【第一章】第二話~存在しないもの~
地震騒動からはや一ヶ月、クラスの様子も固まりつつあった。
夏希も新しい友達や後輩ができた。けれど、夏希の違和感は日に日に大きくなる。
そんな違和感を抱えながらバイト先で紗枝に「どうして気付かないのかなぁ」と言われた言葉が妙に胸に残る。
翌日もバイトに行こうとした時、その言葉がまたよみがえり部屋を見渡すと……。
地震騒動があったものの一学期もはや半月が過ぎ、クラスの様子も固まってきた。
私も新しい友達ができたし、部活にも後輩が入ってきて責任感も出てきた。だけどまだみんな緊張したり固い感じがしているので、そこは新しい季節の始まりを否応なく実感する。
だが私は拭いきれない違和感が常にあった。それは言葉にするには少し足りず、無視するには大きい。
例えば友達。新しく仲良くなった子のはずなのに、妙な安心感がある。彼女の雰囲気と言えばそれまでなのかもしれないけど、何かがひっかかる。逆もまた然りで、人当たりが良さそうな子のはずなのに、妙に苦手意識があったりもする。
例えば気付き。何気なく目を向けたはずなのに、そこで何かが起こる確率が高いようにも思う。先日の体育の時なんか、ふと目を向けたら隣のコートからバレーボールが飛んできてあわやぶつかりそうになった。またある日、下校途中でふと向かい側の道路に目を向ければ、おじさんが自転車で横転する瞬間を目撃した。
偶然と言えばそれまで。既視感なんてそれまでの経験の積み重ねによる推測だとどこかの本で読んだ気もするけど、それが妙に多い。でも確証がない。だから最近何だか気疲れというか、また今日も変な感じになるのかなとうんざりしていた。
「夏希、どうかしたの? 元気無いよ」
授業の合間、ぼんやり外を眺めていると涼香に声をかけられた。彼女に話しかけられるのはいつだって嬉しい、この変にモヤがかった気持ちを吹き飛ばしてくれるから。ただ、人一倍心労の多い涼香に変な心配はかけたくなかった。
「なんでもない。ところで最近はすごいじゃない、たくさん練習して上達してさ。小浜先生にも褒められていたし、このままレギュラー取れそうじゃない?」
吹奏楽部での彼女の熱の入れようは今年に入ってから目覚ましい。涼香の担当はフルートなのだが、私から見てもかなり上達してきている。
「当たり前でしょ。そうなればここに専念できるんだから」
「私からしたら毎日刺激がありそうだけどな、そっちの方が」
するとやれやれとばかりに大袈裟に肩をすくめ、涼香が苦笑いする。
「そりゃあるかもしれないけど、常識の違う世界だからね。変な刺激ばっかりだよ」
「そう言えば次の舞台、アイドルの工藤君も一緒なんでしょ。どうなのあの人?」
「何回か一緒に稽古やったんだけど、なんかチャラいんだよね。ヘラヘラしててどっか舐めてる感じがあるから、長続きしないんじゃないかなぁ」
「そっかー。バラエティとかでたまに見てると面白そうなんだけどね」
「お仕事だからね、どんなに面白いテレビでも」
芸能界の事は快く思っていない涼香だけど、私が訊けば割と素直に色々教えてくれる。これは小学生の頃から付き合っている私だからこそなのかもしれないと、勝手に特別感を抱いている。
まぁ、涼香の方としても変に気を遣われるのが嫌なだけかもしれないけど。
「舞台の方、やっぱり大変?」
「んー、そうだね。もちろん上手くいったら嬉しいけど、そればかりじゃないし。それにさ、やっぱり何年もやってるとわかるんだよね、演技に伸びしろが無いってさ」
