5月(上)
シスタニアの王族が5月を過ごす離宮は、マグノリア宮である。
白亜の壁には建物に必ずある継ぎ目が無く、見ているとつるりとした印象を受ける。
それはこの離宮が石材を積み上げて造られたのではなく、元々一つの石だったものを削り出して建てられたものだからだ。
そしてもう一つの特徴として、このマグノリア宮は居住部分が比較的小さい。
何しろ離宮の一部に大きな劇場があって、皇室向けの演劇等を行えるようになっているからだ。
どちらかと言うとそちらの方がメインであって、そして何故5月にこの離宮を使用するかと言えば、シスタニアではこの時期が芸術の季節だからだ。
(芸術ってのは、良くわからないんだよなぁ)
そしてその渦中に自分がいるだなどと、ベガは思いたく無かった。
1000人は収容できるだろう巨大な劇場――やはり白亜の一つ岩に、赤いカーペットと暗幕が良く映える――の一番良い貴賓用の展覧席に座りながら、ベガは演劇とやらが始まるのを待っていた。
オペラグラスとか言う観覧用のグラスを手の中で弄びながら、「これどうやって使うだろう」とか考えていた。
「ふふふ。いや、今年も良作揃いだと聞いているからな」
「はぁ……」
リチャードの説明によれば、これは毎年のイベントなのだと言う。
皇室がマグノリア宮に滞在している間、このいわば離宮劇場で演劇が毎夜行われるのだ。
そして月の最後に、一番良かったものに皇帝の名で賞が与えられるのだとか。
何でも他の月は、各地の劇団が離宮劇場に呼ばれるために頑張っているのだとか。
「今年はきっとヴィクトリアも気に入ってくれるだろう」
「はぁ……」
ちなみにこの件について、ベガは夫であるリチャードに対して生返事しか返していない。
と言うのも、2人の間には距離があったからだ。
貴賓席だから、と言うよりは物理的な問題である。
ここまで来れば言わずともわかるとは思うが……。
「~~♪ ~~♪」
2人の間には、機嫌良さそうにキャンディの包装紙を開けているヴィクトリアの姿があった。
普通、こう言うのは夫婦が隣り合わせに座るものだと思うが、しかしそれは余りにも今さら感の強い問いではあった。
それに対して今さら疑問を覚えるような関係でも無く、ベガは嘆息をひとつ零して、事前に配布された演劇の演目表を手に取った。
正直、演劇などと言うものは初めてである。
何となくどんなものかはわかっても、やはり何となくでしか無い。
1年間ここに来るために頑張ってきたらしいし、せめて最低限のことは知っておきたいと思った。
さて、いったい今夜はどんな演劇が行われるのだろうか。
『本日の演目:劇団<妹と四季>による演劇「お兄ちゃん大好き!」』
観客に媚びてきやがった。
良いのかそれで、劇団として。
◆ ◆ ◆
『嗚呼! 何ということだ、妹が不治の病に!』
俳優が壇上で大仰な仕草で泣いていた。
正直、それが上手いのか下手なのかはベガにはわからないが、真に迫っているようには見えた。
ただ、周りで端役の人達が哀調のある歌を唱和しているのは何なのだろう。
何分、演劇と言うものは初めてなので、こういうものなのだろうとしかわからない。
ただ、話の内容くらいは何と無くわかる。
簡単に言うと、病気の妹のために頑張る兄の話だった。
これ以上無い程に観客に媚びている、製作者が権力サイドに媚び過ぎである。
まぁ、こんなことで媚びていると思うのは、リチャードの性格故だろう。
「な、何と言うことだ、妹が不治の病に罹るなど、何と言う悲劇だ……!」
実際、効果はあったようだ。
と言うか、抜群だった。
すでに照明の落とされた暗がりではありが、ベガにはリチャードの表情まで良くわかった。
と言うか、のめり込み過ぎである。
(まぁ、わかりやすい話ではあるよな)
展開としては、妹の病気を治すために兄が旅をする話、と言うことだ。
正直タイトル詐欺なのでは無いだろうかと思ったりもするが、逆に「ああ、最後にはそうなるのか」と言う納得があった。
これなら先に言った通り、リチャードは演劇にのめり込むだろう。
(まぁ、正直私は良くわからないけどな)
それにしても、マナーなのかどうなのかは知らないが、100人近くの人間が――招待の貴族や大商人等で、身分に応じて座席が設定されている――演劇を見ているのだが、声ひとつ聞こえてこない。
まさかとは思うが、演劇に夢中なのだろうか?
