03
アトリーが来てから三ヶ月が過ぎた、とある休日。
「この家は、少し無機質だと思うのです」
真剣な顔でアトリーが言った。
「そうかな」
俺が首を傾げる。
テーブルから身を乗り出しながら、アトリーが主張した。
「生活空間には彩りが必要です。もっと自然の色を取り入れるべきだと思うのです。そうすれば、あなたももっと元気になると思うのです」
たしかに、この家の中は飾り気がない。必要最低限のものしか置いていないし、家具の色も全体的にモノトーン。
だが、俺の健康状態は良好だ。顔が青白いのは俺がインドア派だからであって、体調が悪い訳ではない。
と、反論したい点もあるにはあったが、部屋に彩りを取り入れることに反対する理由はなかった。
「彩りって、一体どうするんだ?」
「部屋に、鉢植えを置いてみませんか?」
「鉢植え?」
「はい」
「まあ、いいんじゃないか」
「ありがとうございます! じゃあ、早速買いに行きましょう!」
「今から?」
「そうです!」
アトリーが勢いよく立ち上がる。
「さあ、早く!」
促されて俺も立ち上がる。
こうして俺たちは、近所にある花屋へと向かうことになった。
アトリーと並んで歩くのは、寿司屋に行って以来だ。
「そう言えば、二人で買い物に行くの、初めてですね」
「そう言えば、そうだな」
買い物が楽しいのか、それとも花屋に行くのが楽しみなのか。アトリーは、家を出る時からご機嫌だった。気の利いた返事もできない俺に、何かと話し掛けてくる。
天気がいいとか風が気持ちいいとか、あの時のお寿司は美味しかったとか。
天気も風も、俺にとってはどうでもよかった。アトリーとこうして歩けるだけで嬉しかった。
それを表に出さないように、俺は無愛想な返事をし続けた。
時間にして二十分くらい。住宅街を抜けた先に花屋はあった。
店の前に立った途端、アトリーの目がさらに輝く。
「花、好きなのか?」
「はい、大好きです!」
嬉しそうに答える笑顔がとても眩しい。
「何かお好きな花はありますか?」
「特にないから、任せるよ」
「分かりました!」
俺の返事を聞くと、アトリーは足早に店の中へと入っていった。そして、店員に質問を浴びせながら、楽しそうに鉢植えを選び始めた。
一つ一つ手に取ってはじっくりと眺める。いくつも鉢を並べては、頬に手を当てて悩む。
その姿を見て、俺は微笑んだ。店員がアトリーに普通に接してくれているのも安心した。
一時間近い買い物の末、俺たちは両手にいっぱいの鉢植えを買った。
家に帰ると、アトリーはすぐに鉢植えを置き始めた。玄関、リビングのテーブル、部屋の窓辺。家の中が様々な色で彩られていく。
一つ置く度に、アトリーは鉢植えに話し掛けた。
「これからよろしくね」
向きを直しながらアトリーが言った。
「大切にするからね」
微笑みを浮かべるアトリーは、とてもきれいだった。
花びらにそっと触れるその姿は、とても美しいと思った。
最後の一つを俺の部屋に置いたアトリーが、優しく花を見つめる。
その横で、鉢の入っていた袋を片付けながら俺が言った。
「手入れ、俺も手伝うよ」
「え?」
「花によって、気を付けることが違うんだろ?」
店員とアトリーのやり取りを聞いていて、手入れが意外と大変なことを知ったのだ。
「アトリーが大切にするものは、俺も大切にしたい。だから、俺も手伝う」
アトリーが目を丸くする。
「ありがとうございます」
そう言うと、アトリーはうつむいた。
「嬉しいです」
うつむいたままアトリーが言う。それきりアトリーは動かなくなってしまった。
その反応に、俺は狼狽えた。何かまずいことを言ってしまったのだろうか。
「えっと、ひと区切りついたらコーヒーでも飲もうか。お湯を沸かしてくるよ」
そう言って俺はそそくさと台所へと向かった。
その後アトリーは、しばらく部屋から出てこなかった。
