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逆戻りした夢

 空一面に広がる青い色、そこにちらほら綿雲が浮かんでいる。水平線の上に白く、頭上には少し煤けた雲がある。(こしき)の浜は白砂に覆われ、沖合に養殖筏が点在していた。

 ぽつんと小さく見える筏の上で、盛んに作業をする人影があった。別の筏にも何人かの人影がうごめいている。点々と浮かぶ筏をつなぐ一本の糸。船外機を取り付けた小さな海苔船が、波穏やかな湾に細い糸を引いている。


 そんな光景が、一瞬の切り通しから垣間見えた。空調の効いた車内、ゆったりとした座席に深く腰をうずめ、向かい合わせの仲間たちと談笑する間にも列車は継ぎ目のないレールを疾走していた。


 ヒュイーーーン、ウィーーーン……


 インバーターが奏でる甲高い唸りがちいさく響いているだけである。レールの継ぎ目を踏む音はもちろん、レールと車輪が軋む音も聞こえてこない。時折突入するトンネルだけが異音の源であった。


 ドッ、ゴォーーーーーー……

 ヒィーーーン……


 トンネルから吐き出されると、急に静かになった。向かいの仲間に小声で話しかけても十分に聞こえるほどの騒音でしかないのだ。

 床下から聞こえるモータ音が高くなり、低くなり、隘路を抜けるたびに甑の浜は岬に隠れて見えなくなってしまった。


 今日は八月四日、木曜日。時刻は午後三時をすぎたところ。

 扉のむこうはビルまたビルの市街地である。つい今しがたまで眺めていた、緑の山とキラキラ輝く海は、人造物のかなたに暫しのお預けとなった。が、それも良いだろう。今日と明日さえ我慢すれば、すぐにもあの白砂を満喫できる。扉の向こうにあらわれたプラットホームを見やりながら、俺は短い休暇をどうして楽しもうかとばかり考えていた。


「さすがに新幹線は速いなあ、大阪を出て四時間かかってないぞ。昔なら、夜通し駆けた特急がまだうろうろしてる頃だろ? 便利になったもんだなぁ」

 ホームに降り立った俺は惚れぼれするように、真っ白な車体を見やった。

「そうだなぁ。初めて鹿児島へ来たときなんか、夕方ちかくに着いたもんだ。ほんと、速くなったなぁ」

 遠山は、鹿児島の歯学部を受験するまで、遠くへ旅行をしたことがなかった男である。遠山ばかりでなく、それは今日いっしょに訪れた琴音(ことね)(みやび)も同じで、二人の女性は三時間以上列車に乗った経験すらない。そのくせ、外国旅行は何度もしているのだからおかしなものだ。


「源太、懐かしい?」

 真っ白のスーツが似合う雅が、遠山の目を覗き込んで、可笑しそうに笑った。

「おうっ、懐かしい。風も言葉も、匂いがするよ、鹿児島へ来たんだなぁってな」

「そうだよねぇ、私たちの知らない六年間だからねぇ。どうせ言えないことばかりしてたんでしょ」

「よせよ、医学部も歯学部も勉強に追い回される毎日なんだぞ。雅みたいに学生気分ではしゃぐ余裕なんかあるもんか。やましいことなんか一つもないんだからな」

「どうだかねぇ、女子だっていただろうし……、このこのぅ」

 雅は、遠山をからかっては楽しそうに笑いこけた。


「雅ぃ、私知ってるよぅ、内緒で鹿児島へ通っていたこと。行くたびにきれいになって帰ってきたもんねぇ。いったい何しに行ったのかな?」

 悪戯っぽく呟いた琴音が、俺の腕をそっととった。当然いるべき場所、すべきことと決めているようだ。そして、バッグを持ったままウゥーンと伸びをした。


「あっ……」

 琴音が伸びをしたまま悲鳴をあげた。

「どうした?」

「動くな! みんな動くな!」

 甲高い声である。いつもはソフトな声なのに、慌てるとキンキン声になってしまう。

「なんだ、またか! しょうがない奴だな、ほんとに」

 琴音が悲鳴を上げるのはしょっちゅうだ。コンタクトをしているくせに、大きな目をめいっぱい見開く癖がある。どうせまたうっかり零してしまったのだろう。俺は、自分の荷物を琴音に持たせると、その場にゆっくりしゃがみこんだ。


