10.オレンジジュースにガムシロップ
編集部のオフィスは受付と同じように壁全面に大きく取られた窓から春の午後の日差しが差し込んで、とても明るい雰囲気を醸していた。
今日私たちが使わせて貰う予定のブースは紙とインクの匂いの濃く漂う編集部のオフィスの隅に設えられているスペースだ。小さくはあったけれど、窓とオフィスの壁、そしてパーテーションできちんと四角く区切られた部屋になっていた。ただし、パーテーションは床からいくらかの高さまでは目隠しのために木材の板で作られていたものの、そこから上は透明なガラス製。向こう側で編集者たちが忙しそうに働いている様子がしっかりと伝わってきて、慣れない私には少し落ち着かないのだけれど。
「さあ、座ってくれ」
ブース内には白を基調にした応接セットが据えられていて、最大四人が座って話が出来るようになっている。黒野さんの勧めに私がおずおずとその一つに腰を下ろすと、当然のように草壁氏が対面に座った。
私と草壁氏がそれぞれの席に落ち着いたのを見計らって、黒野さんは私たちの表情を見回して口を開く。
「さて、俺は飲み物を淹れてくるよ。最近はどうも他人には頼みづらいからね。皆、何がいいかな?」
どうやら黒野さんは私たちの分まで飲み物を淹れてくれるらしい。少し喉が渇いていた私は有難くその提案を受け入れて頷いた。
「あ、ありがとうございます。私はコーヒーをブラックでお願いします」
「オーケイ。鞍馬はどうする?」
黒野さんが草壁氏に訊ねると、彼はちらりと私を見てからすぐに視線を逸らした。
「?」
私は彼のそのごく一瞬の視線に、ちくりと肌を刺す痛みを覚える。その視線には何か、こう、ちょっとした……憎しみのようなものが含まれていたような気がしたのだ。
憎しみ……? 違う、これはどちらかというと嫉妬、なのかしら?
しかし草壁氏はすぐに黒野さんを真っ直ぐに見上げて答えた。
「俺はオレンジジュースか何かがあれば。ガムシロップも三つくらいくれるか?」
私はその注文に一瞬だけ、きょとんとしてしまう。コーヒーやお茶が苦手な人もいるだろうから、ジュースを頼むのは解る。だけどその大量のガムシロップは何に使うのだろうか。まさかオレンジジュースに入れるのかしら。
「はいはい、そう言うと思って用意してあるよ。了解」
黒野さんの平然とした声に、私ははっとして自分の考えを戒める。人の嗜好にケチを付けようなんて、私はいつからそんな大それたことを考えるようになったのだろう。確かに甘いものの摂り過ぎは良くないけれど、初対面の私にそんなことを指摘する筋合いはないじゃないか。
人知れず猛省する私をよそに、黒野さんは「じゃあ待っててくれ」と言ってパーテーションに穿たれた出入り口からブースを出て行った。私はその黒野さんの背中を見送ってから、そろりと目の前の草壁氏に視線を移そうとする。だが、私はすぐにその視線をうろうろと泳がせることになった。
草壁氏は自分の膝に肘をつき、口の前で両手を組んで険しい表情で目の前のローテーブルの中央辺りを見つめていたのだ。
(……もしかして、さっき考えてたことが全部つつぬけだった?)
ブースに入るまではとても友好的な雰囲気だっただけに、酷く焦ってしまう。
私が口をぱくぱくと開け閉めして声を掛けるか否か迷っていると、草壁氏ははっとしたように視線を上げてこちらを見た。その途端にばっちりと目が合ってしまって、私はまたしても反射的に顔を伏せる。
「あ、はは……。済みません、いい年した男がオレンジジュースだなんて、格好悪いですよね」
「えっ?」
取り繕うように苦笑した草壁氏の言葉を聞いて、私は思わず素っ頓狂な声を上げて再度顔を上げ、彼をまじまじと見てしまった。気にするのはそこなのか、と思う。