番外編 発展途上の旅路
アルジャンテは、紳士的かつ硬派な日本国製軽快車である。
彼は不偏不党を旨とし、誰に対しても——もちろん相手の車輪や足の数を問わず——誠実な態度で接していた。
大阪生まれの彼は、現在の乗り手であるツカサと出会い、東京への進出等のさまざまな経験をしていた。
自転車界広しといえど、彼ほど自転車生経験の豊かな軽快車は、なかなかお目にかかれないだろう。
しかしアルジャンテには、唯一経験していなかったことがあった。
そう、恋である。
彼はツカサの恋愛模様をつぶさに見守っており、その素晴らしさは充分理解しているつもりでいた。
けれど、知識と経験は異なる。
アルジャンテは、あるときCelesteの君と運命的な出会いを果たし……ドッピオというスーパーキュートなつがいを得たのである。
それからというもの、アルジャンテの調子は良い意味で狂いっぱなしであった。
◆
「ジャン、おはよう!」
「おはよう、ドッピオ」
十一月のある晴れた日、アルジャンテとドッピオはとある公園で待ち合わせをしていた。
彼らの乗り手はどうやら同じ趣味を通じて親しくなったらしく、今日はサイクリングを楽しもうという話になったのだ。
最近になってドッピオが自らを「ジャン」と呼び始めたことに、アルジャンテは大きな喜びを感じていた。
「あの、狩野田さん。本当に大丈夫ですか? ……何度も申し上げて恐縮なんですけど、ロードバイクとママチャリでは……」
「No problem.」
英検一級だというアルジャンテの乗り手……ツカサは、完璧な発音で鈴木の言葉を遮ってみせた。
「鈴木さん、お気遣いありがとうございます。しかしアルジャンテは、普通の自転車ではありません。以前から優れた自転車でしたが、僕が手術を施してからというもの、その性能はロードバイクにも劣りませんので……」
「あ、そ、そうなんですか……」
鈴木は少し頬を引き攣らせたが、すぐに「うんうん」と自分を納得させるように頷いた。
ドッピオの乗り手は、生粋のお人好しであった。
アルジャンテはそんな二人の話を微笑ましく聞いていたが、目の前で愛しきつがいがもじもじとドロップハンドルを揺らめかせているのに気づき、すぐさま声を掛けた。
「どうしたんだい、ドッピオ」
「ええ……?」
照れたようにはにかんだドッピオは、キュキュッとフロントブレーキを鳴らしてアルジャンテを見つめた。
秋の陽光に照らされたCelesteは、普段よりも鮮やかにアルジャンテを映す。
「へへ、昨日鈴木に新しいオイルを使ってもらったんだけど、どうかな?」
「ああ、なるほど! どうりでいつもより輝いていると思ったよ。とても素敵だ。もちろん、いつもの君も素敵だけどね」
「もう、またそんなこと言って……。でも、ありがと!」
キュイキュイッ!と悪戯っぽくクランクを軋ませるその仕草の愛くるしさに、アルジャンテは思わず前カゴを取り落としそうになった。
しかしアルジャンテは硬派な軽快車である。
愛する者の前で間抜けな姿は見せられないと、彼は必死に前カゴ接続ネジを引き締めた。
正式にアベックになってからというもの、ドッピオはそれまでのひねくれた性格から離れ、アルジャンテに接してくるようになった。
毎朝コンビニで会うと「ねぇ、ジャン」と小鳥のように囁き、かすめるような前輪接触を仕掛けてくるのだ。
これには、さすがのアルジャンテもたじたじである。
ドッピオはもともと傾国の美人であったが、こゝろを開き甘えてくるさまは、その可憐さをマシマシにしていた。
——ねぇ、ジャンからもしてくれないとさみしいよ。
——僕、もっとジャンと一緒にいたいな……。へへ、なんてね!