「またやっちゃたの? あんた子供の頃から進歩しないねぇ。こんな場所で目ぇ剥く癖、早く直そうよ」

 皆、なれたものである。それほどに琴音はコンタクトを零してきたのだ。俺だって何回も、何十回もレンズさがしをさせられたのだから、要領をつかんでいる。案外遠くへは飛ばないものなのだ。


「ちょっと、勘太! あんたどこを見てるの。顔が近すぎる!」

 これまでの経験で、着ているものにひっかかっていることが多かったので、とりあえず胸元をさがしている時だった。胸のふくらみをあっちやこっちから角度を変えてレンズの反射をさがしているというのに、雅が慌てたように文句を言った。

「仕方ないだろ? こうしなきゃわからないんだからさ。服の上を見てるだけじゃないか。雅みたいなのを着てたら、俺だって遠慮するけど、琴音は清楚だからな、ちゃんと襟までボタンがかかってるんだしさ」

 胸元にそれらしい反射がなかったので、そのままスカートをしらべることにした。

 襞がたくさんあるだけに、引っかかるところが多いスカートだ。そうっと襞の裏側までしらべてみたが、それらしいものは見当たらない。どうもいつも同じところに引っかかるとはかぎっていないようだ。

 そして俺は、自分の足元をしらべ、高校生のようなスカートから伸びる琴音の足元をさがし続けていた。

「勘太! あんたどこを見てるの! 琴音のスカート覗いたって見つかるわけないでしょうが。本当にイヤラシイんだから」

 琴音の足のむこうにしゃがみこんだ雅が、俺を睨みつけている。叱られた子供のように首をすくませてみせたが、地面をさがすのに懸命な雅は、かるく膝をくつろげていた。そこに日差しが差し込んで、奥まで丸見えになっていることに気付いていなかった。ただでさえ短いスカートなだけに、奥に控える黄色の光沢が丸見えで、皺の一本、毛穴や産毛までくっきりと見えた。

