第一話 片付け王子、生まれ直す
ゴオオオオ……。
神殿の奥で、炎がうなりを上げていた。
その前にひざまずくのは、王国随一の祈祷師。
年の始まりに神の言葉を受け取る、託宣の儀を執り行っていた。
祈りを捧げていた祈祷師が、不意に言葉を止めた。
炎の向こうに、何かを見た。
「……これは……!」
目を見開き、息をのむ。
やがて、その唇から震える声がこぼれた。
「今年、王家に生まれる子の中に――
真理を見通す眼を持つ者が現れる。
その者は、世界を覆す英雄となるであろう」
居合わせた者たちは、顔を見合わせた。
次の瞬間、神殿は歓喜に包まれた。
この日、祈祷師が告げた神託は、瞬く間に王国中へ広まっていった。
誰もが、英雄の誕生を待ち望んだ。
「世界を覆す」という言葉の意味を、誰一人、疑うことなく。
◇
大阪、某日。
「秘技、スペース・クリアリング!」
説明しよう。
この技は、混沌に包まれたデスクを神々しいまでに美しく整え、仕事の効率を上昇させる。探し物に費やしていた時間が消え、滞っていた業務が動き出し、成績までぐんぐん上がるという――。
……いや、ただデスクを整理しただけなんだけどね。
「りょうまっち、すごい! さすが片付け王子!」
先輩の恵子さんが、すっきりした机を見て声を弾ませた。
「恵子さん、何回も言いますけど、俺は“りゅうま”ですって。それに、片付け王子って呼ぶの、やめてくださいよ……」
俺の名前は、時透龍馬。ときとう、りゅうま。
歴史好きの親父が、坂本龍馬にあやかってつけた名前だ。
だったら素直に「りょうま」でよかっただろうに、読み方だけひとひねりしたせいで、初対面の相手には、まず正しく読んでもらえない。
「でも、王子って感じするよ。困っていると、さっと助けてくれるし」
恵子さんはそう言いながら、机の上に積んであった書類を一束、引き出しへ押し込もうとした。
「あ、それはこっちです。今日使う書類は手前。終わったものだけ引き出しに。しまい込むと、また探すことになるんで」
「はいはい、王子の仰せのままに」
「だから、その呼び方……」
苦笑しながら、最後にペン立ての位置を少しずらす。
恵子さんが椅子に座って手を伸ばすと、ちょうど指先が届いた。
「……あ、使いやすい」
その一言で、頼まれてよかったと思ってしまう。
我ながら、単純だ。
「あ、そうだ。来週、有給を取って、高知の実家に帰るんです。少し長めに休むんで、その間よろしくお願いします」
「そっか。りょうまっちがいないと、ちょっと寂しくなるなあ。いつも助けてもらってるから」
名前は、もう訂正しなかった。
「お土産、何か買ってきますね」
「楽しみにしてる。でも、運転は気をつけてね」
「はい。のんびり帰ります」
◇
翌週、月曜日。
朝の大阪を車で出発した俺は、休憩を挟みながら、高知の実家を目指していた。
高知といっても、実家があるのは県の端のほうだ。
高速道路を降りてからも、まだまだ走らなければならない。
久しぶりの長距離運転。せっかくの休暇なのだから、急ぐ必要はない。
途中で景色を眺めたり、休憩がてらコーヒーを飲んだりしているうちに、気づけば夕方になっていた。
高知県内のサービスエリアで早めの夕食を済ませ、お土産売り場をのぞく。
そこで、一枚のクリアファイルが目に留まった。
坂本龍馬の姿とともに、言葉が印刷されている。
『日本を今一度せんたくいたし申候』
「……親父、ほんとに龍馬が好きだったよな」
思わず、独り言が漏れた。
世の中を変えるくらい、大きな志を持った人間になってほしい。
名前の由来を尋ねるたび、親父は少し照れながら、そんなことを言っていた。
その息子はといえば、どこにでもいる会社員。
世の中どころか、自分の将来だって、はっきり決められていない。
得意なことといえば、片付けと、仕事の段取りを考えることくらいだ。
「日本を洗濯する前に、会社の机を片付けてるよ、俺」
口にして、少し笑った。
親父が亡くなってから、もう何年もたつ。
忙しい人だった。
家族のためだと言って働いて、無理を重ねた末に、突然倒れた。
帰省はいつでもできる。
話なら、今度会ったときにすればいい。
そう思っていた「今度」は、来なかった。
それからは、まとまった休みを取れたら、なるべく実家へ帰るようにしている。
今夜は母さんと飯を食いながら、何を話そうか。
会社で王子と呼ばれていると教えたら、腹を抱えて笑うだろうか。
俺はクリアファイルを一枚買い、鞄にしまった。
車に戻る前に、スマホでメッセージを送る。
『あと少し。ゆっくり帰るから、先に食べてて』
すぐに返事が届いた。
『わかった。気をつけて』
俺は画面を閉じ、運転席に乗り込んだ。
◇
実家へ続く、最後の峠。
ヘッドライトが照らす先へ、細い山道がくねくねと延びていた。
昼間なら見慣れた道も、夜になると急によそよそしくなる。
窓の外は真っ暗で、木々の輪郭さえ分からない。
「ここを越えたら、もうすぐ……」
アクセルを緩め、カーブへ差しかかった、そのときだった。
左手の茂みが、大きく揺れた。
猪だ。
黒い塊が道路へ飛び出し、その後ろを、小さな影が追いかけてくる。
「うわっ!」
ブレーキを踏む。
同時に、反射的にハンドルを切ってしまった。
タイヤが悲鳴を上げた。