「明日は和食がいいですか? それとも洋食?」
「えっと、じゃあ和食で」
「分かりました!」
アトリーが来てから四ヶ月。近頃俺は、早起きして朝食を食べるようになっていた。
俺はエンジニア。だから、というとほかのエンジニアに怒られそうなのだが、仕事に夢中になると食事の優先順位が下がる。一日中ろくに食べずに過ごすことも珍しくない。
という話をアトリーにしたら、本気で怒られた。で、朝食だけでも食べてほしい言われ、今日に至っている。現金なもので、寝坊魔だった俺が目覚ましできっちり起きるようになった。
アトリーが作った朝食をアトリーと一緒に食べる。朝からテンション上がりまくりだが、それを顔に出さないようにするのにいつも苦労する。
最近体調がいいのは、朝食の力か、それともアトリーの力か。
体調だけでなく仕事も絶好調で、昨日はクライアントからお褒めの言葉をいただいた。
「このアイデアは凄くいいね。AIには出せない素晴らしい発想だよ」
上司も鼻高々で、次のボーナスは期待していいぞと言われた。盛り上がる気分のまま、高級スイーツを買って帰ってアトリーを驚かせたりもした。
何もかもが順調に思えた。
だが、順調であればあるほど、俺の中の不安は膨れ上がっていくのだった。
アトリーが来てから五ヶ月が経った。
「はい、お弁当です」
「ありがとう」
可愛らしい包みを受け取りながら、しかし俺の顔に笑みはない。
「今日のお弁当には研究の成果が詰まっているんです。帰ってきたら、ちゃんと感想を聞かせてくださいね」
「分かった」
元気に手を振るアトリーに見送られて、俺は家を出た。
最近アトリーは、日本の文化について勉強をしていた。とくに和食の研究に力を入れているようだ。その一環として、俺に弁当を作ってくれている。
嬉しくないはずがない。冷やかしてくる同僚たちに心の中で自慢しているくらいだ。
それでも、俺の心は浮かなかった。弁当を食べ終わると、いつもため息が出た。
定時になるのが待ち遠しかった。休みの日が来るのが待ち遠しかった。
カレンダーが進んでいくのが、恐ろしかった。
そんなある日。
「もしよかったら、このアニメの翻訳を手伝ってもらえないでしょうか」
唐突にアトリーが言った。
その手に持つのは、古いアニメーション作品。森に住む妖精と人間の少女との交流を描いたファンタジー。その日本語版だ。
「私の星の言葉に翻訳したいのですが、日本語がとても難しくて、なかなか進まないのです」
アトリーからそれを受け取って、俺はパッケージを眺めた。
この星における公用語は英語だ。地球語といえば英語を指す。学校では必ず英語を勉強するし、一定の学年からは授業も英語で行われる。仕事はもちろんすべて英語だ。
それでも、それぞれの地域の言葉は人々のあいだに受け継がれていた。俺も、実家に帰れば日本語を話す。
「お願い、できないでしょうか」
ディープグリーンの瞳が俺を見つめている。
その目は真剣だった。
その目には、なにか切実なものがあった。
「……分かった」
「ありがとうございます!」
嬉しそうなアトリーに、俺も久し振りの笑顔を返した。
翻訳というのは、単純な言葉の変換作業ではない。ということを、実際に翻訳を始めてから痛感した。
言葉と言葉の変換ではなく、文化と文化の変換。台詞やナレーションだけでなく、描かれている風景や風習などについてもその意味が伝わるようにしなければならない。
俺が説明し、アトリーが何度も質問を繰り返して、やっと一つのシーンの翻訳が完成する。俺が質問に答えられないことも度々で、その都度俺は、己の無知を呪いながら調べ物をするのだ。
俺は、仕事以外の時間のほとんどを翻訳作業に費やした。
アトリーも、家にいるあいだは翻訳作業に没頭していた。
時間が飛ぶように過ぎていった。容赦なくカレンダーが進んでいった。
そして、ついにその日がやってきた。




