5.女/英雄が負ったもの
いつの間にか季節が移り変わり、冬が訪れていた。
近頃は雪が降り出す様になる前に薪の準備に忙しかった。来年用の薪を準備して一年乾燥させるのだ。薪割りは男性使用人がどんどんやっていくので、私はそれをせっせと薪棚に積み上げていった。最近知ったのは、この男性使用人とジャネットは結婚したばかりなのだとか。朗らかな性格でジャネットとお似合いな気がした。
それが終わると今度は丘の果樹の冬支度を手伝った。柑橘類は全て収穫し、貯蔵しておくのだそう。冬の間に木に実をつけたままにすると体力を使い、木を弱らせてしまったり、また春以降の開花や結実に影響してしまったりするのだと農夫が教えてくれた。沢山の果実を収穫したので、終わった頃には手がとても爽やかな香りになっていた。
ここの使用人は良い人ばかりだ。ただあれをやれ、これをやれと命令するだけでは無く、どうしてするのか、何故必要なのかまで教えてくれる。
ジャネットもそうだ。旦那様の癖を教えてくれ、よく触れる場所は念入りに拭き掃除を、これはここに必ず片付ける等、小さな事でもちゃんと教えてくれた。執事がとても几帳面で、玄関の花瓶の位置に細かいこだわりを持っているから掃除の時動かさない様に気をつけるとか。ルーイは部屋の机に本を置きっ放しにして片付けが苦手だけれど、本の並び順は必ず背の順にするから片付ける時に気をつけるとかも。
ここでの生活や仕事が順調で居心地良すぎて、私はちょっと困っていた。
霜が降り始める前に今度は畑の冬支度の手伝いをした。玉ねぎやニンニクの株元に籾殻を撒き、豆類の株元には藁を敷いた。農夫は冬の賄いで出る豆のスープは美味しいのだとも教えてくれた。
最近は曇の日が増えた。もう冬が来た合図だ。雪の様な小さな雫が頬に当たる。雨か雪か。まだそこまで冷えていないから雪にはならないだろう。
作業を終えて作業農具を片付け、荷車を引く農夫の手伝いで後ろから押して農道を歩いていたら、ピーと高い笛の音が聞こえた。
「いかん!急いで邸に戻るぞ!」
農夫は笛の音に慌て出して、荷車をその場に置いて私の腕を取った。突然の事で私には何が何だか分からなかった。
「あれは襲撃の合図だ!」
“襲撃”という言葉に驚いた。誰が何にどう襲撃されるのかなんて分からない事だらけだったけれど、とにかく逃げた方が良い事は分かった。次第に馬の駆ける音や騒ぎ声が聞こえて来た。
私は農夫と邸に向かって走った。農道から用水路の橋を渡ってポプラ並木の道へ出た。鉄柵門の前に立っている門番が「早く来い!」と叫んでいた。ポプラ並木の後方から馬が走って来ていた。馬が後ろから迫っている様に、昔の、町を侵略されている情景が思い起こされた。鎧姿の人が町の人を追い掛けて剣を振るっていた、あの開け放たれた扉から見えた恐ろしい景色。
急に恐怖で足が竦んでしまい、走れなくなった。呼吸が苦しくなり、視界が狭くなる。馬しか見えない。もうその馬は目の前だ。馬に蹴られると思った。咄嗟に目を瞑った。
そうしたら体に衝撃があり、体が浮いている様な感覚があった。
「つかまってろ!」
頭上から声がして、怖さから目を開けられず、でも体を強く押し付けられた何かに縋った。震える手で必死に握った。頭の中で怖いと叫び続けた。
どの位そうしていたか、暫くすると「もう大丈夫だ」と言われた。状況を把握する様にゆっくりと顔を上げて視界に映していく。私が縋り付いていたのは服の様だった。大きな体で外套に覆われている。さらに顔を上げ見上げると、まさかの人の顔が映った。
旦那様だった。
ひゅっと短く息を吸って体を強張らせた。
「巻き込んでしまい申し訳無い」
話し掛けられても何も言えなかった。縋り付いていた手を咄嗟に離した。辺りを見渡すと私は馬に乗せられている事が分かった。後ろから迫って来ていた馬は旦那様の馬だったのだ。そして立ち尽くしていた私を捕まえて馬に乗せて邸まで連れて来てくれたのだろう。
「ジェス様、お怪我は?」
「大した事無い。ルーイは?」
「掠っただけです」
二人の会話を聞いて、旦那様の腕に数か所服が破れ血が滲んでいるのに気が付いた。また血だ。吐きそうだった。口を手で押さえたけれどその手がまだ震えていた。
