04
アトリーが来てから、ちょうど六ヶ月が経過した。
「ぎりぎり間に合った、のかな?」
「そうですね。何カ所か手抜きの部分もありますけど」
完成した翻訳ノートをアトリーがそっと撫でる。
本当は映像に字幕を入れたかったのだが、その時間はなかった。
「では、改めて」
「そうだな」
モニターの前に二人で並んで、俺たちは日本語版のその作品を見た。
森に迷い込んだ少女が妖精と出会う。仲良くなった二人は毎日のように森で遊んでいたが、ある時大勢の大人がやってきて、森の木々を切り倒し始めた。少女は泣きながら抵抗するが、大人に敵うはずがない。妖精も不思議な力で大人たちを追い払おうとするが、神秘の力を信じない大人たちは、畏れることなく森を壊し続ける。やがて妖精は力を失い、少女の目の前で消滅してしまった。
破壊し尽くされた森は、きれいに造成されて、跡にはいくつもの建物が建ち並んだ。たくさんの人間がそこに住み始める。だがその土地には、草も花も木も、作物さえも育つことがなかった。どんなに肥料を与えても、どんなに水を与えても、何一つ育つことはなかった。動物も寄りつかず、鳥ですらそこにやってくることはなかった。
その土地は呪われた地として人々から恐れられ、ついには見捨てられた。
数年後、一人の女性がその地を訪れる。その女性は、ひび割れたアスファルトの大地に座り込むと、涙を流しながら誰かに向かって謝り続けた。額を地面にこすりつけていつまでも泣いていた。そしてそのまま、女性は息絶えた。
その直後、あり得ない現象が起こる。女性の骸を苗床にして、草木が育ち始めたのだ。それは大地を埋め尽くし、草原となり、林となり、やがて森となった。突然現れた森に人々は驚き、科学では説明のつかないその現象に畏れを抱いた。そして、超科学的なものがこの世に存在するのだということを知る。
森は成長を続けた。動物や鳥が大地に溢れた。そんなある日、森に一人の少女が迷い込む。そこで少女は、不思議な存在、妖精と出会った……。
エンドロールが終わり、モニターが暗くなる。それでも俺は動かなかった。アトリーも動かなかった。
俺が拳を握り締める。アトリーがノートを抱き締める。
カタン
オートイジェクトでディスクが吐き出された。
勇気を振り絞って、俺が言った。
「二人で、写真を撮らないか」
驚いてアトリーが俺を見る。
アトリーが、うつむく。
「写真は……だめです」
アトリーは写真が嫌いだった。これまでもずっと断られていた。
俺が肩を落とす。落胆している俺を見て、アトリーが言った。
「目を、閉じてもらっていいですか?」
「目を?」
意味は分からなかったが、俺は素直に目を閉じた。
「絶対に開けないでくださいね」
「分かった」
そう言ったのに、わざわざアトリーは、手のひらで俺の目を塞いだ。
柔らかくて、少しひんやりする。
部屋、寒かったか?
そんなことを考えた俺の呼吸が、止まった。
「!」
初めて知る感触。
暖かくて、とても柔らかい何か。
やがて熱が離れていった。
視界がゆっくりと解放される。
「写真のかわりです」
そう言うと、アトリーは勢いよく立ち上がった。
「最後の夕食は何にしましょうか。和食? それとも洋食?」
「……じゃあ、和食で」
「分かりました!」
アトリーがキッチンへと向かう。
俺が呆然とその背中を見つめる。
忙しく動き始めたアトリーを目で追いながら、まだ残るその感触を確かめるように、俺は、人差し指で、そっと自分の唇に触れた。
少し前から、いくつかの星の言葉で同じアナウンスが流れていた。月へ向かう便は、どうやら定刻通りに出発するらしい。
天候は晴れ。風もなく、フライトには何の支障もない。
それが、今は恨めしい。
「本当にお世話になりました」
「いや……」
頭を下げるアトリーを、俺は見ることができなかった。
ずっとずっと言えなかった言葉。
ずっとずっと前から抱いていた気持ち。
それを伝えるラストチャンスが、今訪れている。
ひんやりとした手のひらと、暖かくてとても柔らかい何か。
夢だったのかと疑いたくなるほど、あの後アトリーは普通に笑い、普通におやすみなさいと言った。
だが、あの出来事で、俺は想いを告げると決めたのだ。
友人には見送りに来なくていいと連絡してある。誰かに邪魔をされる心配はない。
会話のシミュレーションは何度もした。そのせいで、昨夜はあまり眠れなかった。
準備は万端のはずだった。
決意は固いはずだった。
それなのに。
今さらだよな
弱気の虫が顔を出す。
こんなタイミングで言われたって、きっと困るよな
言い訳ばかりが頭をよぎる。
俺は、自分の不甲斐なさに心の底から失望していた。勇気の欠片もない自分に腹が立った。
この時の俺は、もの凄く不機嫌な顔をしていたに違いない。だからだろう。アトリーも黙ってしまった。
このままではいけない
せめて笑顔で見送らないと
俺は、気力を振り絞ってアトリーを見た。
その時。
「写真を、撮りましょうか」
唐突にアトリーが言った。
「えっ?」
俺が目を見張る。驚く俺に構うことなく、横を通り過ぎようとしていた空港のスタッフを呼び止めて、アトリーは自分のスマートデバイスを手渡した。
隣に並んでアトリーが言う。
「はい、笑ってください」
俺は戸惑った。
「えっと、いいのか?」
「大丈夫です。だから笑ってください」
アトリーが俺を見る。
その顔には、少し緊張した微笑み。
「……分かった」
返事をして、俺は前を向いた。
「撮りますよ」
スタッフの声で俺は笑った。もの凄く頑張って笑った。
スタッフが撮り終えると、アトリーが駆け寄って写真を確認する。
「ありがとうございました」
「どういたしまして。よい旅を」
スタッフが去って行くと、アトリーはデバイスをそのままバッグに入れてしまった。
「写真は、あとで送りますね」
俺には見せてくれないらしい。
分かりやすく失望している俺に、アトリーが笑う。
「私、あなたと出会えてよかったです」
「俺も、きみと出会えてよかったよ」
情けないが、これが今の俺の精一杯だ。
「じゃあ、行きますね」
「体に気を付けて」
アトリーがバッグを持つ。
アトリーが背中を向ける。
アトリーが歩き出す。
アトリーの姿が出発ロビーに消えていく。
急に色褪せてしまった風景に向かって、俺が言った。
「アトリー。俺は、きみのことが、好きだ」
やっと言えた言葉。
それが、その人に届くはずもない。
「ほんと、情けないよな」
俺は泣いた。周りに気付かれないよう、窓にへばりついて、空を見上げながら泣いた。
……と。
ブブブブ……
俺のデバイスが震えた。このバイブパターンはメッセージの受信だ。
ポケットからデバイスを取り出した俺は、慌てて涙を拭いた。送り主はアトリーだ。ファイルが添付されている。きっとさっきの写真だろう。
この期に及んで、俺はつまらない期待をしてしまう。
もしかしたら、アトリーも俺のことを……
緊張しながらメッセージを開く。
そこあったのは、たったの一言だけだった。
ごめんなさい
意味が分からないまま、俺は写真を開く。
そして俺は、パニックを起こした。
そこに写っていたのは、俺と、アトリーではない、別の誰かだった。