最後の交渉(1)
大きな騒ぎのあと、街は妙に静かになる。
十万人が歩いた翌朝の東京は、何事もなかったような顔をしていた。
通勤電車はいつもどおり混み、コンビニには新商品が並んでいる。だが、駅の売店に並ぶ朝刊は、どれも昨日の集会と真田の発言を一面で伝えていた。
――十万人が法案反対を訴え
――真田氏、国民投票を提案
朝には鬼塚が叫んだだけだった「国民に問え」という言葉を、午後には真田が政治の選択肢へ変えた。
法案をめぐる争いは、賛成派と反対派のどちらが多いのかを確かめる段階へ進もうとしている。
『意見が二つに分かれれば、人は確かめたくなるものです。どちらが多いのかを』
昨夜の男の言葉が、神崎の頭に残っていた。
街が平日に戻っても、政治は昨日までの状態には戻れない。
*
朝七時四十分。
神崎が編集部に入ると、堀田部長が自分の席で待っていた。
始業前の静かなフロアで、机の上に置かれた一枚の紙だけが妙に白く見えた。
「おっ来たか」
「朝から怖い顔して、どうしたんです」
「官邸から呼び出しがあった。お前を名指ししている」
神崎は足を止めた。
「俺を?」
「午前十時半、首相官邸。非公式の説明をしたいそうだ」
堀田が紙を差し出す。神崎は立ったまま目を通した。
「取材ではなく、説明ですか」
「一応、向こうはそう言っている」
「随分、親切ですね」
「そう思うか?」
「思いません。だから聞きに行きたい」
神崎は紙を折り、上着のポケットへ入れた。
「勝手にしまうな。俺も同行する」
「部長も呼ばれたんですか」
「いや」
「じゃあ、心配でついてくる?」
「お前一人で官邸へ行かせるほど、俺も会社も度胸がないんだよ」
堀田は机の上の紙を取り上げ、ずれてもいない端を指先で揃えた。
「昨日の集会が効いたんですかね。まぁ法案を引っ込める話なら、歓迎しますよ」
「そんな話だけで、お前を名指しすると思うか」
神崎は答えなかった。
その顔には、不安より先に好奇心が浮かんでいる。
堀田はそれを見て、露骨に嫌な顔をした。
「何を言われても、その場で約束するな。記事にしないとも、誰にも話さないとも言うなよ」
「向こうが何も話さなければ、こっちから聞きます」
「何をだ」
「呼び出した理由を全部」
「だから、お前一人では行かせられないんだ」
神崎は鞄を机へ置いた。
「部長が一緒なら、遠慮なく聞けますね」
「止めるために行くんだよ」
「止まると思いますか」
堀田は抜いた煙草を箱へ戻した。
「……せめて、止めるふりくらいはさせろ」
神崎はわずかに笑った。
「努力します」
「それが一番信用できない」
*
午前十時半。
首相官邸の廊下は静かだった。
案内役の職員に通された会議室では、官房副長官の新見と二人の秘書官が待っていた。
「お忙しいところ恐縮です」
新見は、神崎と堀田へ席を勧めた。
柔らかな笑顔を浮かべているが、机の上に資料は置かれていない。記録を残すための場ではないらしい。
「率直に申し上げます」
茶が運ばれると、新見は話し始めた。
「政権としても、現行案には行き過ぎた部分があると認識しています」
「昨日の集会を見て、考えが変わったんですか」
神崎が尋ねた。
「昨日だけで変わったわけではありません。ただ、国民の不安が想定以上に大きいことは、重く受け止めています」
「十万人が集まって、ようやくですか」
新見は表情を変えなかった。
「追加負担の項目は削除します。頭髪状態の評価も義務ではなく、本人が希望した場合に限る。法案の名称を改め、外見に関する健康支援策として整理し直す方針です」
「撤回ではないんですね」
「必要な支援までなくすべきではありません」
「真田議員が提案した国民投票は?」
「党内で検討しています。実施する場合でも、国民へ示すのは修正後の案になるでしょう」
「真田議員も、この修正を了承しているんですか」
「修正の方向性については、本人にも説明しています」
「俺たちをここへ呼んだことも?」
新見は湯飲みに手を伸ばした。
「これは官邸としての判断です」
真田が知っているとは言わなかった。
「今日、俺たちを呼んだのは、修正案を説明するためだけですか」
新見は湯飲みを置いた。
「もう一つ、お願いがあります」
「お願い?」
「朝倉助教の失踪と相馬教授の転落については、警察が確認を進めています。政策や特定の企業との関係は、現時点では確認されていません」
「うちの記事でも、関係があるとは書いていません」
「承知しています。東都新聞の報道は慎重です」
「今後も書くなということですか」
「そのようなことを申し上げる立場にはありません」
新見は即座に否定した。
「ただ、政策をめぐる問題と、捜査中の事案は分けて扱っていただきたい。根拠のない憶測が広がれば、企業活動だけでなく、従業員や取引先にも影響が及びます」
「特定の企業というのは、桂ホールディングスですか」
「一般論を申し上げています」
「一般論なら、わざわざ俺を呼ぶ必要はないでしょう」
新見は答えなかった。
「政策の検討過程については、可能な範囲で資料を公開します。修正案も、専門家を交えた公開の場で議論する。政府として透明性を確保する考えです」
「その代わり、失踪事件と桂を追うなと?」
「取材を制限するつもりはありません。確認された事実に基づいて報道していただきたい。それだけです」
言っていることは正しかった。
神崎たちも、証拠のない段階で桂と失踪事件を結びつけるつもりはない。
だからこそ、この働きかけは外から見えにくい。
取材をやめろとは言わない。記事を削除しろとも言わない。ただ、政府が法案を修正し、資料も公開するのだから、これ以上問題を広げる必要はないと伝えている。
「真田議員は、このお願いも知っているんですか」
神崎が改めて尋ねた。
「先ほど申し上げたとおり、これは官邸としての判断です」
新見は同じ答えを繰り返した。
少なくとも、真田の了承を得ているとは言わなかった。
*
官邸を出ると、神崎と堀田は待たせていたタクシーに乗り込んだ。
車が動き出してから、神崎が尋ねた。
「どう思いました?」
「うまいな」
「何がです」
「取材をやめろとは、一度も言わなかった」
「でも、やめてほしいことは伝わりましたね」
「ああ。お前が自分で手を引いた形にしたいんだろう」
「真田は知らないと思いますか」
「少なくとも、あの場には関わっていないだろうな」
堀田は窓の外へ目を向けた。
「法案を通したい真田と、騒ぎを収めたい官邸。同じ与党でも、欲しい結果は同じじゃない」
「では、修正案の資料は受け取ります」
「ああ」
「朝倉と相馬の取材も続けます」
「分けて扱えと言われたからな」
堀田が口元を緩めた。
「そういうところだけ素直だな」




