一触即発
朝から訳の分からないことが起こったせいで、脳の理解が追いつかないままの冴は、独り呆然と学校に向かうことしかできなかった。
激しく困惑している冴は、どうして夏生が一人で行ってしまったのか、そればかりを延々と考え続ける。ただ、考えたところで答えが出るわけもなく、思考はエラーを繰り返し吐き出し続けた。
あげくに考えすぎて知恵熱でまで出てきた冴は、すぐに突き刺すような頭痛に悩まされることになった。
冴にはわからない。
どうして自分が、独りで通学路を歩かなければならないのか。どうしてそばに居てくれるはずの夏生が、今は隣にいないのか。
たとえどんな用事があったとしても、今までの夏生なら、冴を優先してくれた。たとえばクラス委員の仕事のように、仕方のないことだったなら、事前にそれを説明してくれていたはずなのだ。
それが今日はどうだろうか。夏生は冴に何の説明もすることはなく、朝になっていきなり、先に行くことだけを伝えてきた。
何の配慮も感じられないそのやり方は、夏生らしさを欠片も感じることができない。まるで他人が夏生のスマホを使って連絡してきたような不自然さがあった。
そしてそれ以上に、冴がもっと気にしているのは、昨日の放課後から、夏生の様子があまりにもおかしいことだった。
昨日の放課後。冴がいったいどれだけの連絡を夏生にしたことか。それは冴自身でさえ正確には覚えていない。
はじめはメッセージを間隔をあけて送っていただけだった。けれど、いくら時間が経っても夏生からの返事はなく、時間が経過するにつれて、冴が連絡をする間隔は、段々と短くなっていった。
最終的には、連続して何度もメッセージを送り付け、それでも返事がないことに苛立った冴は、何十回と着信を入れたのだ。
だがそれでも、夏生から何かしらの反応が返ってくることはなかった。
あり得ないことだった。
普段の夏生なら、冴の連絡にはすぐに返事を返してくる。普段の様子を抜きにしても、これだけの連絡がたまるまえに、途中で何事かと返信をしてくるのが普通だろう。
冴以外からの連絡だとしても、夏生の性格を考えれば、そうしないのは不自然でしかない。
どう考えても普段の夏生ならしないようなことばかりで、様子がおかしいのは明らかだった。
だが、夏生の様子がおかしいと知っていたところで、状況が良くなるわけではない。現に今も、冴は歩きながら夏生への着信を残し続けている。着信を残しているというからには、当然夏生は一度も電話に出てくれていなかった。
「……ありえない。意味わかんない」
冴の口から漏れ出す独り言。
いつもならそれに反応してくれる幼馴染は、今はそばにいない。冴を置いて先に行ってしまったから。
「マジありえない」
初めは焦燥だった。
すぐにそれは苛立ちに変わり、今朝は困惑になった。
ぐるぐると繰り返すだけで、なにも得られるものがない思考に疲れ、今の冴の中では、また苛立ちが膨れ上がってきていた。
独りで歩いているうちに、少しずつ戻ってきた冴の思考能力が、自分をこんな目に合わせた夏生が悪いと、大声で繰り返すから。
「絶対すぐには許さない。二度とこんなことしないって誓わせてから土下座させて、心から反省するまで、どんなことをしても解らせなきゃ」
冴は自らに渦巻く困惑を、その身を焦がすほどの怒りで振り払う。
一歩、また一歩と踏み出すたびに、夏生への感情をため込む冴。今その顔をクラスメイトに見られたら、冴はこれまで作り上げてきたイメージを、一瞬で崩すことになっていただろう。
だが今の冴には、そんなことを気にする余裕なんてなかった。
夏生のことだけで脳のメモリは全て使用され、夏生のことだけで、全感情が支配されていたから。
教室に着いたら、すぐに夏生を連れ出して、どこかふたりきりになれる場所で思う存分痛めつける。それからひたすら謝ってくるだろう夏生へ、勝手に離れていった罪の重さを解らせるのだ。
どんな手段を用いても、たとえ学校の中だとしても容赦せず、夏生が二度とこんなことをしようと思わないように、きつく言い聞かせなければならない。
それが夏生のためでもあるのだから。
自分のそばにいることが、夏生にとっても幸せなことだと、冴は信じていたから。
もはや苛立ちというより、使命感といえるような力で、冴は学校までたどり着いた。
ひとえに夏生のため、してはいけないことを教えてあげるために。
だが、そんな冴を待っていたのは、朝味わった以上に理解できない状況だった。
「昨日から私たち、付き合うことになりました! てわけでぇ、祝福よろしく!」
教室が異様に盛り上がっているのは、近くの廊下まで来た時点で、冴も気が付いていた。何があったのかまではわからずとも、クラスメイトたちの高揚した声が廊下にまで響いてきていたから。
