7月(下)
エドワードには嫌いなものが3つある。
第1に、仕事をしないリチャード。
第2に、口を開けば妹のことを話すリチャード。
そして第3に、面倒事を持ち込んでくるリチャードである。
「毎月毎日、あの人はこっちの仕事を増やすことしかしない」
そして今日のエドワードの下には、その3つが同時にやって来ていた。
エドワードは例によって最低限の物と大量の書類、後はお茶を淹れてくれる馴染みのメイドしかいない執務室にこもっていた。
シスタニアで最も忙しい男と定評のある彼の手には、ある報せが書かれた書類があった。
リチャードからエドワードに宛てたものだが、エドワードはそれを上から下へと斜め読んだ後、処理済の棚に放った。
7月の離宮の滞在の様子等が書かれているのだが、当然のように主にヴィクトリアのことが書かれていた。
正直、長い付き合いのエドワードからすれば読み飽きた内容である。
「どうぞ」
「ああ、ありがとう」
何も言わずに楚々としてお茶を淹れてくれるメイドに礼を言って、エドワードはカップに口をつけた。
眠気覚ましの紅茶だが、不思議と効いたと思ったことは無い。
今日もきっと、うだるように暑いのだろう。
「ああ、そう言えば」
別に誰に話しかけているわけでも無いが、エドワードは言った。
「うちの摂政殿下も、最近は少し変わったようだ」
もう周知の事実ではあるが、リチャードはドがつく程の妹煩悩である。
妹のために戦争すると言ってもエドワードは疑問に思わないが、逆にリチャードが1日でも妹のことを口にしない日が来たら相当に衝撃を受けるだろうと思う。
そして実際、リチャードが口を開けば一言目には妹のことなのだ。
それが最近は、少し変わったように思う。
エドワードが今見た報せの書類にも、その傾向は見て取れた。
一言目にはヴィクトリアのことを書いてあることは変わりないが、最近はそこに二言目が加えられるようになったのである。
「ま、別にそっちはどうでも良いんですけどね」
などと酷いことを言いつつ、エドワードは別の書類を手に取った。
よほど重要なのか、あるいはよほど嫌なことなのか、酷く微妙な表情を浮かべていた。
エドワードが特定の仕事や書類についてそんな顔をするのは――リチャードのことは除いて、だが――酷く珍しいことだった。
「こっちの件は、どうしましょうね。あいつ、リチャードのこと毛嫌いしてるからなぁ」
書類を指先でヒラヒラと揺らしながら、エドワードは憂鬱そうに溜息を吐いた。
リチャード達は今頃離宮で暢気にしているのだろうと、そう思いながら。
◆ ◆ ◆
――――冷静に考えれば、当たり前のことだった。
ベガは自分の足がつくくらいの所にいたのだから、わざわざ潜ってヴィクトリアを探す必要は無かったのである。
むしろ見える範囲にヴィクトリアがいなかったのであれば、波に押されて浜辺側にいると考えてもおかしくはなかった。
まぁ、慌て過ぎだったと言うことだろう。
波に引かれて沖に流されると言う可能性もあったのだから、まるきり無駄とも言えなかったのだが。
結論から言うと、溺れかけたのはベガ1人だった。
「姉さま、まだ具合悪い?」
「うん、まだちょっと……」
少しとは言え海水を飲んでしまったせいか、あるいは慣れない状況で精神的に疲れてしまったのか、ベガはあれから2日が経っても、体調が優れないのだった。
今は離宮の寝室で休んでいるところで、ベッド脇にはヴィクトリアがスツールに座って心配そうな顔をしていた。
ヴィクトリアの側は、すこぶる元気である。
「姉さま、ごめんなさい」
「いや、別にヴィクトリアは悪くないから……」
それに良く良く考えてみれば、仮に沖に流されてもリチャードがいたのである。
リチャードなら、大陸の反対側でヴィクトリアが溺れていても助けに行きそうな気がする。
そう言う意味でも徒労感を感じて、ベガは胸の内だけで深々と溜息を吐くのだった。
(……実際、リチャードに引き上げられたわけだしな)
ヴィクトリアを探して潜った後――まぁ、いなかったわけだが――ベガは自分が泳げないことを思い出した。
海水が目に沁みたこともあってパニックになってしまい、空気を一気に吐き出してしまったのである。
つまり、さっきも言ったように溺れかけたのである。
それを、沖合いから泳いで戻って来たリチャードが助けてくれたのだ。
海の中で、しかも立てば海面から顔を出せる位置でばしゃばしゃと慌てていた自分を、海水の中から抱き上げてくれたのである。
ただ傍から見れば1人で慌てて1人で溺れた馬鹿である、何とも恥ずかしい限りだった。
「姉さま、ごめんなさい」
「いやいや、だからヴィクトリアが悪いわけじゃな」
「兄さまがごめんなさい」
「平然とリチャードが悪いことにしたな、お前」
多分、ヴィクトリアの中では「自分が悪くない=リチャードが悪い」とでもなったのだろう。
何というか、相変わらず報われない男だった。
と、そんな風に名前を出していたからかもしれないが。
「ヴィクトリア、お兄ちゃんリンゴさん持ってきたよ!」
どかんっ、と豪快な音を立てて、リチャードが寝室に入って来た。
その行動にはベガも色々と言いたいことがあったわけだが、とりあえず1つだけ。
もう、リチャードが寝室に飛び込んできても驚かない自分がいた。
◆ ◆ ◆
リチャードは、怒っているのだろうか。
鼻歌交じりにリンゴを剥いているリチャード――そして剥かれる端から皮を口に入れているヴィクトリア――は、機嫌が悪いようには見えない。
ただ、何よりもヴィクトリアを優先するリチャードである。
大きな事故にはならなかったとは言え、妹を危険に晒した自分に対して怒っていてもおかしくは無い。
