されれば、世界はあるべき姿に戻るわ。ヨーゼフ・ミュゼという魔導師。カナエ・リバーという錬金術師。あなたたちは『存在しなかった』ことになる……だから、カナエ・リバー、あなたの父親も母親も、『自分が親であるということさえ忘れる』の。そういう意味では、未練を残したところで意味はあまりないわね……」
「じゃあ、『俺』が殺した、『俺の両親』はどうなるんだ」
「どうもこうもないわ。あなたたちが消えようと、結果は残る。あなたが殺した――その事実は、『別の誰かが殺した』ということに挿げ変わるだけのこと。生き返ることはないの」
「……そうか」
そうだよな、と洋輔は小さくつぶやいた。
なんだかんだと理屈は立てても。
あるいはどんなに強がっても。
やっぱり、根っこの部分ではずっと、引っかかっていたのだろう。
「吾輩からも問いたいのだが、かまわないかな、魔王どの。いや、エネモシティアどの?」
「かまわないわよ。何かしら」
「いやはや、実は吾輩、記憶と記録を天命として受けていてね。それでこの場に同席はしたのだが、特に授かりの御子の依り代になるだとかそいう役割がないのだよ。……まあそのあたりも含めて、吾輩の記憶はどうなるのだい? この場に居れば覚えてられるのか、それとも吾輩の記録も歪むのかな?」
「…………」
女性は少し考えるようなそぶりを見せて、
「こちらに来てみなさい」
と、ニムを呼び寄せた。
あれ?
ニムは近づくと、女性はニムの頭に手を乗せる。
そして、「そういうことか」とつぶやいた。
「また、ずいぶんと稀なケースもあるものね……。ええ、あなたは覚えていられるわ、全てをね。それがあなたの天命――あなたがあなたとして、この世界に居られる理由なのだから」
…………?
なんか引っかかる言い方だな。
「だけれど、あなた以外の誰もがこの二人を忘れてしまう。あなたがどんなに主張しても、この二人の痕跡は何一つ残らない――あなたの記憶と、あなたの記録以外からはね。ヒストリア。あなたがこの二人のことを記述し、記録するのは自由よ。だけれどそれには証拠が一つもない……整合性は、取れなくなるわ。それを覚悟のうえで、あなたが考え、そしてあなたの思うようにしなさい」
「ふうむ。となると、口伝がいいところか……」
そうね、と女性は頷く。
「授かり御子についての情報が少ないのはね。そういう存在が確かにいる――という事実は遺せても、誰がまさしくそうだった、という記録が残らないからなのよ。……とはいえ、ヒストリア。あなたにならば、あるいはそれが覆せるかもしれない。授かりの御子という存在がどのような何であるのかを、記録できるのかもしれないわ。あるいは世界も、それを望んで、あなたを呼び寄せたのかもね……」
呼び寄せる……?
もしかして……ニムも、僕たちの同類なのか?
「いいえ、違うわ」
しかし、女性は否定する。
「あなたたちとは違う。……残念だけれどね」
あるいは、幸福なのかもしれないけれど。
女性は小さく、補足した。
「それで、そこの二人。ヤムナ・シヴェルと、ウィンザー・バル……あなたたちは、何も聞かないでいいの?」
「……自分はいいです。今更、未練は抱きたくない」
「あたしも同じよ」
「そう」
女性はそう言いつつも、しばらくうつむく。
そして、突然振り向いたかと思えば、
「終わったみたいね」
と、つぶやいた。遅れて、ひらりとドレスが翻る。
少し遅れて、フゥはふらり、と。
しかししっかりと、僕たちを見据えてきた。
その目はどこか、いつもと違う。
なんだか。
少しだけ、光っているような……。
「あなたたちの献身で、良くも悪くも世界は変わる。授かりの御子『わたらいかなえ』、『つるぎようすけ』」
女性は僕と洋輔の、『あちら』での名前を呼んで。
「これまで、ありがとう。あなたたちの存在のおかげで世界を癒すことができる――あなたたちには、とても酷な時間が続いたでしょう。けれど、確かにあなたたちに架されたすべては、見事に成ったわ。だから、この世界を代表して……ありがとう」
女性は笑う。
そして、視線をフゥに遷して――言った。
「さあ、始めましょう。勇者フユーシュ・セゾン。いいえ」
あなたは覚えていないでしょうけれど、と。
女性は本当に小さく、小さくつぶやいて。
「『くるすふゆか』」
と、知らない名前を呼んだ。
勇者……って、え?
フゥのことだよね?
くるすふゆか? 誰? 日本人?
しかし、それについて深く考える時間は、僕にも洋輔にも与えられることはなかった。
「はい。……それじゃあ」
癒しを始めますと言って、フゥはくしゃりと、簡単にあの箱をつぶしてしまう。
つぶした途端。
フゥが立っている場所から、床の光の色が変わる。赤。青。緑。白。目まぐるしく、いろいろな色が同時に押し寄せてくる――僕は自然と、膝を床についていた。立っていることができない。なんだ、これは。
見るまでもなく――洋輔も、同じようで。体に力が入らない。
突っ伏すように――倒れこむ。
もうこれ以上、倒れることもできないはずなのに、僕は視点がどんどん低くなるのを感じる。
すでに体に感覚がない。
これは。
あの時。
あの路地で。
沈められた時と……同じような……。
意識が徐々に薄らいでく感覚。
なのに、目が覚めていくような感覚もする。
溶けていたものが、再び形を作るような。
なのに、僕の中から何かが溶け出してしまうような……。
ああ、
とても、
とっても、
きもち悪い。