沸き立つようなその喧騒は、頭痛が酷くなっていた冴には特にうるさく感じた。ただでさえ苛立ちが煮えくり返っているというのに、冴はこれ以上、どうでもいいことで疲れたくなかった。
だから教室に入ってすぐ、この熱気の中心を突き止めて、その原因がなんにしろ、冴はすぐに止めさせるつもりだったのだ。なのに、
「……はぁ?」
喧騒を巻き起こしている中心は、教室に入れば、探さなくてもすぐにわかった。
一組の男女が、その他のクラスメイトたちの中心で、全員の注目を集めていたから。そのふたりが、この騒がしい状況を作り出した原因だということは、どう見ても明白だった。
ただし、冴に理解できたのは、そこまでだった。
人ごみに割って入っていこうとした冴は、ふたりのうちの一人、女子の方が高らかに宣言した言葉に、一瞬で思考停止に追い込まれてしまった。
素の声で、心の底からの疑問が冴の口から漏れだす。ともすれば、かわいそうにも聞こえるような声だったが、すぐに教室の喧騒の中に溶けていき、誰にも届くことはなかった。
冴を悩ませていた刺すような鋭い痛みの頭痛ですら、驚いてしまったかのように、その存在感を消失させた。
この騒動の原因を取り除き、静かにさせようとしたはずの冴は、その場から動くことができなくなった。
それだけ、騒動の中心で声を発した女子、芳賀雪奈が言った言葉の衝撃が強すぎたから。
クラスの中心で雪奈は今、自らが付き合うことになったと宣言したのだ。
クラスでも存在感がある雪奈。特に男子からすれば、雪奈の恋愛事情は、さぞ気になることだろう。だが冴にとっては話は別だ。
冴は雪奈になど興味はない。雪奈が付き合い始めたと言われても、どうでもよすぎて一ミリたりとも関心を持つことなんてできなかったはずだ。
けれど、冴は今、雪奈のその言葉に、生まれてきて一番の衝撃を味わっていた。
なぜか、
「ほら、夏生くんからもどーんと言っちゃって」
「あ、うん。ということだから、その、あたたかく見守ってもらえたらなって」
雪奈の隣に、恥ずかしそうにはにかみながら寄り添っていたのが、どう見ても夏生だったから。
「は?」
苛立ちというより、もはや助けを求めているような冴の声は、クラスメイトたちに囲まれて、質問攻めにあっている夏生には、まったく届くことがない。
頬を染めて恥ずかし気なのに、それ以上に幸せそうな夏生の表情から、冴は目が離せなかった。
「どっちから告ったの?」
「あ、それはもちろん私から!」
「マジ? 芳賀さんって、夏生のこと好きだったの?」
「うん、ラブだったよ! クラス委員ずっと一緒にやってて、夏生くんがいろいろ助けてくれたからね」
「くそ羨ましい。まぁでも、よかったな夏生」
「う、うん。まさかの両想いだったみたいで、ホント嬉しかったよ」
祝福を受ける雪奈と夏生は、冴から見ても本当に幸せそうだった。
ふたりの顔がその気持ちを物語っていたから。クラスメイトたちもふたりに当てられて、お祝いムード一色になっていた。
ただ冴だけが、異物のようにその空気に馴染めない。
いや、馴染むわけにはいかなかった。
結局、沸き立つ教室の喧騒がすぐに収まることはなく、朝のホームルームに担任がやってくるまで、騒ぎは続いていた。
その間夏生は、雪奈と一緒にクラスメイトたちから囲まれて、質問や祝福の言葉を次々と受け取っていた。
肩を寄せ合い、ときに手を振れ合わせながら、夏生は当然のように雪奈の隣に立っていた。
まるで本当の恋人同士のような距離感で、自分ではない女の隣に立つ夏生を、冴はしばらく見ていることしかできなかった。
冴と夏生との間には、クラスメイトたちという物理的な壁があったから。だがたとえ、その壁がなかったとしても、冴は動くことができなかっただろう。
訳のわからない状況に、冴は恐怖すら感じていたから。
まるで気づかぬうちに、現実と似た異世界に入り込んでしまったかのような、違和感だらけの恐怖。
冴からしてみれば、夏生が雪奈を好きだったなど、寝耳に水もいいところだった。今まで夏生がそんな素振りを見せたことはなかったし、警戒していたときもあった冴が、何も気づけなかったのだから。
冴は目の前で見せられた、現実味のない光景が信じられなくて、到底受け入れることができなかったのだ。
それでもこれは間違いなく現実で、時間も通常通りに進んで行き、教室では滞りなく授業が行われていた。
今朝の出来事を当然のように受け入れて進んで行く世界に、冴はまるで、自分だけが取り残されたかのような感覚になる。
それでも、たとえ世界から取り残されたとしても、冴は今朝の出来事を受け入れることなどできなかった。
普段通りに授業が進む教室で、冴は自分自身に集中して、だんだんと落ち着きを取り戻していった。
そうしてまず冴が思ったことは、夏生を問い詰めなければならないということ。