ドッピオの可愛らしさは日毎に増し続け、アルジャンテは密かに「私はそのうち腑抜けて、すべての部品がバラバラになってしまうのではないか?」と悩むほどであった。
そして今日のサイクリング——彼ら自転車からしてみれば実質デートである——を控え、アルジャンテの頑強なこゝろは動揺を極めていた。
昨晩彼は、緊張のあまり一睡もできなかったほどである。
「じゃあ狩野田さん、そろそろ行きますか」
「ええ、鈴木さんが先でよろしいですよ!」
「あっ、じゃあゆっくり行きますね」
「いいえ。……鈴木さん、全力でお願いします!」
「はあ……」
乗り手同士のいまいち噛み合わない会話のあと、二台と二人は走り出した。
ドッピオが先を行き、その後ろをアルジャンテが追従する形である。
「頼むぞアルジャンテ」というツカサの囁きに、アルジャンテは大きく頷いた。
ドッピオは優れたロードバイクであるが、そのつがいたるアルジャンテが置いてかれるわけにはいかない。
アルジャンテとツカサは魂を共鳴させ——もちろん街中を走るのに適した速度に調整した——、ドッピオと鈴木の後ろをぴたりと付いていく。
「えっ、速っ! か、狩野田さんすごいですね……!?」
「ふふ、言ったでしょう! 全力で行ってくださいと!」
「いや本当すごいですね……!?」
良きサイクル仲間を得た鈴木が嬉しそうにしているのを見て、ドッピオも楽しげに声を上げて笑った。
しかしその場で笑顔でいられたのは、ドッピオと人間二人だけだ。
アルジャンテは、目の前の光景に激しく動揺していた。
「っく、これは……なかなか……ッ!」
「ジャン? どうかした?」
「い、いや、なんでもない……ッ! 前を見ないと危ないよ、ドッピオ……」
「はーい」
アルジャンテは必死にタイヤバルブを食いしばった。
彼の眼前には、愛しきドッピオの後輪が絶えず揺らめいていたためである。
——やれやれ、私たちのデートにこんな罠が潜んでいようとは……。
アルジャンテは独りかぶりを振った。
自転車にとって、後輪は極めて官能的なパーツである。
特にドッピオの後輪は細くなめらかで……なおかつ張りがあり肉感的であった。
そのパーツを惜しげもなくフリフリとさらけ出され、アンジャンテは完全に参っていた。
彼がその場でクラッシュしなかったのは、ひとえに生まれながらの鋼の自制心が働いたからである。
その後も、ぶれそうになる車輪を動かし続け、目的地の港に着いたころには、アルジャンテはへろへろであった。
精神的な疲労が、彼を蝕んでいた。
「いい天気ですね。ちょっと休憩しますか」
「そうですね! ところで鈴木さん、うちの子見たくありませんか?」
「あっ、えっと、今朝も拝見しましたけど……」
「まあまあ、そんな遠慮せずに!」
乗り手が目を離した隙に、ドッピオはシートステーを伸ばし、おずおずとアルジャンテに近づいた。
美しいCelesteをほのかに赤く染め、ドッピオは話しかける。
「ジャン、すごいね。とっても速くて、かっこよかった……」
「…………」
「へへ。僕、後ろにジャンがいると思ったら、ドキドキしちゃったよ」
しかしアルジャンテは、ドッピオの囁きに気づけずにいた。
彼は疲弊のあまり呆然としていたし、脳裏にこびりついた官能の旅路を幾度となく反芻していたのだ。
いくら紳士かつ硬派であろうと、アルジャンテも一台の自転車でしかなかった。
彼は港の海風に吹かれながら、これまでの旅路を思い浮かべていた。
——あんなになめらかで官能的な後輪、見たことがない……。
「? ジャン、ねぇ」
——ああ、ドッピオ……。君はどこもかしこも完璧だ……。帰りも君の後ろに付いてしまったら、私は……!
「ねえ! ジャンったら!」
「はっ!?」
ドッピオの大きな呼びかけに、アルジャンテはフレームをガシャッと鳴らして反応した。
ふと横を見れば、愛しきドッピオがぷりぷりと怒りを示していた。
いけない、とアルジャンテが思うのと同時に、ドッピオの怒りは止み、代わりにそのチェーンからはじわりとオイルが滲んだ。
「ド、ドッピオ」
「ひどいよ、僕が話しかけてるのに……」
「ああ、すまない。僕のCeleste、どうか泣かないで……」
「な、泣いてないよッ!」
ドッピオはごまかすようにボトムブラケットハンガーを振り、顔を背けた。
けれど滴り落ちるオイルは、彼の悲しみの証であった。
愛しきつがいのこゝろに傷を負わせてしまった事実に、アルジャンテは激しくうろたえた。
そのため、言わなくても良いことまで口にしてしまった。
「本当にすまない、ドッピオ、私は、その、君の後輪のことばかり考えていて……!」
「えっ?」
「あっ!」
アルジャンテが人間であれば、すぐさまその喋りすぎな口を押さえていただろう。
しかし不幸なことに、彼は軽快車であった。
前カゴをガショガショいわせ誤魔化したところで、吐き出した言葉を取り戻せるはずもない。
「後輪の、ことって……」
「ああ、ドッピオ……。私は不埒な軽快車だ。なんてことを……」
「…………」
ドッピオはパチクリと瞳を明滅させたあと、湯気が出そうなほどに車体を赤くさせた。
彼は、アルジャンテの言葉が指す意味を理解したのである。
鈴木がその一瞬の変色を見ていなかったのは幸いであった。
一方のアルジャンテは慌てふためき、ハンドルポストを鳴らして許しを乞うた。
「ドッピオ、どうか許してくれ。君のことは真摯に愛おしく想っている。でも、でも今日は……」
「……ジャンなら、別にいいけど」
「え?」
「ジャンになら、後輪、どれだけ見られてもいいよ」
「えっ!!」
アルジャンテは驚き、地上から二センチほど浮き上がった。
そんな彼に、ドッピオはぶっすりと顔を赤らめたまま続ける。
「……だって、ジャンは特別だもん」
「ドッピオ……」
「な、なんてね!」
「ジャンのえっち!」と一言呟いて、ドッピオはまたプリプリとドロップハンドルを揺らした。
アルジャンテはエスプリの効いた返しを得意とする軽快車だったが、このときばかりは呆気に取られてしまった。
するとツカサからの幸せの押し売りから逃れたらしい鈴木が、ドッピオにまたがり「なんか熱いな……?」と首を傾げる。
続いてツカサが、アルジャンテの背に乗り、朗々と告げた。
「行こうか、アルジャンテ!」
「……そうだな、戦友よ」
アルジャンテは、再びドッピオの後ろを走り始めた。
——やれやれ。
彼は苦笑していたが、その胸は果てしない幸福に満たされていた。
アルジャンテは、紳士的かつ硬派な日本国製軽快車である。
彼は経験豊富な自転車生を歩んできたが——その恋は、まだまだ発展途上である。