彼女の針は追うのか、追われるのか。
「そういえば、ハクトと違って貴方たちは時間を気にしないのね?」
今更だけれど、気になっていることを口にした。
どう思い出しても、ここに来てから“時間”について話が上がったのは、三月とヤマネが、チェシャ猫を探しに森へ行こうとしたときだけだ。
別に日が暮れてきたわけではないけれど、こうも外でお菓子と紅茶を摂取して談笑するだけ、というのは落ち着かない。
「そりゃそうだよ、俺ら白ウサギじゃないし」
「というか、時間を気にする人のほうが珍しいですよ? 時計を持っていない人だっていますし」
「……これ、私の夢よね? え、用事がないから、気にする必要がないってこと?」
あっけらかんとした返答に、思わず馬鹿げたセリフを呟く。
私は時間を気にするし、そもそも時計がない生活なんて考えられないんだけど。
私の最初の呟きには答えずに、チェシャが笑った。
「俺はその言い方でもあってそうなんだけどねー、帽子屋は違うよ。“お茶会をすること”が彼の仕事なんだ。だから時間は気にしなくていい」
え、帽子屋でしょ? そうツッコミたくなったのを堪えて、頭を働かせる。下手に何でも質問すると、彼らのおかしなツボにはまって、大笑いされかねない。
……お茶会をすることが仕事なら、普通お茶屋とか、マスターとか呼ばれるんじゃ……いや、でも帽子屋だし……帽子屋だよね? あれ、じゃあやっぱり……?
私の中で起こりだした混乱をよそに、帽子屋たちは続ける。
「それに、彼どうせ遅刻するでしょう? 折角正しい時計なのに、意味ないと思うんですよねぇ」
「そうだよ、ならいっそ帽子屋みたいに時間止まってるの持ってればいいのにね」
「はい?」
混乱している最中でも、その言葉だけは聞き逃さなかった。
「……時計、止まってるの?」
「はい。六時ちょうどで止まってますよ?」
そう言うと、帽子屋は取り出した懐中時計を開いて私に差し出した。
受け取って突起物を押すと、カチンッと軽快な音が響いて細工の施された盤が姿を現れる。三月たちを送りだす時に聞えた音はコレだったらしい。
そして、細工を施された針は六時を示したまま停止していた。カチコチと言う音はおろか、秒針も微動だにしない。
「帽子屋の時計は六時で止まっている。だから帽子屋は閉店したままで、結果“お茶会をすること”が彼の仕事になるんだ」
思考が停止しだしてきた頃に、チェシャが笑いながら説明をしてくれた。
そっか、私の考えてることは筒抜けなんだった。あぁ、もう、なら今までの全然いらなかったんじゃない!
「壊れてるの?」
「いいえ、これが“帽子屋の時計”なんです。だから私にとっては正しい時計なんですよ」
「でも、動かないなら無いのと同じじゃない?」
というか、仕事しないで遊んでるってことよね?
そう続けたいのを堪えて、最初の疑問だけを口にする。
……ていうか、三月たち「六時のお茶会までに」って言ってたわよね……?