話はともかく、もしかして今演じている劇団は、かなり有名な劇団だったりするのだろうか。
そうだとしてもベガにはそれがわからないので、何とも言えないのだった。
「…………」
ふと気になって、ちらりと横を見た。
そこにはヴィクトリアがいるわけだが、彼女はどうなのだろうか。
先程までお菓子をひたすらに食べていたのだが、今は静かだった。
まさかヴィクトリアも演劇に見入っているのだろうかと思って、暗がりの中で視線を横に向けてみると。
すやすやと、それはそれは心地良さそうな寝息が聞こえてきた。
早い。
まだ演劇が始まって何だかんだ10分も経っていないのだが、余りにも早すぎる就寝だった。
どうやらまるで興味が無い様子で、ベガは思わず苦笑を浮かべた。
むしろその気持ちが良くわかるだけに、眠って良いものなら彼女もそうしたかった。
しかしそうもいかない、だから彼女は視線を戻して、演劇の観覧へと戻るのだった。
◆ ◆ ◆
演劇の観覧に戻ったは良いものの、ベガとしてはリチャードの反応の方に気を引かれる時間だった。
と言うか、この男、演劇に感情移入し過ぎである。
例えば、妹の病気を治すために兄が旅立つシーンでは。
「彼は兄だ。実に立派だ、素晴らしい。不治の病に苦しみながらも健気に送り出す病床の妹も可憐だ、まぁ100分の1ヴィクトリアと言うところだな」
何だろうその単位は、生まれて始めて聞いた単位である。
妹役は可愛らしい女の子なのだが、ヴィクトリアが100人いてようやく釣り合うと言うことだろうか。
一瞬、100人のヴィクトリアが「姉さま姉さま」と寄って来る様子を思い浮かべて、げんなりとした。
ヴィクトリアは1人いれば十分だ、そう思った。
それから、妹の病気に必要な薬草を由緒正しい霊山とやらに取りに登るシーンになった。
どうやら主人公は港町の出身のようで、まともな登山を知らなかったらしい。
途中で遭難し、謎の美女に救われた。
いや、謎の美女って何だろう。
そして何だかんだで美女と良い感じになり、薬草を分けて貰って山を降りることになった。
「妹が待っているからな、仕方ないな」
どこに共感しているんだこの男は、まさかとは思うが世の兄は皆そんななのだろうか。
普通、どうしてうら若い女性が山で一人暮らししているのかとか、気にするところだと思うのだが。
と言うか、度々出てくる玩具の指輪があるのだが、あれはどうやら子供の頃にした妹との結婚ごっこで使っていたものらしい。
「妹との思い出が兄の力になる。美しい、実に美しいな……!」
正直、ガチ過ぎて引く。
ここまで来ると本当に病気なんじゃないかと思う、ヴィクトリアでは無くリチャードの方が。
どうしてこんなのが国のトップなのだろう、シスタニア終わるんじゃ無いだろうか。
でもリチャードの施政は概ね善政のため、国としては磐石なのだった。
(やっぱ、何か間違ってるよな)
シスタニアに嫁いで来てから何度も思ったことをここでも思い、ひとち頷いた。
世の中間違ってる、しかしその原因が自分の夫なのだった。
何とも言えないモヤモヤとした気持ちになりながらも、ベガは演劇に夢中になっているリチャード――なお、ヴィクトリアはまだ夢の中――を見て、嘆息した。
――――自分が引き止めても、きっとこの兄は気にせず山を降りるのだろう。
◆ ◆ ◆
その後は、そのまま何事も無く演劇が進んでいった。
話の内容には相変わらずついていけないが――まぁ、それはどちらかと言うとベガ側の受け止め方の問題のような気もするが――それでも、時間が経てば終わるものである。
正直、途中でうとうとしてしまったが、何とか眠らずに済んだ。
「うん? 何だ、ようやくお目覚めか?」
苦笑して横を向くと、「くあぁ……」と背伸びをしているヴィクトリアがいた。
大きな欠伸を隠そうともせず、そのせいで滲んだ涙の雫を手の甲で擦りながら、ヴィクトリアは顔をくしゃくしゃにしていた。
拭ってやりたい衝動を堪えつつ声をかけると、ヴィクトリアはむずかるように返事をした。
そんなヴィクトリアを苦笑しつつ見つめていると、ふと気付いた。
妹の目覚めに何かしらの反応を返すだろうリチャードの声が聞こえず、視線を向けると、席にいなかった。
どう言うことか、いつの間に?
先程、ベガがうとうとと舟を漕いでいた時だろうか。
「んぅ……姉さまぁ」
「ふふ、良く寝てたな」
「姉さま、お腹すいたぁ」
「ああ、うん。そろそろ終わると思うから、もう少し我慢な。寝る前だから、余りたくさんはダメだぞ」
「はぁい……」
まだ寝ぼけているのか、あるいは相手がベガだからなのか、素直なヴィクトリアだった。
これがリチャードであったなら、おそらく我侭を言うか無視するかのどちらかだったろう。
最近、それを可哀想だと思わなくなって来た自分がいる。
あれは鬱陶しがられても仕方ないと、最近は強くそう思うようになった。
『嗚呼! もうダメだ、もう間に合わない。神よ、どうか幼い彼女に今しばらくの時間を! せめて、彼女の兄が戻るその時まで!』
それはそれとして、どうやら演劇も佳境に入るらしい。
いわゆるクライマックスと言うやつであって、いよいよ病気の妹が助かるかどうかと言うところだ。
壇上に設えられたベッドに妹役の女の子が寝ていて、その周囲で家族やら友人やらが嘆き哀しんでいる、と言うシーンだった。
(リチャード、どこに行ったんだ?)
欠伸を噛み殺すヴィクトリアの気配を感じながら、軽くあたりを見渡す。
メイドを呼ぼうかとも思ったが、それは何だか憚られた。
全く、あんなにのめり込んでいたくせに、一番面白いところを見逃すとはどう言うことだろうか。
もったいないことをすると思いながら、せめて自分は見ておいてやろうと、ベガは気を取り直して壇上へと視線を戻した。
「……んん?」
すると、そこには――――……。
最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
GWは皆様いかがお過ごしでしたでしょうか?
何だかんだ今年ももう5月半ばですが、それはつまり1年連載のこのお話ももうすぐ半分と言うことで。
この夫婦、まるで進展が無い(え)
それでは、また次回。