1.「ライアさん、いいよなあ……」
うなじの位置で結んだ、背中まで流れる白い金髪。黒が混じる青い目。長身で、起伏に乏しく男女の別がつけにくい身体。
そして、先の尖った長い耳。
そこに美貌を足すと、薔薇侯爵家に仕えるエルフの奴隷青年、「うさぎ」になる。
そんなうさぎの、まずは、ほんの少しの身の上話。
エルフの青年であるうさぎは、主人の薔薇侯爵に、奴隷として買われた。
……わけではなく、別の貴族の館から引き取られた身の上だ。
前の主人が何をしていたかということを、うさぎは、まったくといっていいほど知らない。
何も知る必要はないと、奴隷はそれでいいのだと。物心つく前から、言葉に態度に示されてきた。
それがすべて、あの日、ひっくり返った。
物々しく武装した男たちが、前の主人の館に乗り込んできた。
私兵たちが応戦し、騒々しくやり合い始めたあたりで、うさぎ――当時は別の名前で呼ばれていた――はあわてて物陰に隠れた。
喧騒、剣戟。
鼻につく煙、そして鉄錆のにおい。
見えない狂騒は、うさぎの胸に不安と焦燥をもたらした。
が、それも最初だけ。
あとは流されるだけだという、諦観が脳裏をよぎる。それがうさぎにできたことだ。
物心つく頃から奴隷であり、エルフとして育まれるべき価値観を持たないうさぎにとって。自分にあるのは、魂に刻まれた真名と、奴隷という身分だけだったのだ。
これから、「死」というものが訪れるのだろうか。
そう、ぼんやりと感じたとき。
勝鬨が上がった。
ああ、終わったのか。うさぎはそう思った。
そしてしばらく経ったころ、
「おや、エルフかね」
隠れていたうさぎにかけられた、穏やかな声。
見上げたうさぎの眼前に、闘争とはほど遠いであろう、穏やかな紳士――薔薇侯爵の顔があった。
薔薇侯爵に手を引かれ、外に出たうさぎの目に映ったのは。
瓦礫、屍、そして――怯えや困惑をあらわにする奴隷たち。
「なに、心配はいらない。皆悪いようにはしないさ。もちろん、お前のこともね」
あとから聞いた話では、前の主人は「あくどいこと」をしていたのだそうだ。
その中に、「希少種族の子供を攫って奴隷にする」ことも含まれていた。うさぎもそのひとりだろう、と。
そのあと「色々な後片付け」があり、うさぎをはじめとした奴隷たちは、あちこちに引き取られていった。
そして、うさぎは薔薇侯爵家へとやってきた。
実際に暮らしてみてわかったのは、現在の主人である薔薇侯爵は、風変わりな「奴隷観」を持つ人物だということだ。
――「人間至上主義」を掲げ、それ以外の種族はほぼ例外なく奴隷である。
それが、うさぎが暮らしている国の常識だ。
しかし主人は、
「世間でいうような奴隷は、我が薔薇侯爵家には似合わないと思ってね」
と、うさぎをはじめとした奴隷たちに、短くはない期間をかけて教育を施した。
それこそ、人間である使用人と、まったく遜色ないほどの。
教育だけではない。服装も所作も、使用人とほぼ同等に清潔で、優雅であるよう徹底された。
使用人と同等なのは、給金についてもである。
奴隷に、給金。
世間知らずだったうさぎからしても、これは普通ではないことだとわかった。そして、それを間近で見ている使用人たちに、訝しむ様子はない。
特別なことなど何もない。薔薇侯爵家では、それが普通なのだ。
そんなこんなで、薔薇侯爵家の使用人と奴隷たち(紋章の装着と種族以外は、使用人である人間たちとの別はない)は、おおらかな主人のもとで穏やかに暮らしている。
◇ ◆ ◇
うさぎには先輩がいる。ともに前の主人の下から引き取られた、小人族の青年だ。
薔薇侯爵家の奴隷たちには、「ならわし」として動物の名前がつけられる。
うさぎもそうだ。
そして、小人族の青年に与えられた名は「駒鳥」。
しかし、
「おれっちのことはロビンって呼んでくれよ! なーに、旦那様やお嬢様がいないときだけでいいからさ。コマドリっていう、意味は同じらしいぜ?」
駒鳥はなにかにつけて、奴隷仲間にそうおどけてみせた。その様子は、小人族特有の、幼く見える容姿にはよく似合う。
彼はいつも、庭園のムードメーカーだった。
