02
朝起きてリビングに行くと、アトリーはいつも、コーヒーを飲みながらタブレットの画面を指でなぞっていた。ニュースや天気をチェックしているらしい。
「おはようございます」
真っ直ぐな視線ときれいな声が俺の頭の中に飛び込んでくる。俺は動きを止め、軽く咳払いをしてから答える。
「おはよう」
アトリーが来てから毎朝繰り返されるやり取りだ。
最初のうちはパジャマのままテーブルについていたのだが、今では、顔を洗ってひげを剃り、髪をセットし、服を着替えてからリビングに顔を出すようになっている。
アトリーは、故郷では一人暮らしをしていた。そして、おそらく、恋人のような存在はいない。
それを知って以来、俺の想いはさらに加速している。
「コーヒー、お飲みになりますか?」
「あ、うん」
「ちょっと待っててくださいね」
タブレットを静かにテーブルに置いて、彼女が立ち上がった。
後ろでまとめた髪がしっぽのように揺れる。ロングスカートの裾がひらひらと踊る。
立ち上がって、歩いて、カップを取り出して。
その姿を見ているだけで、俺は幸せな気持ちになった。
「本当は、食事も取った方がいいと思うんですけど」
「まあ、ね」
カップを受け取りながら、俺は曖昧に返事をする。
朝食なんて、もう何年も取ったことがなかった。ぎりぎりまで寝て、ぎりぎりに家を出て、ぎりぎりに会社に着く。そんな生活が染みついていた。アトリーのコーヒーがなければ、あと十五分は寝ていたいところだ。
在宅勤務が認められるなら是非そうしたいのだが、過去に行われた大規模な社会実験の結果、在宅勤務は生産性を落とすという結論が出ている。俺の会社も、事情のある社員以外は全員出勤が義務づけられていた。
「今夜も遅いんですよね?」
「そうだと思う」
「分かりました」
アトリーは自分のカップを飲み干すと、それを洗って部屋へと戻った。彼女もこれから支度をして学校だ。こんな感じで、平日は朝のコーヒータイムくらいしか共有できる時間がなかった。
休日も、アトリーは勉強で部屋に籠もることが多いので、顔を合わせることがあまりない。勉強中のアトリーに声を掛ける正当な理由などないし、アトリーの邪魔をするなんてしてはいけないと思う。
だけど。
もう少しだけ。
もう少しだけでいいから、アトリーと過ごす時間を増やしたい。
募る想いを成就させるべく、俺はある作戦を決行することにした。
アトリーが地球に来て二ヶ月が経った。それを記念して、という強引な理由をつけて、俺は初めて彼女を外での食事に誘った。
俺の調べた範囲ではあるが、アジュール人は肉を好む。だが、アトリーは魚が好きだった。とくに生魚が好きで、刺身は喜んで食べる。だから、今日の店は寿司屋を選んだ。異星人入店可、かつ俺の懐にも優しい店だ。
予約したテーブルに着くと、女性の店員がにこやかにやって来た。
「こちらのお客様は、地球語がお分かりになりますでしょうか?」
「大丈夫です」
俺に向かって聞いてきたので、俺が答える。
「では、地球語にしますね」
そう言って注文用のタッチパネルを設定すると、ごゆっくりと言って去って行った。店員が一度もアトリーを見なかったことが引っ掛かったが、とりあえず気にしないことにする。
「何でも好きな物を頼んでくれ」
「ありがとうございます」
アトリーの表情もなぜか固かったが、慣れない店で緊張しているのだろうと思うことにした。
最初は静かだったアトリーも、次々やってくる彩り鮮やかな寿司たちに感動したらしく、興奮しながら何度も俺に言った。
「お寿司って、とってもきれいで、とっても美味しいですね!」
その笑顔は、寿司よりも数段鮮やかで美しい。
「どんどん食べてくれ」
こういう時に使うお金は、いくら使ってももったいないと思わないから不思議だ。
「ありがとうございます!」
アトリーが嬉しそうに笑う。
俺も笑う。
この夜の寿司は、俺の人生の中でも最高レベルの美味だと思った。
しかし、そんな素晴らしい気分に水を差す出来事が、じつはさっきから何度も起きていた。
通路を挟んだ横のテーブルに、異星人の男女が向かい合って座っている。俺たちのすぐあとに入ってきた客だ。その客に対する、店員たちの態度がどうにも気に入らなかった。
その異星人はヒューマノイド。つまり、人類と見た目が大きく変わる訳ではない。髪の色は、アトリーと同じターコイズグリーン。だが、アトリーと同じなのはそれくらい。
真横なので瞳の色はよく見えないが、皮膚は少しくすんだ緑色。失礼ながら、カエルを連想してしまう。顔立ちは人類と同じだったが、唇は少し厚ぼったくて青みがかっている。
人類基準で言えば、美しい容姿とは言えないだろう。しかし、その態度はとても常識的で、身なりも悪くない。言葉もきれいな地球語だ。
それなのに、その二人に対して店員が決して目を合わせないのだ。言葉遣いも態度も丁寧に見えるが、明らかにほかの客とは接し方が違う。しかも、さっきトイレに立った時、そのテーブルに行くことを店員同士で押し付け合っているのを聞いてしまった。
そしてその態度は、腹立たしいことに、アトリーに対しても向けられていた。
ほかの異星人には分け隔てなく接しているのだから、異星人を嫌っているということではないはずだ。そもそも、この店は異星人入店可。異星人に偏見を持つ店員がいるとは考えにくい。
隣の二人とアトリーの共通点と言えば、髪の色くらい。そんなことで差別をするものだろうか?