「雅ぃ、たのむからそっち向いてくれよ。そんな開けっ広げに見せないでさぁ。薄い黄色だっていうのはよくわかったから」

「勘太! どこ見てるの! 本当にあんたは助平なんだから。もっと右をさがせ!」

 大慌てで膝を閉じた雅は、そのまま立ってしまった。


 周囲をいくらさがしてもみつからない。まさかと思いながら、俺は琴音の片足を持ち上げてみた。やはり何もない。

 念のためにと、もう片方をゆっくり持ち上げると、ハイヒールの底が一箇所だけピカリと光を跳ね返した。


「あった! あったぞ琴音。よかったなぁ、次は気をつけろよ」

 切符の上に薄いガラス板を載せてゆっくり立ち上がると、心配そうに成り行きを見守っていた人たちから拍手があがった。


「あぁーーーっ、どうしよう」

 恥ずかしそうにポーチをごそごそやっていた琴音が、困ったような声をあげた。

「どうした?」

「う? うん、……うっかり洗浄セット忘れてきちゃった」

「またかよ! えっらそうなこと言ったって、やっぱり琴音だわ。雅ぃ、悪いけど貸してくれよ」

 切符にコンタクトを載せているからよそ見ができない。俺が無造作に空いている手を伸ばすと、その手に紙箱が載せられた。

「わるいな」

 何気なく受け取った俺は、それを琴音におしやった。


「ちょっと、これ、ちがう!」

 琴音は小声だった、しかも早口である。

「違うって、おまえ……」

 言いながら箱を見て唖然とした。琴音を窺うと、顔を赤らめてうつむいている。どうやら、俺になんとかさせようとしているようだ。

「……雅ぃ、……気持はありがたいけどさぁ、コンはコンでも、これは違うコン……。そらぁ、ありがたく貰うけどさぁ、こんな場所で渡されたって……」

 俺たちの様子で何かに気付いたのか、雅はあらためてポーチを探った。そして、真っ赤になって俺の手から箱をひったくった。



 洗浄液で入念に洗ったコンタクトをすると、琴音は周りの人たちに丁寧に頭をさげ、遠山と雅には舌先を出して首をすくめてみせた。そして俺には、満面の笑みをみせたのである。ただし、笑顔の下には、ハイヒールが突き刺さった俺の靴があった。

「琴音ぇ、痛いって。あれは雅が悪いんだし、元をただせばお前が悪いんだぞ。どうしてあれくらいで怒るんだ? 妙な影があったなんて一言も……」

 満面の笑みをたたえたまま、一旦開放された靴に、こんどはもっと勢いよく踵が突き刺さってきた。



 俺たち四人は幼馴染である。小学校から高校までいつも同じ学校に通っていた。

 小学生の頃は喧嘩相手だった。特に雅は乱暴で、琴音は理屈で俺たちを翻弄し続けていた。中学生になって体格と体力に差がつき始めると、それがよけいに酷くなった。

「あいつら、本当にズルイなぁ。陰にかくれて暴力ふるうくせに、ちょっとさわったくらいで先生に言いつけるんだから。あぁ、頭にくる」

 遠山と俺は、よくそうぼやいていた。そういう時にかぎってそれを知られてしまうのである。


「勘太、なんか文句でもあるの? だいたいねぇ、最近生意気なんだよ、勘太のくせに。こらっ、逃げるな源太! こそこそみっともないでしょ。勘太おいて逃げるような卑怯者なんだ、あんたは。あぁ!」

 いつもこれであった。雅がまくし立てる横で、琴音が腕組みをして睨んでいる。土手で対峙する四人は、それでも仲良しだった。


 奇しくも、四人は同じ高校に合格した。だから当然、四人が列を組んで登校したものだ。

 ヒョロヒョロッと背ばかり伸びた源太。平均より背が高く、大きく胸が膨らんだ雅は、キュッと括れた腰にまでとどく髪をなびかせ、対する琴音は、ショートカットが好きだった。背こそ小柄だが、全体にやわらかな丸みをつけていた琴音は、制服を着ていなければ中学生である。が、そこはそれ、胸や腰には十分なボリュームをつけていた。俺は、相変わらずガリガリに痩せていた。とにかく、夏休みまでは四台の自転車が行進していたのだ。


 初めての夏休みが終わると、少し早い秋風がそよぎだしていた。

 二学期が始まってすぐ、雅も琴音も上級生と付き合うようになっていた。自然と通学も別々になり、やがて源太とも別れて通学するようになった。


 まず琴音が戻ってきた、そして雅も。するとまた四人での行列が再開された。


 二年生のクラス替えでまたしても琴音が去り、雅も去った。源太は次の目標を捉えて勉強に忙しかったし、俺はクラブにのめりこんでいた。だから、寂しいという気持も感じぬまま冬休みを迎えようとしていた。


「勘太! すぐ来て!」

 庭で木刀の素振りをしていた俺を、雅が呼びに来た。突然のことだった。

「なんだ? 今稽古の途中なんだけど、急ぎか?」

「うるさい! 黙って早くこい! 琴音が大変なんだから……」

 雅の剣幕に驚いた俺は、木刀をぐっと突き出して言った。

「どうする? 竹刀のほうがいいか?」

「ばかっ、早く来い。服、ちゃんと着て」

 本気で言った俺を小ばかにしたのか、雅は、急きたてるように自転車にまたがった。



 源太を加えた三人が向かったのは琴音の家である。

 ピッタリと閉ざされた入り口の前で、俺たちは声をかけ続けた。が、のんびり説得するのは俺の性に合わない。力任せに押したり引いたりしているうちに隙間が広がり、無理やり戸を開けることができた。