「そうかなぁ。でも、何年もやってる本人が言うんだから、そうなんだろうね」
そんな事無いよ、なんて言葉はプレッシャーになってしまうのを良く知っている。それに今更そんな事、私が首を突っ込む事じゃない。それよりも涼香が好きなようにして笑顔のままでいて欲しい。
「そうなのよ。なのに親とか事務所の人達はまだ私に期待しちゃってさ。はぁ、一人暮らしとかしてみたいな。そしたらあれこれ言う人も傍にいないから楽になれるのに」
「高校卒業したら、家を出ちゃうの? 一人になればさすがにそういうのは減るだろうけど……」
けれど私の提案に涼香は淋し気な目をして小さく笑うばかり。
「どうかな……そうなったら両親が黙っていないし、変な事になればワイドショーが面白おかしく報じるでしょ。どこにも逃げ場なんかないよ、私には。あーあ、大人になんかなりたくないな。子供のままならチヤホヤされるし、多少の不便を我慢していれば上手くいくのにな」
「上手くいかない子のが圧倒的に多いよ」
クラスを見渡し、からかい交じりにそう言う。私を含め、ほとんどがそうだろう。みんな卒業後は東京に行きたいとよく言っているけど、ここを出て上手く働けたり馴染める人がどれだけいる事か。
「でもさ、もしいよいよってなったら夏希なんとかしてくれる?」
「当たり前でしょ。涼香の事は見捨てないよ」
抱き着かれそうになり、私は慌てて彼女を制した。
基本的に土曜、日曜はバイトを入れてある。平日は部活などでなかなか入れられないからこそ、休日にしっかり稼がないとならない。もちろん友達と遊びに行く事だってあるけど、それは時間を調整すればいいだけ。遊ぶにしてもお金がいるし、欲しい物だって色々ある。お小遣いだけじゃ、とてもじゃないけど足りない。
まぁ、部活でどうしても土日参加しないとならない時はバイトを休んだりするけど、その辺はかなりゆるいと言うか優しくしてもらっている。そういう雰囲気だからこそ、私は働くのが楽しい。
「おはよーございます」
土曜日の今日は午後からバイト。お昼ご飯を食べてから向かえば、紗枝さんが相変わらずレジで本を読んでいた。一方的に挨拶してから私は事務所の片隅にバッグを置くとエプロンをつけ、バックヤードに納品された本を陳列する作業に取り掛かる前にぐうっと大きく伸びをする。これは仕事開始前の合図のようなもの、いわゆるルーティン。
ここは私の家から自転車でニ十分の位置にある町の小さな書店。築五十年以上経っているため建物自体にも年季が入っている。おまけに書店の売り上げなんか働いてからわかったけど大した事無いみたいなので、外装だってペンキが剥がれていてもなかなか直せないまま。
良く言えば味がある、ありのままに言えば古くてボロい本屋だ。
私はまず押し台車に本を乗せ、各コーナーに陳列していく。そんな私に対し、紗枝さんは気にする素振りも無くレジでじっと読書中。傍から見れば無関心で業務放棄しているようにも見えるだろう。
最初の頃はバイトの先輩である紗枝さんに苛立ちを覚えたものだけど、店長も嫌がる返品処理や売り上げ確認などを完璧にこなすため、もう何も思わなくなった。それどころか面倒な処理は紗枝さんに頼めばすぐ片付けてくれるため、適度に体を動かして満足感とお給料を得られる今の立ち位置が楽だと気付いたのだった。
「ねぇ、夏希ちゃん」
