タイトル未定2026/04/12 03:19
マスターが昼間勤める、実家の診療所。
朝の申し送りが終わり、マスターは診察室の席に座り、パソコンのキーボードを打っていた。
「先生」
看護師の声に気が付かず、マスターはキーボードを打ち続けていた。
看護師の三度目の声で、マスターはようやく気が付き、顔を上げた。
「お呼びしても、良いですか?」
「あぁ、はい。お願いします」
看護師は診察室を出て、待合室に行き患者の名前を呼んだ。
午前の診療が終わり、看護師たちは、昼休憩に入った。
マスターの診察室で仕事をしていた看護師は、院長の診察室で仕事をする看護師に、歩きながら言った。
「今日は、先生いつにも増してぼんやりしていたわ」
「そうなの。院長と喧嘩でもしたのかな」
「先生、院長と犬猿の仲だもんね」
「院長はどう?機嫌が悪かった?」
「院長は、いつもの仏頂面よ。良いなぁ、先生のとこで仕事ができて。代わってよ」
「そんなこと、できるわけないでしょ!」
二人の看護師は、笑いながら休憩室に入っていった。
マスターは診察室の中の入り口の前で、腕組みをして立っていた。
「盗み聞き?悪趣味ね」
その声で、マスターは驚きながら振り返った。
「緑さん!」
看護師長の緑は、マスターの隣に立った。
「朝から、ぼんやりしていたんだ」
「いや……」
「今度は、何?」
「こんな所で、言うことじゃ……」
「ランチしながら、聞くよ」
「着替えてきます」
先程の二人の看護師は、休憩室で長方形のテーブルの前に足を崩して座り、家から持ってきたお弁当を食べていた。
休憩室には、職員用のロッカーと小さな台所に冷蔵庫と電子レンジが置かれていた。
院長の診察室で仕事をする、看護師が言った。
「先生って、結婚しているのかな?」
「あぁ、最近指輪をはめているもんね。でも、結婚していたら報告ぐらいするんじゃない?」
「実は、院長に隠れて極秘入籍?」
「それで、いつも以上に仲が悪く、今朝もぼんやりしていたとか?」
「相手は紫野師長、だったりして。よく一緒にいるし」
二人は、笑い出した。
「相手が、私って何のこと?」
緑の声が、二人の看護師の声をかき消した。
マスターの診察室で仕事をする看護師が、慌てて言った。
「先生の結婚相手は、紫野師長かなぁと」
緑は白衣を脱ぎながら、豪快に笑った。
「うれしいけど、残念ながら私ではないわ」
緑は白衣をロッカーに入れ、ハンドバッグを出した。
「先生の結婚相手って……」
緑はニヤリと笑い、休憩室から出ていった。
マスターは、緑が運転をする車の助手席に座った。
緑がマスターを連れて行った場所は、緑が最近見つけた住宅街の一角にある和食の店だった。
外観はは薄緑で、若者向けなスタイリッシュな建物だった。
店内は落ち着いた雰囲気で、客層は老若男女幅広かった。
明るい窓際に案内され、テーブルに置かれたメニュー表を眺めた。
メニュー表は、丼もの中心に、定食やお茶漬け等があった。
マスターも緑も、梅茶漬けをオーダーした。
「さっき看護師達が、先生の結婚相手は私だと、噂していたわ」
緑の言葉に、マスターは笑った。
「年齢考えてよ。マスターと私の年齢、親子との差よ」
マスターは、笑い続けていた。
「先生って、仕事以外で看護師と、話をしたりしないの?」
「しない……ですね。緑さんと話をするから、近づけないんじゃないんですか?」
「言ったなぁ」
マスターと緑は、顔を見合わせ笑った。
その姿は、はたから見たら、まるで恋人同士のようだった。
「お待たせしました」
スタッフがオーダーした茶漬けセットを、テーブルの上に置いた。
丼の中に入った白米と、小鉢に入った梅干し三粒と、ちょっとした漬物と、お茶が入った急須がお盆の上に乗っていた。
白米はツヤツヤしていて、梅干しは大粒で、見ただけで唾液が出そうだった。
マスターと緑は、食べ始めた。
お茶漬けを食べ終えたマスターと緑は、お茶漬けセットについていたコーヒーを飲んでいた。
コーヒーをゆっくり飲みながら、緑が言った。
「……で、ぼんやりしていた原因は?」
「……白田さんが、ボクのことを避けています」
「流花ちゃんが?先生の気にしすぎじゃない?」
「だと、良いんですが」
マスターは、コーヒーを飲んでから続けた。
「白田さんが大学の友人たちと楽しそうに歩いている所を、偶然見ました……無理ないか。ボクと白田さんは、年の差がありすぎる。同年代の友人達と一緒にいた方が、楽しいんだろうな」
緑は、マスターをじっと見つめた。
「先生は……自分の気持ち、流花ちゃんにハッキリ伝えたの?」
「あっ、いえ。伝えていません」
「私はずっと先生を見てきたから、先生が自分の気持ちを伝えられない気持ちは、よくわかる。でも、本当に流花ちゃんと一緒になりたいなら、自分の気持ちを伝えなきゃ」
コーヒーの最後の一口を、緑は飲み干した。
「今度こそ、幸せになりたいんでしょ」
照れ隠しをするようにマスターは頬杖をして、緑から視線をそらした。
「ねぇ、いつも白田さんって、呼んでいるの?」
緑から視線をそらしていたマスターは、「そんなわけ、ないでしょ」と言うように、黙ったまま手を伸ばして、緑の額を突いた。




