17 伯爵令嬢のおでかけ事情
しばし時が止まっていたようだ。
いや、時が止まったように数秒沈黙してしまっていたのは自分だ、と、アイリーンは我に返った。
慌ててスカートを両手で持ち上げて、夜の礼を取る。
「失礼いたしました、つい見惚れていて……」
いや、何を素直にぽろりと本当のことを言っているのか。
「……第二王子殿下にご挨拶いたします。お迎えまことにありがとうございます。あの、良い夜ですね、殿下」
かろうじて微笑んで、そう続けることができた。
アディンセル邸の玄関ホールで、いつもの黒い鎖の紗を超えた途端、開けた視界に飛び込んできたのは、正装姿のカルヴァンだった。
先日アイリーンの藤色のドレスを選んでくれたとき、ノエリアは「アイリーンのドレスの型に合わせて、カルヴァンもがっちがちのオーソドックススタイルにするよう侍従に通しておくわ。ちょっと流行から外れてようが、古風でお堅い第二王子の正装に奥ゆかしく合わせたんだって思わせれば、むしろとやかく言うひとのほうが無粋ってものよ」と言っていたが、天を仰ぎ見たいくらいそれに感謝した。
体格も姿勢も良いカルヴァンに、伝統的な黒の燕尾服は、この上なく似合っていた。
張りのある肩や胸を包む艶のある黒いジャケットに、目の覚めるような白いシャツとタイが、窓のように映える。その窓の上には月のような端正な顔が覗き、アイリーンを見下ろしている。ウエストカットの前合わせのおかげで、長い脚が更に強調されていた。
ポケットチーフは、淡い紫色。自分に合わせてくれたのだろう、と思うだけで頬に熱が集まってきて、せっかくメアリーたちが念入りに化粧を施して白く輝く肌に仕上げてくれたのに、台無しにしてしまいそうだ。
「いや、こちらこそ失礼した……」
しばらく沈黙していたカルヴァンも、丁寧に礼を返してくれる。美しい彼の所作は、動きに合わせてジャケットの襟が生む艶すら、細部まで整って計算されているのではと思えるほどだ。
そして身を軽くかがめて手を差し出されたので、アイリーンは陶然と、長手袋に覆われた自身の手をそこに重ねた。
更に身を折ったカルヴァンが、アイリーンの手の甲に口を寄せる。紳士の挨拶は、こういうときに本当に唇を触れさせはしないものであり、当然カルヴァンはその作法を守ったが、その触れるか触れないかの距離だけで、彼の唇の存在感や吐息を強く感じてしまう。
夜は始まったばかりだというのに、もう限界かもしれない。
「良い夜だな、アイリーン嬢」
「は、はい……」
放された手を、もう片方の手でつい握ってしまう。震え出しそうでそうせずにいられなかった。
そんなアイリーンを、カルヴァンは静かな宵の瞳で見つめて。
「……もう、幕が上がったのかと思った」
ぽつりと、呟くように真顔でそう言われる。
「取ってあるのがボックス席でよかった。平土間の客席にきみがいたら、女優たちが困ると思う」
思考が固まる。殿下はあくまで真顔だ。
(ご冗談……? お世辞? 笑った方がいいところ? でもとても笑えない……!)
困った挙句に、アイリーンはどうしようもなく赤くなる目を伏せた。
「あの、殿下も、夜を切り取ったようです。こんな素敵な夜が隣にいたら、目を帳に覆われて、舞台があまり見られないんじゃないかと不安なくらい……」
また、ただ素直に考えていたことが口からこぼれてしまう。
カルヴァンも困ったように沈黙した。
またしばし、おかしな空気で時が止まる。
「まあまあ、ほほほほ」
その照れっとした空気を割ってくれたのは、わざとらしいほどの母の笑い声だった。
「すでに素敵なお芝居を見せられている気分ですけれど、それでもせっかく席をいただいたのだから劇場に向かわないといけませんわね」
母も、既婚女性らしく控えめだが相応に着飾っており、その隣では見送りの父が何とも言えない顔で、兄が苦笑しながら、固まっている。せっかくの貴重な機会なので父たちも同行しないか誘ったのだけれど、一家総出で殿下にご迷惑をかけるわけにはいかん、と固辞されてしまった。
確かに、小さな子どもならともかく、十八にもなった娘が社交場に両親同伴でぞろぞろと連れ立つのは見栄えが悪い。
本来なら、付き添い人か侍女を伴うべきなのだろうが、アイリーンにはその用意がなく、母が来てくれるのが妥当だろう。
公園に向かった日と同じく、父兄に見送られて、家を出る。
夜の外気は、晩春の、少し熟れた花の香りに満ちていた。まどろむような、けぶる夜だ。もう少ししたら、この香りは、若々しい新緑のそれにとって変わるだろう。