陳列を終えた後、店内の掃除をしていてレジ近くに移動した際、不意に紗枝さんから声をかけられた。落ち着いた、けれどどこか含みある声に私はすぐ振り返る。
「昨日と今日の違いって何だと思う?」
また何かの哲学書でも読んだのかな。でも紗枝さんのこういう問答は正直、嫌いじゃない。不思議とこの人、惹きつける魅力があるのだ。それに私の頭の体操にもなる。
「それは自分の成長とか周りの進歩じゃないんですかね。あとは単純に日付とか」
「じゃあ、今日と一年後の違いは?」
「年齢でしょうね。色んなものの」
満足のいく解答だったのか、紗枝さんがにまりと笑う。
「じゃあ、メビウスの輪って知ってる?」
「えーっと、あの八の字が途中でぐにゃって曲がっているやつですよね。無限を表す」
子供の頃に何かの雑誌で見たのを真似して折り紙で作った覚えがある。
「じゃあさ、ミッシングリンクって聞いた事ある?」
「えぇと、人間と類人猿を繋ぐ進化の過程が抜けている事でしたっけ? 急にジャンプしたみたいに、途中の骨とか痕跡が見つからないとか」
すると紗枝さんがおぉっと驚きの声をあげた。
「良く知ってたね。私が教えようと思ったのに」
「いやぁ、たまたまこの前動画のオススメにあったから見てみたんですよ。で、何ですか? 今日は輪の話ですか?」
くすくすと私が笑うと、紗枝さんがどこか疲れたように笑った。
「……夏希ちゃんはそこまで知力が高いなら、どうして気付かないんだろうかね。もっともっと、ありとあらゆる所に気付いて欲しいんだけどなぁ」
「気付いて……あっ、ごめんなさい。忘れてました」
そう言えば入口の傍に玄関先を掃除した際のほうきを置きっぱなしだった。私は慌てて頭を下げると、すぐにそこへと向かう。後ろで溜息が聞こえたような気がしたけど、それに反応するよりは片付けを優先した。
怒ってたのかなぁ。でも、それくらいじゃ怒ったりしない人なんだけどな。
片付け終えて紗枝さんの方を遠目から見れば、彼女はまた読書に夢中のようだったので、触らぬ神に祟りなしと遠くで作業する事にした。
しかし、紗枝さんの妙な問答が頭にひっかかったままなのは事実だった。
何がではなく、どこがでもなく、私を覆っているこの違和感に対してのクエスチョンでありアンサーのようでもある。
ありとあらゆるとこに気付く? どうして気付かない?
それがまるで呪縛のように、バイトを終えて寝るまで私の頭の中に渦巻いていた。
日曜日、私はお昼からまたバイトのため自宅で身支度をしていた。
昨日紗枝さんに妙な事を言われたせいで何だか落ち着かない。始業式から日に日に強くなる違和感、妙な気付き。それが何なのか、何がそうなのかわからないままずうっと私は小さな混乱の中にいる。
そんな気持ち悪さを抱えながら着替えをしていると、ふと自分の部屋の中に強烈な違和感を感じた。
改めてぐるりと部屋の中を見回す。ベッド、勉強机、壁に貼ってあるポスター、子供の頃からのお気に入りのぬいぐるみ、そして本棚。そこに目を向けた途端、ようやく違和感が初めて形となって表れた。どうしてそこに気付かなかったのか、自分でもわからない。
漫画の巻数がぐちゃぐちゃになってる……。
私は割と几帳面なので、漫画は一巻から順番に並べている。本棚の下段にある、最近読んでいない少女漫画が五巻、二巻、四巻、一巻、三巻とバラバラになっているなんてありえない。このところ友達を家に上げていないし、私の家族で私の漫画を読もうとする人はいないからだ。
何でだろう。いや、いつからこうだったんだろうか?