「わたし……、……わたし……」

 うなだれて私としか言わない琴音を、俺たちはじっと待っていた。


 じっと、じっと……。


「琴音、……あの噂、本当なの?」

 雅が一言、琴音の耳元で囁くと、それまで堪えていた涙が一気に溢れ出した。


「うわさ? 何かあるのか?」

 遠山に訊ねてみたが、フルフルと首を振るばかりである。そんな俺たちに業を煮やした雅が小声で説明してくれたのだが、琴音が、つきあっていた奴に捨てられたというのである。とかく女にだらしない奴で、琴音のことを面白みのない女だと周囲に吹聴したらしい。そして、琴音とは男女の仲であったとも自慢げに語っているそうだ。


「誰なんだ。そいつの名前を言え、今から半殺しにしてやる」

 カーッとなった俺は立ち上がった。だてに剣道部の主将をしているのではない、腕っ節には自信がある。

「落ち着け勘太。そんなことをしたらお前が悪者になるだけだ。それより、もっと困らせてやろう。一生をだいなしにしてやるんだ」

「一生だいなし? そんなことができるのか?」

「頭を使え」

 遠山は俺のズボンを強く引いて、とにかく座れと促した。


「そいつに脅しをかけてやろう。心配するな、俺たちは絶対安全な脅しだ。いいか、琴音が警察に駆け込んだらどうなる? それもな、大学合格直後とか、就職直後にだ。そいつには、いつ強姦で訴えるかわからんと脅すんだ。そんなことになったら、学校も就職もパアになる。きっとビクビクしたまま卒業だし、卒業した後もビクビクするだろう。それで、勘太の役目だけどな、琴音のSPをやってくれ」

「SPだと?」

「おまえ、琴音が好きなんだろう? だったら守ってやれよ」

 たしかに、俺は琴音に淡い恋心をいだいていた。それは中学の頃からである。琴音とたわむれる夢を見ては夢精したこともある。だけど、あまりに親しすぎたからか、それを言い出せぬまま今になっていた。


「ちょっとぉ、二人とも琴音のこと考えてる? なにを二人で盛り上がってるの、まったく。とりあえず今日はこれで帰るけど、勘太、あんたはしばらく残って琴音についててあげて。それで、毎朝琴音を迎えにくるの。いいね!」


 それから琴音は、しょっちゅう俺のそばにいるようになった。不安げに俺の上着をいつも握っていた。

 そのうち手をつなぐようになり、迎えた冬休みに、俺は琴音と結ばれた。苦痛を訴えなかったから、きっと噂は本当だったのだろう。



 雅も似たようなことでふさぎこんだ。元気者の雅が、正月だというのに琴音のところに居座ってしまったのである。俺と琴音は、からだを交えたことで情がこまやかになっていた。いつも一緒にいたいと思っていた。そこへ雅がおしかけてきたのだが、顔色が優れないし、話をしても生返事である。

 こんどは琴音の出番であった。長い時間をかけて雅の口をほぐしてみると、品性のない女だと言いふらされたことを気に病んでいるらしい。決してそんなことはない。雅は元気なだけで、荒っぽくもなければ場違いな冗談も言わない。きちんと場の空気を読める奴なのだ。


