第二章 4
騒がしさと、静けさに挟まれながら
音が
少しずつ歪みをなくしていく
だが
まだ地面の音が震えている——歩くのは、まだ無理そう
紅花の手を、まだ握っている
そこにだけ、交わることのできる音がある——きっと
もう少しで
自分の足を地面につけることができるようになる
でも——
落ち着いてきた音のなかで
潤子は昼休みの瞬の電話を思い出す
荒神の血への耐性——それは
つまり
潤子自身が毒を持っている、ということ
「ありがとう」
と言って
潤子は紅花の手を離す
音が
ゆっくりと離れていく——
それでも紅花は
その音を潤子から隠したりしない
離れた距離で、潤子の音をちゃんと捉えてくれながら
調和の取れた音を発し続けてくれる
もう一度
「ありがとう」と伝える
紅花は、ひとつ優しい溜め息
「いきなり走っていくからびっくりしたよ」
「ごめんなさい」
「どうしたの?
何か心配事でも思い出した?」
紅花の、しっかりと聴こえる音が落ち着く
強くて消えそうにない音なのに
痛くも不快でもない
「私、どこに行ってた?」
思い切って、潤子は訊いてみる
紅花は、目を大きく開けて、驚きながら声を出す
でも
彼女の音は、ぜんぜん潤子と反発しない
「潤子、屋上に向かってたじゃん
でも速かったから、最後まで追えなかったんだけどね
だから私は教室に戻って待ってたけど
遅いから潤子の鞄を持って玄関に行ったんだ」
「そう、だったんだ
……ありがとう」
紅花の音に
そっと
自分の音を重ねる
その調和が
今はちょうど気持ちいい
抜けた記憶は埋まらない——だけど
その不安を隠してくれるくらいに、今
紅花が音を発してくれている
そこに
ドアの開く音が割り込んできて
現実の音が目まぐるしく潤子たちの音に覆い被さる
入ってきたのは、養護教諭
「ごめんなさい、あなたたち、帰ることはできる?
警察が来て、生徒を帰らせるようにって言われてるの」
「潤子の体調が悪いんです
もう少し休ませてくれませんか」
紅花の声が、無慈悲な音の圧迫に対する反撃のように返される
だが——
たぶん
自分も、ここでいつまでも休んでいる場合ではないのだと
耳の奥でかすかに流れる音が予感のようにそう伝えてくる
「大丈夫、私ももう歩けるから」
「無理しちゃ駄目だよ」
「心配しないで
紅花のおかげで、元気になってきたから」
柔らかく、綻ぶ音を発しながら
紅花が手を差し出してくる
自分の毒のことを考えながら、潤子は少しだけ躊躇して——
それでも、軽くその手を握る
「先生、警察が来てるって、何かあったんですか」
紅花の声が、何気ない音となる
でも
それは
潤子にとって悪夢の前触れのように感じられ——
口ごもる、先生
視線を外す、先生
そして——
「屋上で生徒が倒れてたの」
と言う声が、けたたましい襲撃の合図のように鳴り響いた
潤子は、息を飲む
音が、もう、よく分からない
「もしかして、二年の今堀君ですか」
前のめりになって、潤子はかすれた声を出す
紅花に体を支えられ
戦火のなかをくぐる小さな石のように
潤子は、音を飛ばす
先生は、驚きの音をはね返し
潤子は、音が戻ってきたことに後ずさる
「何か知ってるの?」
と、先生の音が追い打ちをかけてくる
何と言っていいか、分からない
ただ、嫌な予感が当たり
抜け落ちた記憶が大穴のように潤子を飲み込もうとし
その恐怖で体中が震える
でも——
駄目だ、と、両足に力を入れる
倒れてはいけない
瞬のところに行かなければならない
「もしかして潤子、今堀君に会いに屋上に向かったの?」
紅花の声が、少しだけ不安がっている
音が微妙に揺れ続けて、その振動は
潤子の音にまで響いて不安定さを増幅していく
「あの、屋上に弟の瞬はいませんでしたか」
少しだけでも、音を綺麗にしたい
今はそれが精一杯で、潤子は瞬の名前を口にする
「ええ、瞬君が見つけて知らせてくれたのよ
今堀君が倒れているって」
瞬が、見つけた?
——音がうねって歪んで潤子の頭のなかをかき乱していく
目を閉じても、音が消えない
どういうことか分からない——いや、本当は
そのひとつの可能性をもうすでに理解している
潤子は、もう、理解している
消えた記憶、屋上に行った自分、倒れていた今堀君、発見した瞬——
「あの、今堀君は大丈夫なんですか」
声が、唇が、眼球が、潤子のあらゆるものが震えて止まらない
自分の名前を呼ぶ紅花の声がする
でも、大きな川の向こう岸からの声のようで、とても遠い
それよりも、先生が
先生が——
答えてくれない
目を逸らして、口と手を小刻みに動かして、それから、「あ——」と声を出し
また黙る
「どうだったんですか」
視界の半分は黒く覆われ
音のほとんどはもう聴こえない
ただ——潤子はただ、先生の声だけを聴こうとそこにだけ集中する
腕を伸ばして、
先生の体を掴む
「どうだったんですか」
もう、答えは分かっている
——分かっている
「悲しいけど、荒神君が見つけた時には……
もう死んでいたらしいの」
「うそ……」
紅花の声が聴こえた
でも
もう駄目かもしれない
「潤子!」
はっとして、潤子は目を開ける
崩れかけた体を紅花が支えてくれていて
ひどい汗を、かいている
「真っ青だよ!
やっぱり休ませてもらおう、ね、潤子」
紅花の音が、自分だけに向いてくる
それくらい
心配させてしまっている
だけど——と
潤子は否定する
もう、自分は、紅花に心配してもらえるような人間ではない
きっと
きっと——
自分が今堀君を殺してしまった
荒神の力で、殺してしまったのだ
「大丈夫、私は、大丈夫
大丈夫だから
ちゃんと帰れるから」
音が
消えた
思った以上に自分の声がしっかりと響き
それは
細くて冷たい鉄の棒のように
保健室にすっと流れる
瞬に——
会いたい
やっぱり——
会いたくない
全身の音が沸騰しているように動いているのに
手も足も、口も、綺麗な音を出すことができる
自分でも恐いくらい、綺麗な音
倍音の全くない、純粋な音
潤子は、鞄を持って保健室を出る
「家まで送るよ」
紅花がいつものように追いかけてくる
でも
「大丈夫
ちょっと一人になりたいの
ごめんね
今日は
一人で帰らせて」
音が消滅した世界に
混ざり気のない暗い声が通る
響くことも、反射することもなく
ただ、すっと通って、すっと消える
紅花が、黙る
潤子は、玄関に向かう
強い雨の音が聞こえて
雑多なその音が
気持ちよかった
潤子は、歩いていく
傘も差さず
消えてしまったあらゆる音の代わりに
全身で、雨の音を受けながら




