第一章 9
病院が白いというのは半分正しくて半分間違っている
例えば
大鳥医院の診察室は白くない上に
瞬たちの主治医の和真は黒い診察衣を着ている
何より
瞬が見る病院は昔から淀んだ泥水のような色をしている
——ひとつ、溜め息
姉のためとはいえ、やはり病院に来るのは気が進まない
「荒神の病で記憶に関する報告はない」
悪意のない、光沢のある黒い色——主治医が和真で良かったとは思う
それは少なくとも
瞬を不快にさせる色ではない
「やはり一時的なパニックと考える方が妥当だろうな」
診察室で向かい合う瞬と和真
色はよそ見をすることなく、真っ直ぐに瞬へと向かってくる
嘘はつかれていない——だが
和真は目線を逸らして
何かを考えている
その横顔を、瞬は不思議だと思いながら見つめる
幼い頃から和真を知っているが
今日の彼はどこか、見知らぬ国の見知らぬ人のようだ
もう一度、溜め息
それから
「何が気になるの?」
と聞く
「うまく言えないが、引っかかることがある」
不快、ではないにしても
瞬は和真が苦手だ
自分の白い色と並ぶと反発してしまう
混ざり合うことは想像できない
互いに接することはあっても
たぶん
自分たちは相手の色を絶対に受け入れないだろう
それでも
いまだに謎の多い荒神の病に向かい合ってくれることには感謝している
辿っていけば、荒神の病は平安時代に遡る
かつて愛する者を奪われた、一人の男がいた
彼は女を取り戻すため、京を離れて山を登る
人里離れた山奥で、男は女を見つけて泣いた
だが、女は別れの言葉も言えず、すぐに息を引き取った
汚された体、踏みにじられたその心——男は書いた
怒りと憎しみが落とす呪い——狂気に駆られる男に残った
最後の人間性は、命の限り呪詛を書き続けること
自らの血が絶えるまで、赤い血文字で神に祈った
一族郎党、その末代まで痛みを与える、吾子と
その連合いは、代々この血を清め続けよ——我は必ず
罪人たちの肚のなかまで不幸を挿れて、望まぬ婿と
なり続けよう——かくして男は死してまだなお死を知らず
神は呪詛を聴き届け、黄泉の淵と女を繋いで
死した胎から赤子を取り出す——白子の嬰児は人にあらず
荒神と名乗り、男と女の無念を晴らせと毒を注いで
罪人どもを殺してまわる——それは間も無く達成される
しかし荒神の毒はすぐに終わらず、子孫は命を削いで
毒の代償を払い続ける——荒神の病はこうして生まれる
白子の體は若くして、肚の奥で毒を搾る
だが稀に、毒に耐えて力とする者も現れる
大鳥の家は代々医術に携わり、荒神の主治医でもある
自分の知らない遥か昔からの関わりを考え
きっと荒神と大鳥は
昔から白と黒の関係なのだろうと瞬は思う
それがおそらく、最も良い距離なのだ
「体の異常はないんでしょ?」
「血液検査の結果待ちだが、おそらく変わりはないだろうな」
淡々と、色が流れていく
青は青のまま、茶色は茶色のまま、静かに、本当に静かに
「いい結果が出ますように」
隣の部屋から聞こえてくる八尾の声
ちょうど、姉の採血が行われている
八尾は若い看護師で、姉弟にも明るく接してくれるが
瞬は和真以上に彼女が苦手だ
「瞬君は今日も心配性ね」
瞬の白色をいたずらに刺激してくる八尾の喋り方
おかしな色が滲んできて、それが、不快になる
「言ったじゃない、心配しすぎよ」
姉の声もして、その透明さが自分の白色を覆ってくれることに安心する
もう、八尾の飛ばす雑色に怯むことはない
「父さんが病を発症したのも突然だったでしょ」
と、八尾や和真を気にすることなく姉の心配をする
「突然だったら、発症するまで心配しても仕方ないじゃない」
力強く広がっていく、姉の透明さと薄青色
姉は——変わった、と思う
昔は荒神の宿命のせいで
暗く覇気もなく、後ろ向きで、いつも怯えた目をしていた
だがいつの間にか宿命を恐れることがなくなり
姉は立ち上がり、その色はどんどん澄んでいった
心配しているのは自分だけで
姉は全く気にしていないように思えることもある
まるで、荒神の病など存在していないのだとでも言うように——
だがその半分は、自分に気を遣っているに過ぎないということも
瞬には分かっている
——三度目、溜め息
「何か分かったらすぐに連絡して」
立ち上がる瞬
姉も診察室に入ってきて、和真に挨拶をする
「行こう」と言って姉の手を取る——だが
「潤子ちゃんはもういいが、瞬もついでに診ておく
もう少し残ってくれ」
和真に止められる
彼の目配せで「先に出てるね」と姉は退室し、瞬は——
四度目の溜め息をつく
自分を覆う姉の色が遠くへ行き
和真の黒い色が侵食してくる
もう一度座りながら、自分の色を確認する
混ざり合ってはいない——いややはり、混ざり合わないからこそ
厄介なのだ