「源太、雅の係はお前だからな。腕っ節ならいつでも貸すけど、雅は天敵だし、俺は琴音で手一杯だ」

 考えてみれば、俺の一言が幼馴染四人の結束を決定づけたのかもしれない。



「ねえ勘太ぁ、雅きれいになったよ。どうしてだろう」

 新入生を迎える直前だった。雅の微妙な変化に、琴音が気付いてしまった。恥らうような、甘えるような仕草を遠山だけにみせるようになったのである。


「あいつら、さては助平なことをおぼえたな」

 月に一度くらいからだを重ねていた俺は、先輩風をふかせてにんまりしたものだ。そのとき決まって、琴音は、満面の笑みを花咲かせながら俺の脚を踏みつけた。



 前置きが長くなってしまったが、俺たちは幼馴染でありながら、それぞれが将来の伴侶なのである。その四人が、うきうきと鹿児島に降り立った。開業間もない新幹線の旅である。遠山の恩師が亡くなって丸六年、その七回忌にあわせてやってきたのだ。もちろん法要には遠山一人が参列するのだが、ついでに甑島での夏休みをすることが目的だった。


 四人がぞろぞろと出口へ移動する。当然のように、先頭は遠山である。

 遠山に続いて、俺も切符を自動機に挿しいれた。と、遠山が通り抜けたとたんにゲートがパタンと閉じてしまった。あろうことかキンコンとチャイムまで鳴りだした。隣でも雅が通過できたのに、琴音が俺と同じめに遭っている。

 駅員は、同じ不具合がほぼ同時に起こったことに首をかしげていた。


 遠山は、俺たちを城山にある観光ホテルに案内した。夜までの間に恩師への挨拶をすませるつもりらしく、雅も当然のようについてゆくことになった。残された俺と琴音は、ホテルの薦めのままに城山の散策にでかけた。


 異国を二人きりで歩くのは、まるで新婚旅行のようである。

 誰も知った者のいない町、見慣れぬ街路樹。通る車のナンバーさえもが、異国にいることを実感させ、俺たちは開放感を味わっていた。

 なるべく日陰を選びながら事あるごとに足を止め、そしてやっぱり桜島の威容にみとれたのだが、行く手に人だかりをみつけた。


 青ざめて蹲っている青年を老人がみつけたようで、浅い息をして口から涎を垂らしている。


「ちょっとごめんなさい」

 琴音は脈をとった。額に手を当て、目蓋を開けてみる。


「熱中症のようだよ。日陰に移しましょう。誰か缶ジュースを買ってきてください。大きいのを四本。それと、救急車をお願いします」

 テキパキと指示をして、青年を木陰に移した。


 琴音は、届いた缶ジュースを脇に挟ませ、もう一本を太股に挟ませた。そして最後の一本を、ジャバジャバと服の上からかけてしまった。

「これでいくらかは回復するでしょう。救急車が着たらそう言ってください」

 あっさりしたものである。そこまでし終えたら、興味をなくしたかのように立ち上がった。

「大丈夫なのか?」

「今はこれ以上できないよ。だから心配しても意味ない。ねっ、帰ろうよ」

 琴音は、さっきまでと同じ歩調で歩き始めた。


 翌日、俺たちは観光をしながら串木野にやってきた。いよいよ明日から甑島でのバカンスなのだ。ついはしゃぐのを抑えきれずに琴音に足を踏まれてしまう。だけど、その琴音でさえ興奮をかくせないのか、二人きりになるといつもと違う姿をみせた。


 そして、潮風に吹かれて渡った島の美しさに、俺たちは絶句した。水も空気も、ここが日本かと信じられなくなるほど澄んでいた。


 その夜も、日焼けでぴりぴりするのを苦にせず絡み合った俺たちは、冷房の効いた部屋の中から真っ暗な海を眺めていた。そう、上掛けも何もないベッドの上で、俺は琴音の肩を抱いていた。

 フットライトの淡い灯りが、鏡のように二人の裸体を映し出し、その奥は漆黒の闇しかなく、世界を創世した伊邪那岐と伊邪那美のようだ。


 ドンドンドンドン、ドドドド……


 地鳴りが突然聞こえてきた。


 まずい!