いったいどういうことなのか。どういうつもりなのか。それを夏生の口から直接聞かなければならない。そうしなければ、この訳の分からない状況を把握することすらできないから。
時間の経過によって、思考停止から一応の回復を果たした冴は、すぐに夏生を捕まえようとした。
だが、休み時間のたびに夏生のそばには雪奈がいて、未だ興奮冷めやらぬクラスメイトたちに、ふたりはすぐに囲まれてしまう。
さすがにそんな状況の中心から、キーマンの一人を連れ出すわけにもいかず、冴は夏生を呼び出すために、メッセージや電話で気づかせようとした。
だが夏生は、いっこうにスマホを見ようとしない。
冴がどれだけメッセージを送り、何十回とコールを鳴らし続けても、まるでスマホの電源を切っているかのように、気づく素振りすら見せない。
クラスメイトたちの手前、なるべく夏生が自分から来てくれる方がいいと思っていた冴だが、昨日からずっと連絡を無視され続けていたせいで、すぐに我慢も限界を迎えた。
「夏生、ちょっと来て」
「え? あ、冴? どうしたの?」
「いいから、少しついてきてよ」
「わ、ちょっと待ってよ冴」
囲んでいるクラスメイトたちをかき分けて、冴は夏生の細い腕を掴んだ。
手のひらに感じる夏生の体温。
別に昨日だって触れているというのに、それを感じた瞬間、冴は思わず泣きそうになってしまう。
夏生はここにいると、感じることができたから。
けれどこれだけで満足して、ここで立ち止まっているわけにはいかない。潤みそうになる瞳をきつく閉じて、冴はそのまま強引に夏生をこの場から連れ出そうとした。
だが、
「ちょっと待って黒川さん」
呼び止められると同時に、冴は腕を掴まれていた。
一瞬だけ無視してしまおうかとも考えたが、案外力強いその手は、軽く振り払おうとしてもびくともしなくて、溜息をついた冴は仕方なく振り向いた。
「夏生くんに何か用事?」
冴の腕を掴んでいた雪奈が、夏生を隠すかのように間に入ってくる。
その顔には笑顔を浮かべているが、目がまったく笑っていないことに、冴はすぐに気が付いた。
「まぁね。ちょっと連れてくけどいいでしょ?」
「いやいやよくないってば! 私の彼氏を連れてかないで~」
わざとらしく大げさに声を上げる雪奈。そんな雪奈の声に反応して、他のクラスメイトたちも集まってくる。
やりづらい状況を作り出された冴は、咄嗟にでそうになった舌打ちをなんとか我慢した。
「あたしと夏生はずっと一緒だったんだし、そんな制限されても困るんだけど」
「それは知ってるけどさ、今までは夏生くんがフリーだったからでしょ? 今はもう違うんだからさ、これからは彼女に譲ってほしいな! 黒川さんは、ただの幼馴染なんだから」
そう言われた瞬間、冴は思わず雪奈を睨んでいた。
朗らかに笑っている雪奈だが、今の言葉は明らかに挑発だったから。
他のクラスメイトたちには、いつもの明るい笑顔に見えるのだろうが、冴には雪奈の笑顔が、黒いものにしか見えなかった。
「ただのって言うけどさ、幼馴染ってそんな軽い関係じゃないんだけどなぁ」
「でもこっちだって付き合ってまだ二日目だよ? 黒川さんの方が遠慮してくれたっていいじゃん?」
「ちょっとふたりで話すくらいなんだから、芳賀さんこそ譲ってくれない? 束縛するとよくないって言うしさ」
「だいじょ~ぶだよ! 私は、そこんところちゃんと夏生くんのこと考えてるから」
その雪奈の言葉には、特に深い意味など本当はないのかもしれない。
だが冴には、私は、とわざとらしく区切った今の言葉が、自分に向けた挑発のように聞こえた。
まだ詳しい事情を夏生から聞けていない冴は、この状況で後手に回るしかなく、夏生をこの場から連れ出すことが難しかった。
何を言っても譲る気のないらしい雪奈。意外と強情なその性格に、冴が苛立ちを隠せなくなりそうになっていたとき、ついには外野も介入してきてしまう。
「さ~え! アンタが面倒見いいのは皆知ってるけどさ、ここは芳賀ちゃんに譲ってあげなって!」
クラスメイトたちが冴を窘めるかのように会話に入ってくる。
当然のように立場は、彼女である雪奈側で、冴はやっぱり『友達』などという存在は、なんの役にも立たないということを思い知らされた。
「付き合い立てなんて四六時中一緒にいたいもんじゃん! それが恋だから!」
「……わかったってば」
これ以上、この注目のど真ん中で雪奈と言いあいを続ければ、教室の空気が明らかに変わってしまうだろう。
冴は表面上は大人しく、苛立ちを隠して引き下がるしかなかった。
引き際、冴は夏生に視線を向ける。
すぐに気づいてくれたらしい夏生と目が合う直前、狙いすましたかのように雪奈が身体で夏生を隠してしまった。
目を細めて笑う雪奈から、冴は視線をそらす。それ以上目を合わせていたら、冴は己の感情を抑えられる気がしなかったから。