◇ ◆ ◇
薔薇侯爵家では、人間の使用人も、人間以外の種族である奴隷も、ほとんど区別されない。
使用人頭を務める者などは個室をあてがわれているが、だいたいは、部屋も食堂などの施設も共用だ。
浴場も同じく。親しい使用人と奴隷が湯に浸かりながら雑談に興じている様子など、よく見る光景である。
だから、
「あれ、ぼくだけか」
うさぎは、珍しく誰もいない浴場を見わたしてひとりごちた。
まあそんな日もあるかと、そのまま髪と身体を洗い、ゆっくりと浴槽に身を沈める。
「ふー……」
湯の心地よさに、表情をゆるませて息をつく。顔にかかる湯気すらも適温だ。
ひたり。
湯を堪能するうさぎの背後から音がした。
「うわっ!? ……なんだうさぎか。お前一瞬女に見えるんだよな、湯気ん中でうしろ姿だとよけいに」
「こま……」
「ロビン」
「ロビンさん」
「よし!」
頭にタオルをかぶせた駒鳥が、にかっと少年のような笑みを浮かべた。
すばやく身体を洗った駒鳥は、うさぎの右隣に足を入れ、
「あ、ロビンさんそこは」
小さな残像が、とぷんと湯に沈んだ。
そしてざぱ、ざぱと水面から手が突き出され、浴槽の縁をがっしりとつかみ、
「ぷっはあ!? ……お前、下の台ズラしただろ」
駒鳥が、頭から腰までを勢いよく湯から出した。じっとりとした目でうさぎを見ている。
「すみません、わざとではなくて……」
「まあ、いいけどよ……っと!」
縁につかまりつつ、駒鳥が足を器用に使い水底の「台」を動かす。そして、
「ふーっ。これでちょうどいいや。いやー、休まる休まる」
背丈が低い者用の台に腰掛け、だらりと表情を緩めた。
「おつかれさまです。駒ど……ロビンさんの作る食事は、いつもとてもおいしいです」
「だろ、だろ? 食に関してはおれっち、主菜副菜菓子なんでもやるからな! 厨房連中とあれやこれや試すのがたのしーんだ、これまたな!」
駒鳥は目をきらきら輝かせ、ばちゃばちゃ、と水面をたたく。
「今度湖畔のダンナたちがお越しになるだろ? 腕によりをかけさせてもらうぜえ!」
「それは、まかないも期待させてもらえそうですね」
「おう、まかせとけ! ちゃんと全員分、おやつも用意してやるからな! ……ライアさん、喜んでくれるかなあ」
その名を口にしたとたん、駒鳥の表情から全身から、全てが蕩けた。
ライア。うさぎが初めて薔薇侯爵家に来る前から働いている、使用人頭の女性の名前だ。
指示は的確、仕事は早くて丁寧。ほがらかな性格で、主人とお嬢様をはじめ、使用人にも奴隷にも信を置かれる優秀な人物である。
うさぎと駒鳥よりもひとつふたつ年上な彼女は、人間でありながら、長い天命を持つ彼らと比べても遜色ないほど若々しい。
「ライアさんって、いいよなあ……」
湯のせいか、別の理由か。駒鳥の顔はほんのり赤い。
「おれっちが奴隷じゃなかったらなぁ」
夢見るような大きな目に、ほんのわずか、寂しさを覗かせて。駒鳥は、ひとりごとのようにつぶやいた。
駒鳥は恋をしているのだ。決して叶わない恋を。
人間であるライアと、人間ではない奴隷の駒鳥。
この国において、種族の違いは、あまりにも大きい。
「ライアさん、いいよなあ……」
想うことだけは、奴隷であろうと自由である。
うさぎは曖昧な表情を浮かべながら、駒鳥が大切にしている恋の花の幻を、魔法で見た気がした。
◇ ◆ ◇
「ねえ、うさぎ!」
仕事をしていたうさぎの腕に絡みつく、細い両腕。
うさぎの視界の端に、きらりと艶がある金髪が映る。
「その仕事が終わったら、わたくしのティータイムの準備をしなさい!」
薔薇侯爵家のひとり娘、「エスカおじょうさま」。
「わたくしとおまえ、ふたりだけ、よ?」
お嬢様の胸元のネックレスが揺れる。
いつぞやうさぎが、湖畔の坊ちゃまから渡された原石を飾って作ったものだ。翼竜の『渡り』があった日以来、いつの間にか、お嬢様が身につけるようになっていた。
「わかったわね?」
明るいブルーサファイアの虹彩は、潤いと輝きに彩られている。
十三歳になったお嬢様も、その胸に、小さな恋の蕾をふくらませていた。