と言うか、怒っているに違いない。
そう考えると、弱っているせいもあってか、ベガは沈んだ気持ちになるのだった。
「良し、出来たぞベガ。ウサギさんリンゴだ」
「う、うさぎさん?」
見れば、確かに皮が器用にウサギの耳のような形になっていて、切り分けられたリンゴがお皿の上に可愛らしく並べられていた。
リンゴの実自体には興味が無いのか、ヴィクトリアは皮を食べた後は行儀悪く指を舐めていた。
ベッドの上で身を起こしたベガは、お皿の上に並べられたリンゴをじっと見つめていた。
「どうした、食べないのか?」
「……あのさ、リチャード」
しゅんとした様子のベガに、リチャードは首を傾げていた。
ただベガがどこか言いにくそうな様子を見せていたので、急かすようなことも無かった。
何しろ普段はヴィクトリアを相手にしているのである、忍耐力は人一倍ある方だった。
「ごめんな、その……ヴィクトリアのこと、ちゃんと見ててやれなくて」
「何だ、そんなことか」
「そ、そんなことって」
むっとして、ベガは言った。
「ヴィクトリアのこと、心配じゃなかったって言うのか?」
「それはもちろん心配だ、何しろ俺はヴィクトリアのお兄ちゃんだからな!」
「兄さま、うざい」
むぎゅ、とヴィクトリアを抱き締めるあたりは流石だ。
そしてヴィクトリアも兄の顔を押しのけるあたり、やはり流石である。
「ただ、実際にはヴィクトリアは無事だったわけだしな」
「でも」
「それにだ。もし本当にヴィクトリアに何かあったなら、俺はたとえ大陸の端からでもヴィクトリアを助けに行く。そして助ける、当たり前のことだ。だからヴィクトリアに「何か」は無い」
リチャードにとっては、それはヴィクトリアが生まれた時に定められた絶対のルールだった。
いかなる脅威からも妹を守ると、いかなる難題からも妹を救うと、そう決めたのだ。
だから、今回のようなことは彼にとっては小さなことだった。
仮に本当にヴィクトリアが溺れていたとしてもリチャードが助けるのだから、つまりは何も起こらなかったのと変わりが無いのだ。
「それに、今回はヴィクトリアよりも心配なことがあったからな」
「心配なこと?」
珍しい、リチャードにヴィクトリアよりも心配なことがあるなんて。
そう不思議に思っていると、そのベガの感情が伝わったのだろう、リチャードは苦笑を浮かべた。
そしてリチャードは、ヴィクトリアの頭を撫でながら言った。
「お前だ」
「え?」
「お前のことだよ、ベガ」
その言葉は、ベガにとって予想外だった。
◆ ◆ ◆
そもそもの前提として、リチャードには「ヴィクトリアを絶対に救う」という自信があった。
何があっても助かると確定――思い込みとも信念とも言える――しているのだから、妙な話、リチャードはヴィクトリアの心配をしていないのだ。
だからこそ、他人が危ないと思うヴィクトリアの我侭も好きにさせているのである。
「だから今回は肝を冷やしたぞ」
ヴィクトリアの頭を撫でながら、リチャードは言った。
それなりに良いことを言っているような気もするが、やに下がった顔では説得力が無かった。
妹を膝に乗せてデレデレした顔を見ていると、何と言うか、ベガは自分が色々と気にしているのが馬鹿らしくなってくるのだった。
「まぁ、そう深刻に考えないでくれ。こうしてヴィクトリアも元気なわけだし」
「げんき!」
「よーしよしよしよし、元気なヴィクトリアは可愛いなぁ!」
「うっとい!」
謝罪をしようにも、受け取る側がこれでは余り意味は成さないだろう。
だから最後には、ベガは苦笑を浮かべた。
そう言えばこう言う奴らだったと、そう思った。
思えば結婚してから、リチャードがヴィクトリアの行動を止める所を見たことが無かった。
単なる甘やかしかと思っていたが、もしかしたら、単純に信じていただけなのかもしれない。
ヴィクトリアのこと、そして何より自分のことを。
それは、少しだけ羨ましいと思えるのだった。
「いや、それにしても本当に今回は肝を潰したぞ」
そんなベガに、リチャードは言った。
「お前がいない生活など、もう想像も出来ないからな」
「え?」
一瞬、何を言われたかわからなかった。
ただ時間が経って、意味が胸中に浸透していくに連れて、ベガの頬に紅みが差した。
そんな風な言葉をかけて貰ったことなど、今まで無かった。
だから彼女は、胸を刺した痛みのような鼓動の意味を、計り切れずにいた。
そして、気付く。
自分もまた、リチャードと朝食を食べない朝を想像できなくなっていることに。
この数ヶ月間の聊か奇妙な夫婦生活は、ベガの人生を変えてしまっていると言うことに。
ベガは、早鐘を打ち始めた自分の胸に、息苦しさを覚えた。
そして――――。
「ヴィクトリアもお前のことを気に入ってるようだしな!」
――――ああ、うん、気のせいだと思った。
妹の頬に自分の頬を摺り寄せてスリスリしているこの男に、何らカッコ良いところなど無かった。
嘆息。
紅みも鼓動もあっという間に消えて、ベガはやはり苦笑した。
多分、自分とリチャードの関係はこれからもこんな風なのだろう。
間にヴィクトリアを置いた、いささか不思議な夫婦生活。
ただ、それを悪くないと思う自分も確かに存在していて。
ヴィクトリアの歯を見せて笑う笑顔に、ベガは確かに心癒されているのだった。
最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
妹はかすがい、私はそう信じているんだ(え)
と言うわけで、来月は夫婦の危機に陥ってもらおうと思います。
それでは、また次回。




