第一章 7
遠くから
足音のように近付いてくる
予感と不安が混ざって地面に落ちる音
それは鋭く突き刺さって
近付いてくるほどに存在が強くなる
最初の休み時間——今堀からのメールに返信をする
「今日は体調が悪いので、教室には来ないでください」
もちろん、良い返し方だとは思わない
しばらくして今堀からの返信
もちろん、開かずにそのまま
今頃、今堀のクラスではどんな話がされているのだろう
その波が潤子の側までやってくるのは時間の問題だ
だから
早く終わらせなければならない
携帯電話をしまって
目を閉じる——そして
少しだけ、全ての音を遮断する
まるで宙に浮いているかのような感覚のなかで
すっぽりと音が抜けてしまった世界を潤子は見つめる
それは静かで、どこか遠くの出来事のようで
同時に
彼女の内側そのものだった
音がしないのに騒がしい——いつも
この世界はそうだ
目には見えない嵐のようなものが常に渦巻いていて
笑っている人も、泣いている人も、静かな人も、みんな
そこに巻き込まれている
そして自分も同じように、荒れ狂う騒がしさを抱えている
だから
周りが言う潤子の印象はどれも外れていると、彼女は思っている
物静かでも落ち着いてもおっとりもしていない
目を開ける
携帯を取り出して、メールを確認しようとして
チャイムが鳴った
同時に何かが折れた音
それは小さな棘のように潤子の意志に突き刺さり
彼女の動きを鈍らせる
そのまま
時間が過ぎていく
昼休みが来て
紅花と一緒にご飯を食べて、少し心配をされて
「大丈夫」と答え、「無理しないでよ」と言われ
午後の授業も終わって、放課後となる
「また明日ね」と紅花は部活に行き
軽く深呼吸をして、その音を聞きながら早く今堀に会いに行こうと思った時
教室に残っている者たちが騒ぎ始め、そこに
今堀の姿があった
思わず、立ち上がる——ああ
今、自分がどんな酷い顔をしているのかと思いながら
とうとう自分に突き刺さった予感と不安を潤子は聴く
それは瞬く間に姿を変えて、全身に冷たい電気のような音を走らせる
「どうして来たの」と大きな声で言いたい
でも、言えるわけもない
声が出ない
手も足も動かない
金属が破裂するような奇妙な音が耳鳴りのように膨らんでは萎む
ああ、近付いてくる、心配そうな顔、優しそうな顔、しっかりとした、今堀の中低音
「本当に顔色悪いけど大丈夫?」
聞きたくなかった声
耳を塞ぎたい、でも、手が動かない
そして音が、教室の音が
一瞬だけ停止する
——その後に続く、休符という音
今堀が、「え?」という音を漏らし——そしてすぐに
「あ、荒神さんと俺、付き合うことになったんだ」と
今堀の発する予定調和の音がした
休符は雪崩のような音の連なりに飲み込まれ
「やっぱり本当だったんだ」「隠さなくてもいいじゃない」「うらやましい」と
投げつけられてくる石のような声
恐れていたことが現実となり
教室中の声が足元の方に沈んでいって潤子を持ち上げようとする——まるで
磔刑のようだと感じながら潤子は神ではなく瞬の名前を口にする
「保健室に行こう
俺も一緒に行くよ」
と今堀の声が返ってきて
「彼をお許しください、自分が何をしているのか知らないのですから」
と言うことなどできず
「大丈夫、一人で行くから
今堀君は部活に行って」
と自分にもはっきり聞こえない声を出す
だめだ、と思う
耳鳴りが鋭い音に変わってきて
もう、自分の音が聴こえない
大波に飲み込まれる船のように
自分は跡形もなく海の底に消えていくんだろうなと思いながら
薄れていく意識を必死に左手のかすかな音だけで繫ぎ止める
「ぜんぜん大丈夫じゃないよ
一緒に保健室まで行こう」
と聞こえたのは既に潤子のいる世界の外の音
限界、と思う
どんなに耳を澄ましても
たかだか潤子一人の音なんて、やっぱり、しれている
「姉さん」と、聴こえた
ああ、瞬の声は自分の内側からも聴こえるんだ、と思い
もう一度、瞬の名前を呼ぶ——すると
左手を誰かに掴まれてはっと外の世界に戻ってくると
「姉さん、しっかりしてよ」
目の前に、瞬がいた
「遅いから迎えに来たんだよ
今日は一緒に買い物行く日でしょ」
静かに、瞬の声が流れる
あんなに大波を立てていた嵐が嘘のようにねじ伏せられ
自分の音が戻ってくる——それは
気付けば瞬の音と重なっていて
この世界に自分は生き返って来られたのだと潤子は思う
「ちょうどよかった
荒神さんの体調が良くないんだ
一緒に保健室まで行ってもらえないかな」
と今堀が瞬に言うその音が遠くで聴こえる
「姉の体調のことはよく知っていますから大丈夫です
これくらいなら帰られますから今日は失礼します」
と瞬の淡々とした音が森の泉のように流れる
「ごめんなさい、今日は弟との約束があって」
と潤子は泉にその足を浸けるように嘘をつく
教室を出る潤子の左手はまだ瞬に握られていて
握り返しながら瞬の音を確かめる
それは
潤子の音が成立するための
どこまでも控え目な、太陽のような音だった