デス・カイザーと疑念
潮風に乗って、漁師の声が耳に滑り込んできた。
俺は店先で爪楊枝をくわえたまま、思わず動きを止める。
(邪竜……ねぇ)
よくある噂話だ。この手の話はどこの街にも転がっている。
巨大なトカゲが一匹暴れただけで「邪竜が出た」と騒がれ、酔っ払いの与太話に尾ひれがついて、いつの間にか魔王まで登場している。
腹は海鮮丼で満たされ、潮風は心地よく、心は満ち足りていた。
こういう時間が俺の理想なのだ。
うまい飯を食って、海を眺めて、誰にも急かされずに帰る。
邪竜だの魔王だの、物騒な単語は俺の隠居生活の対岸にあるべきもので、断じて、こちら側に渡ってきてはいけない。
だから俺は、それを聞き流すつもりだった。
満たされた腹をさすりつつ、そろそろ帰るかと踵を返そうとして――
「…………」
クレイドが止まっていた。
女性風の装いのまま、漁師たちのいる方をじっと見ている。
その横顔から、さっきまでの淑やかな「妻」の柔らかさが消えていた。
切れ長の目が、ほんのわずかに細められている。
なんだか様子が変おかしい。
「クレイド、どうした」
「…………いえ。なんでもありませんわ、旦那様」
言葉だけは取り繕っているが、声が硬い。
ロールプレイに本気すぎるこの男が、ロールプレイを忘れかけているのだ。それが妙に引っかかる。
「ねぇパパぁ。あの船、おっきいねぇ!」
「ん。私も、もっと、海……」
虫取り小僧ボズと、肩に乗ったままのレイラは相変わらず緊張感のかけらもない。
まあ、二人に緊張感を期待する方が間違っているのだが。
「……少し、歩かないか」
クレイドが小声で言う。
その目は漁師たちの方ではなく、海の向こう――霞んだ稜線へ向けられていた。
遠くに黒っぽい山影がそびえている。
あれがドゥーダ山か。
・
人混みを抜け、港の外れの石段に腰を下ろす。
ここまで来ると人の姿はまばらで、波の音だけが規則正しく響いていた。
「ボズ、レイラ。少しそのあたりで海でも見ていろ」
「おや、大人の内緒話ですかな?」
「ん……デス様、すぐ戻ってきますか」
「すぐ戻る。安心してくれ」
「……はい」
名残惜しそうなレイラの背を押し、ボズと二人で波打ち際の方へ送り出す。
虫取り少年と白髪の少女が並んで桟橋を眺める姿は、傍目には微笑ましい兄妹だろう。
中身が奴隷商と恐ろしい暗殺者だと知っているのは、この場で俺たちだけだ。
「で、なんなんだ。さっきの顔は」
「……すまない。少し、考えていた」
クレイドは自らの銀髪を指で梳く。
女装したままなのに所作だけがいつもの騎士に戻っていて、ちぐはぐで仕方がない。
「邪竜の噂……あれを、お前はどう聞いた?」
「どうって、与太話ではないか。トカゲが暴れたとか、その程度のな」
「確かに、お前ほどの男にとってはそうなのかもしれない。だが——」
彼は一度言葉を切り、低く続けた。
「魔王が、邪竜を生み出して人間を生贄にしている。その噂が引っかかる」
俺は首を傾げた。道中でも、クレイドは似たようなことを言っていた。
魔王が魔竜を生もうとしているとか、瘴気がどうとか。
設定を練り込みすぎていて反応に困っている。
「お前、自分でそう言ってたじゃないか。魔竜を生み出してるって」
「言った。だからこそ、だ」
クレイドの眉間に、深い皺が寄る。
「魔物を凶暴化させ、土地を荒らす。そこまでは今の魔王のやり方として理解できる。……いや、理解したくはないが、辻褄は合う」
「ふむ」
「だが、わざわざ人間を拐って生贄にする? ……あいつは、そんな手間のかかる、悪趣味な真似をする男じゃない」
あいつ、というのが魔王を指していることは、さすがの俺にも分かった。
(……いや、クレイドにとっては「あいつ」でも、傍から見たら立派な魔王なんじゃ)
そう思ったが口には出さない。
路地裏で聞いた、あの長い回想を思い出したからだ。
怠け者で、口の悪い友人。
戦争を終わらせると言っていた男。
それが、ある時を境に「魔王」になってしまった――。
「俺の知るあいつなら、邪竜を作るなら作るで、もっと真っ直ぐに作るはずだ。生贄だの呪いだの、回りくどい儀式を好むようなやつじゃなかった」
「……人は変わるものだろう」
「あぁ、変わる。変わってしまった。それは、俺がこの目で見てきたからな」
クレイドは、自分の手のひらをじっと見つめる。
幾人もの命を奪ってきた、その手を。
「……いや。よそう。確証のない話だ」
「気になるなら、最後まで言ったらどうだ?」
「言えるほど固まっていないんだ。ただの勘だ。……勘で友を疑うのは、剣で斬るより質が悪いと思わないか?」
クレイドは自嘲気味に笑って、それきり口をつぐんだ。
(重い雰囲気だな……)
いつもの「ふっ、面白い」や「雌伏の時だ」はなく、ただ静かに友のことを案じている男になっているを
こういう時、気の利いた言葉のひとつもかけてやれたらいいのだろう。
だが生憎、俺の引き出しには「乙です」「無理すんな」くらいしか入っていない。社畜時代に培った語彙だ。
「……まあ、なんだ」
迷った末、出てきたのはそんな言葉だった。
「腹が減ってると、ろくな考えにならん。海鮮丼、もう一杯いっとくか」
「……ふっ」
クレイドがようやく肩の力を抜いた。
「お前は本当に……食えない男だ」
「いや、俺は食わないでくれ」
「そういう意味ではなくてな……」
何も解決していないが、まあ、こんなものでいいだろう。
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