溶けそうな月の下、馬車に乗って劇場へ向かう。
王家の馬車で送迎されるのは二度目だが、何度目だろうと慣れるものではない。まして今夜は、向かいに、素敵な夜が切り取られて、良い姿勢で座している。見つめすぎないようにするのが大変だ。
アイリーンはぎこちなく、これから見に行くオペラが楽しみだとか、中央劇場は初めてで緊張するとか、そんな他愛ない話をするのが精いっぱいだった。
アディンセル邸は郊外にあるが、王家の馬車はさすがに作りがいいのか、馬がいいのか、揺れも少なく、体感的にはあっという間に劇場にたどり着いた。
中央劇場は、古い離宮を改装したという壮麗な建物だ。
カルヴァンの手を借りて馬車を降り、正面口に続く広々としたアプローチに降り立った瞬間。
ざっと音がするほどの、視線を感じた。
今夜のオペラを目当てに、様々な上流階級の人々が集う場だ。当然、第二王子の顔を知る者も多いだろう。
さわ、さわ、と夜の空気を震わせるささやきの中、アイリーンは深く息を吸って、父の言葉を思い出した。
――王族は、常に人に囲まれ、見られていることが当たり前の人生を歩まれている――
これが、カルヴァンが見ている『日常』の風景だ。
ひるんでもすくんでもいられない。彼の隣に立って出かけたい、と願った以上、これは当然の覚悟だ。
朝の公園に出かけただけで新聞におかしな記事が載るくらいだ。正装を要求される夜の社交場は、まるで重みが違う。
アイリーンはあえてゆっくりと建物を見上げて、扇を持ち上げ、微笑んだ。この扇には、メアリーが髪に付けたのとお揃いの蝶を付けてくれた。お守りのような、かわいいちょうちょ。視線くらい、ひらひらと飛んでかわしていかなければ。
「素敵な建物ですね」
隣に立つカルヴァンに言うと、「確か元は五代前の王弟が住んでいたはずだ」と返された。
……そうだ、この方にとっては、遠い親戚のかつての住居、くらいの認識だ。
なんだか逆に力が抜けてしまって、アイリーンは、彼のエスコートに従い、左右に大理石の彫像が飾られた正面口をくぐった。後ろでは、何度も会った侍従が、愛想のよい笑顔で母を連れてきてくれている。
大きく開かれた扉の向こうは、シャンデリアの飾られた煌びやかなロビー、左右にカーブを描く優雅な大階段。
大勢の人がいるが、服装や雰囲気は案外まちまちだ。総じて、大階段を上っていく人々の服装が華やかである。上階に、貴族用のボックス席があるためだ。
更に裏手には、座席が埋まってから立見席に入る人々の列が作られている……はずである。そうメアリーから聞いた。前の方の立見席を確保するためには、昼から並んでおかないといけないんだとか。
大階段を上ると、貴賓用の小ロビーがある。飲食の小スペースや休憩のためのソファも並んだ、ゆったりした空間だ。
下のロビーに比べれば人は少なくなったが、ここでも視線とささやきは健在である。
むしろ、「第二王子殿下が」とか「あれはアディンセル伯爵夫人……?」とか「ではご令嬢かしら、よく似ていらっしゃる」といった具体的なささやきが増えたようだった。母の社交活動は最近は控えめだが、かつては社交界で有名な花だった。アイリーンが社交界にデビューしていなくても、母の隣に同じ瞳の娘が立っていれば、察せられるというものだ。
だが、直接話しかけてくることはない。基本的に身分が下の者から話しかけてはいけないものだから、第二王子がここにいる以上、この場にあちらから話しかけられる人間はおそらくいない。
カルヴァンがまず少し休むようにと席を勧めてくれ、侍従が飲み物を持ってきてくれる。
アイリーンは少しためらったが、母が「いただきなさい。全部飲まなくてもいいから」と言うので、きれいな桃色のドリンクが入った細いグラスを手に取った。味見程度に口をつけると、緊張に乾いた喉に果汁の甘みが吸い込まれていく。
カルヴァンも、おそらくワインだろうグラスを手に、母に話しかけている。
「始まるまで、まだ時間がありますね。伯爵夫人、どなたかご挨拶が必要な方はいますか?」
「あら。今日のわたくしは娘の付き添いです。この子を放ってご挨拶差し上げなければならない方はいらっしゃいませんわ。それよりも、殿下はお知り合いも多いことでしょう。差し支えなければ、ご紹介いただければ幸いです」
来た。アイリーンは腹をくくる。母にも、作法を臨時で教えてくれている講師にも、言われていた。
殿下の立場に甘えて隠れていてはいけない。こういう場で、誰とも挨拶を交わさない方が、紹介もできないような相手なのかと憶測を生む。