「もー……さっき言ったでしょアリス。“お茶会をすること”が仕事だって」
ちゃんと聞いててよー、とチェシャが私の頭を小突く。私の心を読んだからこその、言葉なんだろう。
そして、そんなチェシャのセリフのせいで私が何を思っていたのか察したらしく、帽子屋の笑顔が異様なまでに輝きを増した。
「あはは、お茶会をし続けるのも大変なんですよ、アリス?」
「え?」
触れちゃいけない話だったと気付いた瞬間、頭上でチェシャがため息をついた。
「紅茶やお菓子や、料理だって用意しなくてはいけませんし……たとえ用意しても、三月たちしかいませんし、ていうか最近は三月たちすらいませんし。たまに他の人が来ても休憩場扱いされますし……独りでお茶会のときなんて……ねぇ?」
休憩所、のあたりでチェシャを睨んだ気がしたけれど、あくまで笑顔を浮かべたまま帽子屋が私の口元にクッキーを差し出した。
恐る恐る口を開くと、普通に口に入れられた。さくっ、と砕けるクッキーはナッツ入りで、ザクザクとした触感と程よい塩気が美味しかった。
しばらく咀嚼した後、飲み込むと、またクッキーが口元に寄せられた。今度はチョコレートコーティングらしく、パキッと軽い音を立てて砕けた。ミルクとビターが半々で、口の中で絶妙に絡み合ってくどくない。
帽子屋の真意が分からないまま、咀嚼していると、今度飲み込まないうちに口元にクッキーが差し出される。今度はキャラメル入りで、ねっとりと纏わりつく甘さが少しかかった塩によって際立っている。ちょっと噛みにくいかなぁ……。
その後も、苺クッキー、バタークッキー、クリームサンドクッキー、スノーボール、ビスコッティ、フロランタン――――
「あは、アリスなんかハムスターみたいですね」
そう笑いながら、帽子屋が私の頬を突く。頬にたまったクッキーの欠片が頬に刺さってかなり痛い。
「そういえばウサギとネズミはいますがハムスターはお茶会にいませんよね。どうです? お茶会に延々参加してればハムスターになれると思いますけど、私暇人なんでお菓子とかを選ぶ時間はいくらでもあるんです。だから、そうそう味に飽きることもないでしょうし……」
「……そこらへんで、止めたげなよ帽子屋。俺でも可哀想だと思うよソレ」
チェシャの制止のおかげで、クッキーを食べきることが出来た頃には、帽子屋は紅茶を飲んでいた。
いつの間にか手元に寄せられていたクッキーの盛り付けられたバケットも、チェシャが手繰り寄せて、隔離されていたし。ていうか、すっごいクッキー入ってる! チェシャが止めてくれなかったら、私アレ全部食べさせられていたのかしら。
天国のような状況も、永遠になれば地獄になるんだと、身をもって気付かされた。いや、食べるペースとか、体重とか肌に影響しないとか、そういう配慮? があれば幸せな気もするけど。
そもそも、これが彼にとって天国のような状況かは分かんないし。
私にも淹れられていた新しい紅茶を飲んでから、ある程度元のテンションに戻った帽子屋に頭を下げる。
「ごめんなさい……」
「いやだな、悪い事していないのに謝る必要なんかありませんよ?」
「……ハイ」
あくまでも、ある程度。
「でも時間に縛られてる私や、論外なチェシャと違って、どうやらアリスは時間を追いたいようですから……どうしましょうね」
「お前さ、いつもだけど俺に酷くない? あ、イモムシの処は? あいつが一番いいんじゃないかなぁ」
トゲのある言葉を頭を下げたまま受け入れていたけど、イモムシのところで顔を上げた。待って、イモムシはあのイモムシよね。むしろイモムシって一つしかないわよね。
「あれ、アリス虫苦手?」
「心の中読めてるのに聞くのはイジメかしら?」
「やだなぁ、言葉にしなきゃ思いは通じないんだよ?」
何言ってるの? とウインクをしながら肩をすくめるという、なんとも器用なことをしてチェシャが笑う。
帽子屋の怒気に隠れていたけれど、こいつも大概うざかった。
「大きいリアルイモムシなんて夢で出したくないでしょ? なら大丈夫だよ、アリスの夢に出てこない」
夢だと思って安心してるんでしょ? とか言っていた人がよく言うわ。
その思いも通じてるらしく、ちょっと困り顔になりながらチェシャが来た方とは逆にある森を指差した。
……そういえば、お茶会って森の中で開かれてるのよね。
「あっちの森を歩いてたら、きっと会えると思うから行ってごらん?」
「え、私一人?」
突然、放り出されて声が裏返った。行ってごらんって、しかも歩いてたらってそんな適当な……!!
そんな私を見て、更に困り顔になりながら明後日を向いてチェシャが呟く。
「案内してあげたいのは山々なんだけど、俺……嫌われてるからさ」
三月たちに殺意を向けられても平気でお茶会に出向き、帽子屋の罵倒も会話の一部にしてしまうメンタルが鉄壁そうなチェシャから“嫌われてる”という言葉が出て、なおかつ帽子屋が何も言わない目が合わない。
……それが、どれほど深刻な事態なのか、さすがに私でも理解できた。
「そう……なの、ねー」
奇妙と言うか気持ちの悪い沈黙が流れた後、ニヤニヤ笑いが完全に消えたチェシャが再度森を指差して言った。
「だから、ね。いってらっしゃいアリス」
ここに来て初めての独りぼっちの冒険が、歯切れ悪く幕を開けた。