第二章 19
深井家は裕福な家庭である
父親はそこそこ大きな会社の社長
母親は不動産会社の役員——それゆえ
希織と希月は
幼少から両親と一緒に過ごした記憶をあまり持っていない
きっと——兄の方が寂しかったのだと
希織はずっとそう思っている
よく泣いていた兄の姿を、今でも覚えている——だから
自分がしっかりするべきなのだと思ってきた——それでも
自分だって本当は寂しがり屋で弱虫なのだと
希織はよく、分かっている——ちょっと
歪んでしまった、と、思う
自分の味が、希織はあまり好きではない
辛みが強くてちょっと苦い——でも
本当は甘くなりたい——
どうやっても、自分からは甘くなれない
だから
誰かから頼られることを望んでいる
そうすれば——頼られている時は
自然と甘くなれる気がする
深井家の大きな家のドアの鍵を
希月が開ける
玄関は広く、そこから廊下が続き
いくつもの部屋が並んでいる
そのうちのふたつは防音された演奏室
片方は希月の、片方は、希織の——
「空いてる部屋のひとつを使ってもらうとして
とりあえず雨に濡れたし
シャワーでもどうぞ」
希月の淡白な声が
少しだけ張っている気がする——これは
意図的な緊張感だと希織は察する
きっと兄は
この久利という謎の男を家に入れることをよく思っていない
それでいて自分のわがままを聞き入れ
その上で
自分を守ろうとしてくれている
ああ——と、希織は自分の嫌な味の上に溜め息を落とす
小さな頃は、自分が兄を支えて守っていくのだと思っていたのに
いつの間にか兄の方が強くなってしまった
少し——いや、少しどころか
泣きそうなくらいに苦い
本当に、心底、自分の弱さが嫌になる
粉々に噛み潰して、味がなくなるまで咀嚼して
そのまま闇のなかへと飲み込んでしまえればと、いつも思う——だが
この弱さは噛めば噛むほど、味を強くしていく——いつか
耐えられなくなってしまうかもしれない、と
不安になることがある——だから
今はともかく、誰かの役に立ちたい
そうすることで
少しだけ、自分に甘みが生じてくる
空いている部屋の一室を開けて
希月がどうぞと久利を手招きする
「殺風景な部屋で申し訳ないけど、ここを使って
とりあえず今からシャワーに行ってもらって
着替えを後で持っていくよ——それから
朝食は七時にダイニングで
一緒に食べるってことでいいよね、希織」
希月が、話を振ってくる
聞いていなかったわけではない——わけではないが
少しだけ驚いてしまった
突然、味の強い料理を乗せらたような感覚——でもそれは
自分の好きな味の料理
「ええ、食事くらい一緒にしましょう
それと、私たちは七時半には家を出るから
その後は自由にしてちょうだい」
少しだけ、調子が狂う
多分、希月のせいだ
希月の淡白な味が
自分の味と調和してこない——わざと、そうされていると
希織には分かっている
自分が久利に入れ込みすぎないようにと
希月はその淡白な味で距離を作っている
「あの、見ず知らずの怪しい人間に
ここまで自由にさせていいんですか
昼間は外に出ていますよ」
外に、出てもらっていた方がいい
それは自分にも分かる
希月はそうしてもらいたいと思っている——だけど
「あなたが演技でそんなに不安そうにしていると思えないから
落ち着くまではここにいなさい
何か思い出せてきたら教えて」
希織は、自分のわがままを通す——通してしまった
「気が変わって、金目のものを盗んで逃げるかもしれませんよ」
久利がそう言い、希月が、何かを言おうとする——しかし
その前に
「その時は地の果てまで追いかけるから覚悟しなさい」
と、希織は言った——
一瞬、沈黙
一瞬、全ての味が消え
それから——
希月の笑い声がした
いつもの、淡白な食べた気のしない寒天のような味
「うちの妹は恐いから、変なことはしちゃ駄目だよ」
久利が、少しだけ力を抜いて
その味に柔らかさが出てくる——この、むせる味に変わりはない
それでも少しだけ、口に入れていられるようになった
「他に何か必要なものがあったらいつでも言って
私の部屋はこっちで、希月の部屋があっち
私の部屋は勝手に開けたら怒るから」
「はい、ありがとうございます」
久利が、わずかに笑った気がした
気が、しただけかもしれない
味の変化は感じなかった——だから
自己満足かもしれない、と、希織は思う
それでも
今はこの満足が必要だった——苦味の混ざった、憧れの甘さが




