エピローグ
ガレベーラ・カトルは、泥水を飲んだせいで腹をこわし、鼠を喰ったせいで頭がおかしくなったと人々は言った。
ガレベーラはそのとおりだと笑い、そして、人々が言う『頭がおかしくなった』ふりをした。
家名は名ばかりのものになり、財産は諸所に寄付された。
ドレスも宝石も、薔薇も茶会も称号も、ガレベーラの前には無価値で無意味だった。
ガレベーラは、誰もがうらやむ『王家の血を引く公女』には戻らなかった。
ガレベーラが友と呼ぶ者は皆、街にいた。
誰がなんと言おうと、ガレベーラは自身にとって価値のあるものが何か、自分の幸せがどこにあるのか、もう確かに知っていた。
*
*
「あら、グウィ兄さま、お帰りなさい」
昔なら、グウィディウスの姿を見るや走ってきてその胸に飛び込んでいたペルラも、今やそっけないものだ。
いや、まだ迎えがあるだけましなのかもしれない。
「ガレ姉様ならおでかけよ」
「また街か。僕も帰りに寄ればよかった」
ペルラは渋い顔になって、
「それは得策ではないわ。今日は青年会の集まりに顔を出すと言っていたから。お兄様が行ったら、きっと不愉快になるだけよ。姉様を囲んでいるのは若い男性ばかりだもの」
「……話だけで十分不愉快だよ」
「こころの狭い人間は嫌われるわよ」
「ご親切にありがとう。ところでペルラは何をしていたの?」
仕方なしに迎えに出てきたのがありありとわかる様子のペルラにたずねた。
この屋敷に、主人を恭しく出迎えてくれるような家人やメイドやいない。
使用人はいるが奉公人はいない。労働としての家事仕事を仕事にしている者が何人かいるくらいだ。
「屋敷のみんなでパンを焼いるところよ。明日は花売りの日だから。花売り娘に配るパンを、そうね、あと百個は焼かないとね!」
「ああ、明日か」
ガレベーラが五のつく日に孤児や浮浪児と共に街で花を売るのはもはや町の恒例となっている。
「パンを焼くのは素敵なことだけど、顔も髪も粉だらけだよ。鏡は見た方がいいね。もうレディなんだから。ああ、そうだ。騎士仲間から古着をもらってきたから。明日、街に行くときに持っていくといい」
ペルラは肩をすくめ、
「元王子様が古着集めだなんて、笑い者なのではなくて?」
「まあね。おかげでみんなから物乞い騎士殿下って呼ばれてる」
グウィディウスは笑って、自分もパン焼きの手伝いをすることにして、袖を捲る。
「ガレ姉様にも困ったものね。ちょっとくらいお兄様の身になって差し上げればいいのに」
「気にしてないよ。物をもらえると僕の使命感が満たされる」
「そういうのは、貧乏性っていうのよ……」
グウィディウスが留学していた国は貴族も平民も身分に関係なく平等に学べる国だった。
それまで、貴族以上の人間としか接してこなかったグウィディウスは当時新鮮な衝撃と感動を覚えたものだ。
そして同時に、当たり前に持っていた価値観に疑問を持つことができた。
人間は誰しも平等であり、身分の差にそれが侵されてはならない。身分差で人が区別されることはあってはならない、上下があってはならない。それこそが当然であり、自国もそんな考えでありたいと強く思ったものだ。
帰国し、ガレベーラを探していたときにはそんな理想などすっかり忘れ去っていた。
しかし、彼女を見つけ出し、いざ再会してみれば、ガレベーラはいつぞやのグウィディウスの理想の一歩も二歩も先を歩んでいた。
皮肉なことに、望む望まないにかかわらず、ガレベーラはその身をもって実感していたのだった。
王都に戻ったガレベーラが、貴族には戻らなかったのは当然のことであった。
貴族ほど空虚はものはない。
ガレベーラがリビにいた当時、カトル家の家督は相続者不在で王家預かりになっていた。
継母であったカトル家夫人は、愛人と共謀してカトル家の財産を乗っ取ろうとしていたことが発覚したからだ。
先代カトル公の死因も含め、不審な点が多く見られたカトル家を、アルディウスが尽力して数々の不正をあばいた。
その結果、継母と愛人は幽閉されている。
異母妹シミラに至っては、修道院にその身柄を預けられていた。
「だから、君が生きているとなった今、カトル家は存続し、そして君が正当な後継者だ。家督も相続することになる」
王都に戻る馬車の中でそう伝えたグウィディウスに、財産なんていらない、とガレベーラは言った。
しかし、持てる者にはそれらを管理する義務があり、ガレベーラは正しくその義務を果たせることは間違いなかった。
そして、ガレベーラが果たしたい夢に必要なものこそ、その財産であった。
「君ならできること、君にしかできないことは一体何なのか、よく考えてみて」
ガレベーラは王都までの長い道のりでその現実にじっくりと向き合った。
覚悟が決まったとき、その正しい使い道を考える日々が始まった。
*
グウィディウスも使用人と一緒になってパン生地をこねていると、遅れて帰ってきたラナンが顔を見せた。
ラナンは今、騎士見習いとして騎士団に籍を置いている。
いずれは文官の試験を受けるつもりらしいが、やはり剣の腕も必要だと考えているらしい。
「兄上、針子組合からドレスが出来上がったと連絡があったので取りに行ってきました」
ガレベーラは、街の貧しい女性たちに針を教え、手に職をつけるための組合を作った。