 思う間もなく大地が激しく揺れた。

 ベッドサイドに置いた飲み物やタバコが吹っ飛ぶほどの揺れである。俺は咄嗟に琴音をベッドに押し倒し、その上に覆いかぶさっていた。


「琴音、服を着ろ。パンツを穿けよ」

「馬鹿! 下着くらい忘れないよ」

「馬鹿! ズボンだ、ズボンを穿け。なかったら俺のを穿け」

「勘太は?」

「着替えをもってきてる。それと、運動靴を持ってきたか?」

「荷物の中に」

「いいか、ベッドを下りるな。靴を履いてからにしろ」


 次々に襲う余震の合間をぬって琴音に身支度をさせ、俺は、隣部屋の遠山と雅の確認にむかった。


「勘太―、かんたーー」

 琴音の叫び声がした。

 抱き合ったままうろたえている遠山と雅に身支度を言いつけ、部屋に戻ると琴音が窓の外をしきりと指差している。

 その先は真っ暗なはずなのに、妙にくっきりとした白波が、横一線に広がっていた。



 白波がグングン近づいて、あわや岸にのし上げるところで異変がおきた。


 岸の間近に迫った白波が、急に沖へ退いてゆくのである。と同時に、どうしたことか俺は後ろ向きに歩いて遠山と雅の前に立った。なにやら意味のわからない言葉を言うと自分の部屋に戻り、着ているものを全部ぬいでしまった。


 琴音を組み伏せていたあと、激しい地震に何度も見舞われ、それがおさまったら琴音と抱き合ったのである。しかも、その後で二人してシャワーを浴びた。

 ところが、水が排水口からわき上がってくる。それがからだを伝い、シャワーヘッドに吸い込まれてしまった。


 何もかもがこうなのである。映画を逆回ししているように、口から食べ物を吐き出し、箸できれいに盛り付けをする。

 水しぶきが大粒になり、塊になり、俺は足から岩へ飛び上がった。

 後ろ向きに乗り込んだ連絡船は、船尾の盛大なしぶきを吸い取るように速度を上げた。

 バシャンバシャンと上下に揺れるのを楽しそうに笑っている。髪の毛がウェーキに向かってなびいているのに、船はすごい勢いでウェーキをかき集めるように後退していた。


 これはいったいどういうことだろう、すべてが逆回しなのである。しかも、それが倍ほどの速さで戻ってゆくのだ。

 琴音と裸で抱き合っていると思えば、ご丁寧に一枚づつ服を着せ、救急車に追い越されながら公園を歩く。そして、駅の出口で切符をもらい、なぜか一旦自動回収機にぶつかったあとでプラットホームへ。足を踏まれて車両に乗り込んだ。

 これまでの行動を寸分の狂いもなく逆戻りしているのである。


 いったいどうなるんだろう。


 そんな不安をよそに、どんどん過去へ逆戻りである。その間というもの、音も話し声も逆戻りである。だから、何を言っているのかはまったくわからない。ただ、二日前の出来事も一週間前のできごとも、あらためて確認することになった。うろ覚えだったり、もう忘れてしまったことでさえ、鮮明に思い出したのである。




「松永さぁーん、おはようございまーす」

 とても馴染んだ声に目が覚めた。大きく息を吐いて目をこすると、白いナースキャップを載せた顔が間近にあった。

「かぁーんたっ、早く起きないとご飯抜きにするよぉ」

 琴音がニコニコしながら見下ろしている。そして、そっと唇に触れた。

「おい、職場でそういうことをするなよな、淫乱看護婦って噂になるぞ」

「ばぁーか。生意気だよ、勘太のくせに。そんな噂になったって、無理やりされたって言い逃れができるんだから、女は強いんだよ。それとね、今は看護師っていうの。男性もいるんだから、ごっちゃになっちゃう」