「お待たせしました」
一人の店員が、俺たちのテーブルに追加の寿司を持ってきた。
にこやかに俺に笑いかける。その笑顔が、一度もアトリーに向かないまま去ろうとした時。
「ちょっといいですか」
自分でも驚くほど低い声がした。
「うまくごまかしているつもりかもしれないですけど、あなたたちの態度は、俺には不快に感じます」
店員が目を見開く。
「特定の客に対するあなた方の態度は、決して気持ちのよいものではない。お寿司は美味しかったのに、とても残念です」
「あ、あの……」
店員が狼狽えた。
俺の声は、意外なほど響いたようだ。隣の二人が驚いたようにこちらを見ている。
「異星人の入店を認めておいて、特定の異星人に対する態度を変える。それがこの店のやり方なんですか?」
俺は強い視線を店員に向けた。
周囲が静まり返る。俺が店員を睨み続ける。
ふと。
「いいんです。私は気にしていませんから」
うつむいたまま、アトリーが言った。
それを見て、俺はそれ以上の言葉を飲み込んだ。
店員が頭を下げる。
「申し訳ありませんでした。以後気を付けますので」
逃げるように店員が立ち去ると、アトリーが顔を上げた。
「さあ、食べましょう。このお寿司も、すごく美味しそうです」
アトリーは笑っていた。だから俺も笑った。だけど、その後の寿司の味はあまり覚えていなかった。
会計を済ませて店を出ると、俺はアトリーの前を歩いた。行きは並んで歩いてきたのに、今は歩けない。
アトリーだって気付いていた。自分に対する冷たい態度に気付かないほど、アトリーは鈍感ではない。それでも、アトリーは笑ってお寿司を食べていたのだ。美味しいと言って食べていたのだ。
その気遣いを、俺が台無しにした。俺のせいで、楽しかった雰囲気を壊してしまった。
「すまなかっ……」
前を向いたまま俺が言い掛けた、その時。
「あの、先程はありがとうございました」
突然後ろから声がした。
振り向くと、そこにはあの二人の異星人がいた。
「私たちは、ああいう事に慣れているのです。それでも、あなたの気持ちはとても嬉しかった」
男が微笑む。
隣の女も嬉しそうに言った。
「本当にありがとうございました」
続けて女が、アトリーの耳元で何かを囁く。
途端にアトリーの顔が真っ赤に染まった。
「では、私たちはこれで。あなた方の前途に幸あらんことを!」
ご機嫌な様子で去って行く二人を、俺は呆然と見送った。
二人の姿が人混みに消えた頃、ぽつりと俺が言う。
「帰ろうか」
「はい」
俺が歩き出す。
アトリーも歩き出す。小走りに駆け寄ってきて、俺の横を並んで歩く。
「私からも言わせてください」
小さな声がした。
「ありがとうございました。私も、すごく嬉しかったです」
うつむくアトリーの顔は見えない。
でも、店を出た時とは全然空気が違った。その顔は、笑っているような気がした。
「べつに」
愛想のない返事をして俺は歩き続ける。
さっきから、アトリーの肩が俺の腕に触れてくる。離れても、すぐにくっついてくる。
それを意識しないようにしながら、俺は黙って歩き続けた。