カルヴァンもそれは分かっているのだろう。ぐるりと周囲を見回して、
「部下がいましたので、ご紹介してもいいでしょうか」
と、立ち上がる。
アイリーンも、グラスを置いて彼に手を添えられて立ち上がった。ずいぶん中身を残してしまったが、席を立ち去ってすぐ、劇場の給仕が慣れた様子で片づけてくれる。そういうものなのだろう。
それにしても、こうした、ちょっと立ったり座ったりということにも、カルヴァンはごく自然に手を貸してくれる。堅物の父も感心したほどの、きちんとした作法の体現者だ。紳士だ、といつも感心してしまう。それなのに本人は、自分は武骨者、みたいに言うから不思議だ。
カルヴァンが足を向けた途端、どうやら目当ての人物は向こうから近づいてきた。
「少しいいだろうか、ケンドール卿」
「はっ! 夜のご挨拶を申し上げます、副団長殿!」
明るい笑顔が印象的な青年が、笑ったまま敬礼をする。
「……ここは訓練所ではないぞ」
「失礼しました。だってご指導が入るときの呼び出し方にそっくりでしたからね」
「それは悪かった」
「冗談ですって。こういう場でお会いしても副団長……おっと、殿下はお堅いんですねぇ」
からかうように笑う青年を、隣に立った赤毛の貴婦人が肘で強めにつつく。
「無礼が過ぎるわよ。……夫が失礼いたしました、殿下。私からもご挨拶申し上げます」
「いや、俺の呼び方もよくなかったんだ、ジェナ卿……またやってしまったな。オードニー伯爵夫人」
「殿下にそう呼ばれるのは新鮮ですね」
アイリーンは、最近覚えさせられ始めている貴族年鑑――ではなく、昨年読んだ新聞記事を思い出していた。第二騎士団所属の男爵家令息が、騎士を多く輩出してきた武門のオードニー伯爵家に婿入りし跡を継いだ、という話。オードニー伯爵家長女のジェナ卿は、第三騎士団副団長を拝命する女騎士で、家格も騎士階級も上の姉さん女房を捕まえた幸運なやっかまれ男は、しかし秋の狩猟大会で大物を仕留め、大いに面目をほどこし……。
「紹介してもいいだろうか。こちらは、アディンセル伯爵夫人と、そのご令嬢だ」
「お初にお目にかかります、伯爵夫人、令嬢」
オードニー伯爵夫人が凛々しく礼を取り、アイリーンと母もそれぞれ名乗って挨拶した。
「こちらは、オードニー伯爵夫人とその夫。……つい逆に紹介してしまうな」
「はは、それでいいですよ! 俺は妻の添え物の人生に誇りを持ってるんで」
あっけらかんと笑う騎士に、アイリーンも思わず笑みがこぼれた。
「いいえ、名高い狩猟大会準優勝者にお会いできて光栄です」
「おっと、それをご存じでしたか。いやぁ、幸運だっただけなんですけどね。こんな可憐なお嬢さんに褒められると嬉しいなぁ」
「だらしない顔しない。殿下のお連れ様よ。……ですが、確かに少し意外でした。ご令嬢は狩猟大会の見物にいらしていたんですか?」
「あ、いえ……身体が、少し弱くて。領地から出てきても、あまり出歩けずにいたんです。オードニー伯爵の栄誉は新聞で拝見しました」
「ああ、それでお見かけしたことがないんですね。こんな美しいご令嬢にお会いしたことがあれば、絶対に覚えているのにと思ったんですよ。アディンセル伯爵夫人……ということは、王太子妃殿下のご縁戚でしょうか」
「ああ、義姉上の叔母君と従妹殿にあたる。最近、義姉上から紹介を受けた縁で、本日はここに案内させてもらっている」
「うわぁ、殿下の伝手、さすがに強すぎやしませんか」
周囲から聞き耳を立てる気配は感じたが、底抜けに明るい婿養子伯爵と、細かく気の付く伯爵夫人のおかげで、楽しく談笑することができた。
彼らの仲介を含め、更に何人か紹介される。
ケンドール伯爵夫人が孫娘に剣術を教えているという老婦人を紹介されると、アイリーンは雑誌のガーデニング特集でインタビューを受けていた方だ、と思い出したし、
カルヴァンの教育係の一人だったという貴族議員を紹介されると、アイリーンはアカデミー卒業生氏名の優等欄に載っていたのと同じ家名だ、と思い出した。
趣味が思わぬ所で役立つものだ。
新聞雑誌には虚偽も載るものだと学んだところだから、そこには気を付けなければいけないが、少なくとも、一度見たことがある名は覚えやすく、幾人もと会話をしても、自然と名前と立場、人となりを記憶できた。
おそらくカルヴァンが、話しやすい人を選んで紹介してくれたためでもあろう。
覚悟したよりずっと気安い時間を過ごせて、安堵したころ、劇場の使用人が合図の鐘を鳴らした。
まもなく、オペラの幕が上がる。