 子供の頃から言われ続けてきた科白が反ってきた。

「とにかく、今日は退院だからね、しゃきっとしてよ」

「わかったよ、うるさいんだから。そのうち泣かせてやるからな、おぼえとけ。それで? もう退院していいのか?」

「まだまだ。診察を受けてからだから、十一時頃じゃないかな。ちゃんと待っててあげるからね」


 俺が、転げまわるほどの腹痛で唸っていたとき、いつものように遊びにきた琴音が血相を変え、自分の勤める病院に運び込んだのだ。そして簡単な検査を受け、緊急手術となった。急性虫垂炎だった。

 そのとき琴音は、自分の婚約者だからという口実で、みずから剃毛をした。見た目は幼いが、頼もしい相棒なのだ。



 そして病院から開放されたとき、一つのアクシデントがおきた。移動に利用したタクシーがパンクしてしまったのだ。それと、自宅の部屋には夢でみたのと同じ柄のカーテンが下がっていた。

 タクシーのパンクといい、カーテンの柄といい、どっちも夢でみた通りなのだ。

 だとすると、明日は東名高速で大事故がおきるのだろうか。まさかと笑い飛ばした反面、ひょっとしてという興味が湧いてきた俺は、軽い気持でそのことを琴音に話してやった。


「なあ、ひょっとすると、明日東名高速で大事故がおきるぞ。トンネルの出口で玉突きなんだが、悪いことに火が出るんだ。何人も死ぬ」

「またぁ、勘太は冗談ばっかりだから。とにかく、からだが完全じゃないんだから今日は寝るんだよ。私も早く寝ないと今夜の仕事に遅刻するから」

「ここで寝るか?」

 ベッドの片側を軽く叩くと、

「ばぁーか。お母さんに見つかっちゃうよ」

 琴音はまたしても唇に触れた。そういえば、琴音は高校を卒業する頃からおばさんとは呼ばずに、お母さんと呼んでいる。呼ぶ琴音も、呼ばれる母親も、自然な言葉を交わしていた。


 翌日、まさかと思っていた東名高速の事故がおきてしまった。場所はトンネル出口で、何台もが炎に包まれたのだ。

 仕事帰りに立ち寄った琴音も、事故を告げるニュースを驚いたように見つめていた。


「勘太、当っちゃったね。なんで? ねぇ、どうしてわかったの?」

「……なんでって、まさか当るとはなぁ」

 俺は、昨日の出来事が夢で経験したのと同じであることを話した。


「そっかぁ、今はパンクなんてしないよねぇ。だけど、カーテンの柄? 勘太が買ったのじゃないの?」

「俺がそんなもの買うと思うか?」

「あぁ……、だらしないもんね。それじゃあ、お母さんが買ってくれたんだ、それで事故か。不思議ねぇ。……ねえ、どこまで覚えてるの?」

「何が?」

「勘太の夢、どこまで続いてた?」

「夢か? それが……、どうしてかわからないんだけど、しっかり覚えているんだ。鹿児島旅行まで続いてた」

「鹿児島って、あれ八月だよ。まだ二ヶ月も先のことじゃない」

「そう……なんだけど、何があったかちゃんと覚えてるんだ」

「ちょっと待って」

 琴音はカレンダーを外してきた。たしかに今日は六月で、ペラペラめくったところに赤丸が並んでいる。

「じゃあさ、覚えていることを言ってみて、書くから」

 そう言って、今日のところに大事故と書いた。

「明日は?」

「平和だ」

「明後日は?」

「何もない」




「ふうん、いろいろ覚えているんだね。ねえ勘太、思いつきじゃあないよね?」

 俺が答えることを全部書いて、琴音はペン尻で頭を掻いた。


「じゃあさ、鹿児島旅行は?」

「覚えてるよ。大阪から鹿児島まで一息だった。車販のコーヒーを買ったらチョコレートをくれたことも、大阪で買った弁当だけでは足りないからって、源太がかしわ飯を買ったことも。たしか五両目の前よりだったなぁ。海を見たから右側の席だった。向かい合わせにして、たしか俺は窓側だったなあ」