車体が横へ流れる。
戻そうとしたハンドルが、手の中で空回りするように感じられた。
ヘッドライトの先に、ガードレールが迫る。
――ぶつかる。
その瞬間だけ、時間がひどくゆっくりになった。
恵子さんの笑い声。
大阪の部屋。
実家の食卓。
そして、俺の名前を呼ぶ、親父の声。
金属がひしゃげる音に、すべてがかき消された。
◇
……どのくらい、たったのだろう。
目を開けると、フロントガラスに白いひびが走っていた。
どこかで、何かが焦げるような臭いがする。
「……あ……」
声を出そうとしても、喉からかすれた息しか漏れなかった。
額から、ぬるいものが流れ落ちる。
脚を動かそうとして、鋭い痛みに息が止まった。
動けない。
身体が、座席と潰れた車体の間に挟まっていた。
さっきまで流れていたラジオは、もう聞こえない。
エンジンの音もしない。
耳の奥で、自分の呼吸だけが、やけに大きく響いていた。
――スマホ。
助手席の足元に、画面の明かりが見えた。
誰かに、連絡しないと。
必死に手を伸ばす。
指先を伸ばす。
あと、少し。
その少しが、届かなかった。
「誰か……」
外に目を向けても、暗闇しかなかった。
車の音がしない。
人の声もしない。
指が震える。
何度伸ばしても、スマホには届かない。
やがて、その指先の感覚さえ薄れていった。
嫌だ。
まだ、帰っていない。
母さんが、待っている。
お土産だって、買って帰ると約束した。
明日も明後日も、その先も。
何となく、続いていくものだと思っていた。
「まだ……」
視界が暗くなっていく。
さっきまで痛んでいた脚も、もう何も感じなかった。
俺は、何かを残せただろうか。
大きな志も、特別な才能もなく、誰かに名を覚えてもらうようなことも、何一つしていない。
それでも。
もう一度、あの食卓に座りたかった。
母さんの話を、聞きたかった。
――まだ、死にたくない。
声にならない叫びを最後に、意識が途切れた。
こうして、時透龍馬の人生は幕を閉じた。
……はずだった。
◇
声がする。
遠くから、誰かの声が。
「……おぎゃあ、おぎゃあ!」
赤ん坊の泣き声だ。
やけに近い。
耳元どころか、身体の内側で響いているような――。
……ん?
「生まれた……!」
低い声が、震えていた。
「よく頑張ったな。ありがとう……本当に、ありがとう」
まぶしい。
目を開けようとすると、ぼやけた光の中で、人の顔らしきものが動いた。
俺をのぞき込んでいる。
明るい色の髪。
深く彫り込まれた目元。
頬には、無精ひげ。
見知らぬ男が、泣いていた。
――誰だ、この人。
確かめようとして、首を動かす。
動かない。
手も、脚も、思うように動かせない。
そのくせ、身体がふわりと持ち上がる感覚だけは、はっきりと分かった。
「おお……何と美しい眼だ」
男が、俺を抱き上げていた。
「透き通るような、青い瞳をしている」
待ってくれ。
何で俺、大人に抱き上げられてるんだ?
「……わ、私にも、見せて」
今度は、女の人の声がした。
男の腕が動き、少しだけ景色が変わった。
粗い石の壁。
黒ずんだ梁。
明かりを揺らす、小さなランプ。
病院じゃない。
寝台に横たわっている女性が、こちらへ手を伸ばしていた。
汗で髪が額に張りつき、顔色もよくない。
それなのに、俺を見ると、ほっとしたように笑った。
「よかった……元気に、生まれてきてくれて」
伸ばされた指が、俺の手に触れた。
思わず、握る。
いや、握ろうと思ったわけじゃない。
身体が勝手に、その指をつかんでいた。
小さい。
彼女の指にしがみつく俺の手が、あまりにも小さい。
――これ、俺の手か?
頭の中が、真っ白になった。
俺は、時透龍馬。
大阪で働いていて、有給を取って、実家へ帰る途中で――。
事故に遭った。
それから。
「おぎゃあああ!」
口から出たのは、言葉ではなかった。
「おお、元気だな。そんなに父の顔がうれしいか」
違う。状況を説明してほしい。
そう訴えたつもりだったが、また泣き声になった。
男は笑いながら、俺を抱き直す。
その袖口には、丁寧に繕われた跡があった。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
大きな顔が、近づいてくる。
――待て。近い。近いって。
次の瞬間、頬に、じょりっとした感触が走った。
ひげだ。
「おぎゃああああ!」
「あなた、そのひげでは痛がってしまうわ」
女性が、疲れた声で笑う。
「そ、そうか。すまん、つい……」
男は慌てて顔を離した。
何なんだ、この状況。
事故のあとの夢か。
それとも、俺はまだ、どこかで意識を失っているのか。
考えたいのに、急に眠気が押し寄せてきた。
まぶたが重い。
身体が、温かな布に包まれる。
「国王陛下」
少し離れた場所から、別の声がした。
「第三王子殿下のご誕生、心よりお祝い申し上げます」
――こくおう?
――第三、王子?
ひげの男が、俺の手をそっと包んだ。
「この子が、健やかに育ってくれれば、それでよい」
その声が、眠りに沈む意識を追いかけてきた。
待ってくれ。
会社でのあだ名の話じゃ、ないよな。
俺、本当に――。
答えを出す前に、視界が閉じた。
最後に感じたのは、俺を抱く腕の温かさだった。