私はルーイに軽々持ち上げられ馬から降ろされた。地に足が着いても足がガクガクして立てずにその場に座り込んでしまった。そこへ邸の中から執事やジャネットが走って出て来た。
「ガブリエル、大丈夫!?」
ジャネットが心配して声を掛けてくれる。でも何も答える事が出来なかった。
「ジャネット、傷の手当てを」
「ああ、はい、直ぐに!」
ジャネットは執事に指示され、私を他の使用人に任せて再び邸の中へと走って行った。私は使用人仲間に体を支えて貰い、邸の中へと行き、「今日はもう仕事はしなくて良い」と言われ部屋で休む事になった。
怖くて、ただ怖くて、布団を被り蹲っていた。でも目を瞑ると馬が迫ってくる映像や、昔の鎧姿の人が町の人を斬り付けている映像が浮かんでしまい、見たくなくて布団の暗闇の中瞳を彷徨わせていた。
体の震えが治まらなかった。布団を握り締める手の震えが目に入り、旦那様の服を必死に握って縋った事を思い出してしまう。
突然部屋の扉をノックされ、ビクッと体を激しく震えさせた。思わず唾を飲み込んだ。
「ガブリエル、大丈夫?」
ジャネットの声だった。優しげな声だった。
でも声が出なくて何も返答出来なかった。
「怪我はしなかった?部屋に入るよ?」
心配してくれている。はい、と、たったその一言を言うだけなのに、言葉は喉を通って出て来てくれない。
カチャリと音がして、扉が開かれたのだと思った。布団の隙間から扉の方を覗いた。ジャネットが扉から顔を出してこちらを見ていた。
「ガブリエル……」
ジャネットは部屋に入って私のところまで来て、「顔を見せてみな」と言ったので、私は布団を被ったまま何とか体を起こした。
「怪我は無い?」
私は静かに頷いた。
「怖かったよね。邸の外の仕事を頼んで悪かった」
小さく首を横に振った。
それはジャネットのせいじゃない。ジャネットに謝られるのは違うと思った。
「最近は無かったんだけど、旦那様は時々狙われるんだ」
そうしてジャネットは、私のベッドに腰掛けて私がまだ知らなかった話をしてくれた。
「先の戦争で功績を上げて英雄の一人と呼ばれる様になって爵位を与えられたんだけど、面白くない人間もいるらしいんだ。そんな人間が旦那様を潰そうと刺客を差し向けてくる。それだけじゃなく、戦争で負けた隣国の人間が旦那様を恨んで殺そうと狙ってきたりもする」
ドキリとした。私もそうだから。
英雄と呼ばれるだけあり犠牲になった人は多く、その分恨みも多く買っている事だろう。考える事は同じ。大切な人や物を奪われたのだ。恨み、その気持ちの持って行き場として復讐を選択する。
「今日みたいに邸近くで狙われたのは本当に久し振りで、一年位無かったんだけど。戦争が終わって暫く経つから収まったのかと思ったんだけどね。ウチには女性使用人が少ないでしょ?そもそも使用人自体少ないし。皆狙われ巻き込まれるのが怖くて辞めてっちゃったんだよ」
確かに女性使用人が少ない。ジャネットと洗濯場の使用人の二人だけだ。主に洗濯と衣服のアイロン、それから裁縫をしてくれているジャネットより少し年上の人。
皆辞めていったから少ないのか。使用人が皆私に優しくしてくれるのは、もしかして辞めて欲しくないからなのかもしれない。
「ここずっと襲撃される事が無かったから新しい使用人を雇っても良いんじゃないかってなって、それでガブリエルを採用したんだ。それなのに怖い目に合わせてしまってごめんね。ちゃんと事前に話もしてなくて悪かったね。辞めたくなっちゃったかな?」
ジャネットに聞かれて小さく首を振った。
「良かった。ガブリエルはよく働いてくれるから助かってるんだよ」
ジャネットは優しく私の頭を撫でてくれた。それは昔両親からして貰った様に、大切に扱う様に、微笑みを浮かべて。
こんな風に私を必要として貰うのは初めてだった。あまり笑わず必要な事以外喋りもしない私は、これまで使用人として働いて来た邸で虐められる事があった。「助かる」なんて、初めて言われた。
その後ジャネットは私が一人で怖くない様に暫く部屋に居てくれ、夕食を貰いに行こうと誘ってくれた。使用人皆の何でもない雑談を聞きながらゆっくりと食事をした。それはとても温かかった。