「ふうん、それで?」

「鹿児島に着いたとき、琴音がホームでコンタクトを落としたんだ。またかってさがしていたら、雅がしゃがんでな、黄色い下着が丸見えになって。おかげで琴音に足踏まれた」

「はぁ……、なんともいえない、良い夢だったんだね」

「それでな、琴音が洗浄セットを忘れてしまったから雅に借りたのだけど、あいつそそっかしいから避妊具をよこしたんだぞ。俺たちみたいになま……」

「かぁーんたっ」

 上機嫌の声だった。遊園地ではしゃぐようにはずんでいた。

「踏まれたい?」

 最高レベルの笑顔がそこにあった。


「それから……、そうだ! 駅を出ようとしたら機械が壊れて、キンコン鳴っちゃったのさ。それも、隣を通ろうとした琴音もいっしょに。ほかは……、そうだ! 二人で城山公園を散歩してたら、熱中症の若者がいてさ、琴音が応急措置をしてやった。それで……、次の日は串木野の旅館で泊って。翌朝、そこから島へ渡ったんだ」

「ふうん。……天気は?」

「ずっと晴れててさ、おかげで真っ赤に日焼けしたんだ。肌がピリピリしてそれどころじゃないのに、琴音が夢中になる」

「かんたぁ、本当に踏むよ」

「しかたないだろ、夢の説明をしてるだけじゃないか。とにかく頑張って、ベッドで二人して海を見てたんだ。そうしたらな、グラグラッと、すごい地震だよ」

「地震?」

「ベッドサイドの飲み物がふっとぶくらいの地震だ。琴音をベッドに押し倒して、覆い被さってやったんだぞ。そうしたら、海に白い線が現れてどんどん近づいてきた。海が盛り上がって、白い線が岸に当りそうになったとき、見えてるものが突然逆廻りを始めたんだ」

「逆廻り? なにそれ」

「わからないんだけど、映画を逆転させてるみたいになって」

「それで?」

「見えるものだけじゃなくて、音も逆転したんだぞ。それが長ぁいこと続いて、琴音の声で目が覚めたということさ」

「長い夢ねぇ……。片道だけでも長いのに、往復しちゃったの? ご苦労さんだったね。それだけ長かったら助平な要素はないだろうから、それもいいかもね」

「ちゃんと聞いてた? 琴音と頑張ったって言ったろ?」

「ばか、そんな夢みるな」

「いいじゃないかよ、夢なんだから。鹿児島なんか、三日連続だったんだぞ」

「勘太のばか!」

「だけど、そんなこと書いてどうするんだ?」

「別にどうもしないよ。どれだけ覚えているか整理しただけだから」

「だよな。でもさ、昨日のパンクとカーテンは実際に起こったことだし、今日も事故が。だから、……こうしようか」

 俺は現実となったところに赤丸をつけた。

「そっか。そうすれば夢の出来事が現実と関係あるかわかるよね。へっ、アイディア出したのは私だからね」

 琴音の笑顔が花開いた。

「けどさぁ、最後のって、津波なの?」

「見たことがないけど、きっとそうだ」

「……」

「……」

「どうする?」

「どうって?」

「もしもだよ、もし次からつぎへと現実になったら、……大地震がおきるの?」

「まさか……、そんなことあるわけないよ」

「……」

「……」

「でも、いろんなことが現実になったら?」

「だから、そんなことありえないって」

「……ありえたら? 私たち、結局そこへ行くの? 行かずにできる?」

「そんなこと、……だいたいが夢なんだからな、そんな……心配……」

「ねぇ、……どうする?」

「心配するな。琴音のことは守ってやるから。とりあえず様子をみようぜ」

 それで納得したのかどうか、琴音は強く唇を押し付けてきた。


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