怖くなったけど、違和感の正体がつかめるかもと私はそこにしゃがみ込みそっと手に取る。けれどそこには漫画本があるばかりで、他には何もない。それにしても私はこれを一体最後にいつ読んだのだろうか。ちょっと思い出せない。
けれどこれがどういう事なのか、どうしてこうなったのか考えてもよくわからないし、それ以上手掛かりは無かった。それにバイトの時間も近付いていたので私は一旦それを忘れるように、急いで支度を済ませて家を出た。
バイト先で働いていても、やっぱり先程の事が気になっていた。誰かが私の部屋に勝手に入ってきたのだろうか。何かしら犯罪にでも巻き込まれているのだろうか。例えばストーカーとか……。
いやまさか、涼香ならともかく私にそんなのいるわけがない。
そう信じたいけど、世の中変わった人もいる。いや私に狂気の好意を抱いているというよりも、涼香と仲が良いからそれを妬んでの犯行だってありうる。人によってはきっと仲良く話してるのも許せないだろうし、涼香が私に抱きつこうとしているのも許さないだろうから。
不安と恐怖が渦巻いて思わず溜息をつくと、不意に紗枝さんから声をかけられた。
「大丈夫? 何やら思い詰めたような顔をしているけど」
とっさに大丈夫ですと答えそうになったが、グッと言葉を飲み込んだ。こういうの誰に相談するのが良いかと言えば、紗枝さんが一番適任かもしれない。だって本当に色んな事を知っているのだから。
「あの、ちょっと聞いてもらってもいいですか?」
「別にいいけど」
紗枝さんと向き合うと、私はそれでもどこかで馬鹿にされるかもといった恐怖を拭えず、エプロンの端を握った。
「変な話かもしれませんが実は最近、ずっと違和感がありまして。今日もここに来る前、自分の部屋の本がバラバラに置かれていたんです。そんな事私はしないし、誰も部屋に入ってきていないのに。他にも何気なく見た先で誰かが転んでいたり、変な事が起こったりする確率が高くて」
紗枝さんは真面目に私の話を聞くと、一つうなずいてくれた。
「違和感と言うものは過去の経験の積み重ねからくる差異。過去に目を向ければ解決すべき未来も見えるものだよ」
過去。私には思い出したくない過去がある。でもそれは遠い過去。それを乗り越えて私は今を生きているが、でも心のどこかでその過去が私を追ってくる恐怖がある。ただそれを乗り越えて私は今の私になった。去年だって……。
そこまで考えて、ふと思いが立ち止まる。遠くの方でモヤがかかった絵が見えてきたから、何とか私は焦点を合わせていく。
まず最初に浮かんだのはこの書店が雪降る時期に取り壊された記憶。でもそんな事はありえない。だってどんなに古くなっていても、一度もそんな大規模なリフォームした事なんか無いのだから。ペンキすら塗り替えられないのに。
次に浮かんだのは秋に涼香が失踪したというニュースだった。
それこそありえない。涼香は過去一度もそんな事件を起こした事は無いのだから。けれど私は全国ニュースになり、有名なコメンテーター達が揃ってありもしない予想を並び立てているのを憎々しげに聞いていた姿が思い浮かぶ。
またその次に浮かんだのは私や涼香が変な男の人に連れられ、車に乗せられた様子。恐怖に怯える私達を乗せた車が暴走し、ガードレールを突き破って崖下へと転がり落ちていく様子。当然ながらそんな事、体験していない。
それは全て存在しない記憶。だけど妄想と言うにはあまりに現実味があり、深く記憶の中に入り込めば詳細を言えそうな気がした。だけど類似した事件や記憶は存在しないはず。
だって、その記憶の中には凪や和樹、黒岩もいた。去年そんな事は起こっていないのは間違いないのだから。
違和感が少しずつ形になっていき、言語化できそうな気がする。やがてそれは一つの仮定へと結びつこうとするが、あまりにも荒唐無稽なものすぎて笑い飛ばしたくなる。しかしもう、それ以外に説明できそうな理由が思い当たらない。
私、もしかして同じ時間を繰り返してる?
夢や妄想にしてはリアルすぎる感覚。けれど自分の記憶を必死に辿り、掘り返すと奇妙な差異があらわになる。
例えば新学期早々の地震。あれだって驚き慌てふためき、おろおろするだけの私がいたかと思えば、避難しようと涼香と顔を合わせてどうしようと言っている最中にガラスが割れて二人できゃあきゃあ言っていた記憶もある。
でも私は確かに地震が起こった時に廊下の方へ目を遣り、怖かったけど驚きはしていなかった。それはもう、何度か体験していたからなのだろう。
どういうことだろう。まるで私だけが時間に取り残されて、同じ日々を繰り返しているみたいだ……。一日や二日じゃない、そう、この一年を。
いや同じじゃない。その一年の中で色んな事がバラバラの時系列で起きているみたいだ。まるでそれはパラレルワールド。私が選んだ結果によって色んな世界に別れ、その先で誰かが不幸になっているのが見える。
そして私も例外無く。
「何か見えた?」
けれど私は紗枝さんの言葉が耳に入らないくらい呆然と立ち尽くすばかりだった。