ガレベーラやペルラ、そしてトーロ夫人をはじめ一部の良心的な貴族の着るドレスを作ってもらっている。
この度、グウィディウスはその組合の女性たちに婚礼衣装を縫ってもらったのだ。
出来上がったドレスを箱から出す。
「この衣装は着てくれるだろうか、僕の未来の妻は……。最近は、ドレスもまともに着ないからなぁ。この前など、やはり夜会ですら無駄な集まりだと言いだす始末で」
貴族には貴族にしかできないこともあり、夜会はそれを可能にする場所だと言い聞かせて、渋々ではあったがこれまでは参加していたのだが。
「未来の妻……とは、ガレ姉様には妻になる旨の了承はすでに得ておられるということですか」
グウィディウス顔負けの美男子に成長したラナンが、冷ややかな視線を寄こしてくる。
「得ていないよ、悪かったな! じゃあ、僕の『婚約者』だ! この呼び名だったら間違いないだろう!?」
「婚約者……。元、はつけなくてもよろしいのですか」
「ラナン! お前、調子に乗るなよ! お前なんか弟でしかないんだからな!」
グウィディウスは近頃、ペルラに大人げないとよく言われていた。
二人が立派に成長をしていることは嬉しくもあり、寂しくもある。
「今度の夜会は参られると思いますよ。ペルラのデビュタントの日が近いので」
そう言うのは後ろに控えていたペスロだ。
「そうか、ガレもペルラのためなら折れざるを得ないね。ペルラは貴族と結婚する気満々だからなぁ。ガレも少しは成り上がりとかを狙ってくれたらいいんだけど……。僕も一応王子なのに」
「それこそ、《《元》》王子でしょう。逆に、ガレを伴侶になさりたいのなら貴族でない方が有利かと。貴族を金づるとしか思っておられませんから」
ラナンが肩をすくめる。
「ただのたくましい姫だったはずが、今やすっかり商魂たくましい姫になってしまった……」
グウィディウスは、ふと思い出して苦笑した。
「……鼠喰い姫」
「かつて、そんなふうに呼ぶ人もいましたね」
まだ、ガレベーラの行方を探していたころ、ガレベーラは噂でさまざまに呼ばれていた。
「案外、美味ですよ」
「ねずみ? ラナン、食べたことあるのか?」
「……僕はあります」
ラナンは薄く、自嘲気味に笑った。
「ガレはないはずです。……王都を出て、一人になってからのことはわかりませんが……」
グウィディウスは、ラナンの肩を抱いた。
「お前が、守ってくれたんだもんな」
*
就寝前のひと時、ガレベーラはせっせとレースを編んでいる。
防寒用のブランケットを装飾するものらしい。
「昔は、レースなどよりももっと必要なものがあると思ったものだけれど、やっぱりレースをつけた方が女の子は喜ぶのですって。貧しいからこそ、そういうものもまた大切だとトーロ夫人がおっしゃっていたの」
「僕も手伝おうか」
「さすがに無理だわ。ラナンはさっき手伝ってくれたけれど」
「ラナンが? あいつにできるのなら僕も……」
「あら、ラナンったら驚くほど上手なのよ。きっと、ルメルに教わったのね」
ラナンにルメルという恋人がいることをグウィディウスもガレベーラも知っている。
針子組合で働いている孤児の娘で、ガレベーラの助力によって生き延びることができた一人だった。
今、この国には同じように人間らしく生きることができるようになった者はたくさんいる。
ラナンとルメルの身分が違うなどという無粋なことを言うつもりはないし、二人の関係を温かく見守っているところだ。
「ガレ、ずいぶん伸びたね」
グウィディウスはガレベーラの銀の髪をひと房、手に取った。
背中をすぎるくらいに長くなった。
「また切ってしまうの?」
「そうね、そろそろね」
「ガレ、どうかな? 髪が長いうちに結婚式でもあげないか。式で髪をきれいに結ったら値打ちがついて、貴族が高くで買うと思うんだ」
王都に戻ってからも、ガレベーラは髪を伸ばさなかった。正確には、伸ばしては切ることを繰り返した。
絹糸のごとき髪は、長くなると切って売った。
ガレベーラは、カトル家の財産として持っていたもののほとんどを金に換えた。
カトル家の屋敷は改装し、今は貧しい人の簡易宿泊所となり、リビの村にいたイオは、職業訓練所の所長に任命され、いまやガレベーラの片腕だ。
国王となったアルディウスの協力も得て、国の事業として各地に教育を施すための施設もいくつか建った。
さすがに、そろそろいいだろうとグウィディウスは思っている。
「素敵だわ! 髪と髪飾りを競売にかけましょう! 髪は、わたくしの唯一の財産だもの。誰かの助けになるのなら喜んで」
「誰かの助けになるのなら、喜んで結婚してくれるの?」
「ええ! わたくしはなんて幸せ者なの。ありがとう、グウィディウス」
愛しいひとのキスを受けながら、グウィディウスは苦笑が漏れる。
「君にしかできないことと言ったけれど、ここまでやるとはなぁ……」
嬉しいような、悔しいような、誇らしいような、まぶしいような。
元王子と元令嬢の結婚にふさわしい幸せな瞬間ではないかもしれない。
しかし、グウィディウスとガレベーラはなによりも幸せだと感じていた。
「さすがに結婚式にはドレスを着てよね」
グウィディウスが言うと、すかさずガレベーラは言った。
それも競売にかけるわ、と。
終




