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016話 逃げ場なき草原

 逃げ続けた先に広がっていたのは、どこまでも遮るもののない草原だった。

 身を隠す木々も、敵の目を遮る茂みもない。

 ただ風に揺れる草が果てしなく続いているだけだった。


 それを目にしたとき、ノルンとルクレツィアは絶望から座り込みそうになる。

 だが、背後から迫る脅威は、そんな弱さを許してはくれない。

 まるで森から追い出されるように、二人は広大な草原へと飛び出した。


 背後から迫る重厚な蹄の音と、不気味に鳴る骨の軋む音。

 それに対するのは、今にも倒れそうな身体を奮い立たせて地を蹴る二人の足音と、力尽きそうな荒い呼吸だった。

 それでも立ち止まることは許されない。

 背後から迫る死の気配が、容赦なく二人の背を追い立てていた。


 懸命に走り続けたものの、その差は埋まるどころか縮まる一方だった。

 やがてヴァルトモルは獲物を追い詰めた猛獣のように距離を詰め、その姿が二人の背後へと迫る。

 次の瞬間、馬上から剣が振り下ろされた。

 凄まじい一薙ぎ。

 刹那、二人は反射的に左へ身を投げ出す。

 銀閃が通り過ぎた直後、剣圧に巻き上げられた風が頬を打った。


 ──躱せた!


 そう思ったノルンの目に飛び込んできたのは、ヴァルトモルの背後に控える骸骨歩兵たちが放った無数の矢だった。

 ノルンの脳裏を、これまでの出来事が走馬灯のようによぎる。

 もはや回避は不可能だった。

 降り注ぐ矢の雨を前に、ノルンは思わず目を見開く。


「こ、の……!」


 ルクレツィアの切迫した声が聞こえる。

 絶望的な状況にもかかわらず、彼女は諦めなかった。

 ルクレツィアは風の魔法を放ち、迫り来る矢の群れを吹き飛ばした。


「立って!」


 力強いルクレツィアの声に蹴飛ばされるようにノルンは立ち上がる。

 慌てて体勢を立て直し、迎撃の構えを取る。


 ──いったい何を諦めていた?


 戦いの覚悟をしていないのに。

 手札をすべて切っていないのに。

 まだ、勝負の土台にすら立っていないのに。

 これから何かを為そうとする人間が、この程度のことで心を折られるなど許されない。


 敵への恐怖を、自身への怒りで塗り固める。

 恐怖で凍り付いていた思考など、怒りの熱で溶かしてしまえ。

 熱を帯びた思考が、ノルンの普段の冷静さを取り戻す。


 ヴァルトモルを見る。

 攻撃を終えたばかりで、まだ体勢を立て直せていない。

 続けて歩兵を見る。

 すでに次の矢を番えようとしていた。


 ノルンはポーチから油の入った瓶を取り出す。

 蓋の代わりに詰められた布に、魔法で小さな火を灯す。

 全身に軽い痛みが走ったが、そんなことは関係ない。


 そして、炎をまとった瓶を歩兵の集団へ向けて投げつけた。

 次の瞬間、瓶は敵に激突して砕け、飛び散った油が一斉に燃え広がった。

 弓の弦はたちまち焼き切れ、支えを失った矢は骸骨歩兵の手に残されたまま、やがて炎に呑まれて燃え尽きた。

 火を浴びた骸骨歩兵たちは、パキパキと不気味な音を立てながら全身にひびを走らせる。

 やがて骨は脆く砕け、次々と地面へ崩れ落ちていった。


「炎、有効! 風で延焼を!」


 ノルンはルクレツィアに端的な指示を出す。

 それを聞いたルクレツィアは、魔法により風の渦を作り出す。

 風に煽られた炎は一気に広がり、骸骨歩兵の群れを呑み込んでいく。

 火は次々と燃え移り、骸骨歩兵の数を減らしていく。


(よし、歩兵は時間の問題。あとはヴァルトモルのほう!)


 ノルンは素早く周囲へ視線を巡らせ、ヴァルトモルへ目を向けた。

 ヴァルトモルは軍馬の背に揺られながら悠然と進んでくる。

 戦場を散歩でもしているかのような態度には、余裕すら感じられる。


 このまま主導権を握らせるわけにはいかない。

 先手を取るしかない。

 ノルンは地を蹴った。

 一気に間合いを詰めると、勢いそのままに飛び上がり、ヴァルトモルへ斬りかかった。


 ヴァルトモルは左腕に固定した盾でノルンの一撃を受け止めた。

 さらに間髪入れず、右手の剣で鋭い突きを放つ。

 ノルンは身を捻るようにして、その突きをかわした。


 一度距離を取り、両者は対峙する。

 相手は馬に乗っているため、必然的にノルンが見上げる形となる。

 馬から引きずり降ろさないと有効打を当てることは難しい。


(まず、馬を狙うか)


 将を射んと欲すれば先ず馬を射よ。

 ノルンは騎士ではなく、その乗騎へと狙いを定めた。

 再び間合いを詰めると、今度は地を這うような低い姿勢で駆ける。

 そして一気に踏み込み、馬の前脚へ剣を走らせた。


「……は?」


 手応えがない。

 ただ空を切った感触だけが手に残る。

 直前でかわされたのか、とも思ったが、そうではなかった。

 では、なぜ?


「ノルン! その馬、霊体!」


 ノルンの背後で風を操っているルクレツィアが叫ぶ。

 その言葉を聞いた瞬間、ノルンはようやく理解した。

 剣に手応えがなかったのではない。そもそも刃が届いていなかったのだ。

 目の前の馬は実体を持たぬ幻影――ヴァルトモルを守るための霊的な乗騎だった。


 気付いた時には遅かった。

 そんなノルンの隙を突くように、盾による殴打が襲いかかる。

 咄嗟に剣を引き戻して受けようとしたが、一瞬の遅れが致命的だった。


 殴打による一撃を受け、地面に転がるノルン。

 その隙を見逃すまいと、ヴァルトモルは霊馬を駆って一気に距離を詰める。

 振り上げられた剣が、容赦なく振り下ろされた。


「っ!」


 ノルンは咄嗟に身を捻る。

 剣先が鼻先を掠め、地面を激しく抉った。

 だが、回避したからといって安心できる状況ではない。

 起き上がる暇すら与えぬとばかりに、ヴァルトモルは追撃の剣を繰り出そうとしてくる。


「ノルンっ!」


 骸骨歩兵への攻撃をいったん止め、ノルンを救い出さんとルクレツィアがヴァルトモルに魔法を放つ。

 巨大な風の刃がヴァルトモルに襲いかかる。

 直撃すれば致命傷は免れない一撃を前にしても、ヴァルトモルに動揺の色はない。


 ヴァルトモルは回避するでも防御するでもなく、左手の盾を掲げた。


 その瞬間、風の刃を構成していた魔力が霧散する。

 巨大な風の刃はそよ風へと変化した。


 ルクレツィアは繰り返し風の魔法を放つ。

 しかし、そのたびに魔力は掻き消され、鋭い刃となるはずだった風は無害な風へと変えられてしまう。


「魔法の、無効化……?」


 目の前で起きている現象に、二人は呆然とした。

 だが、敵はその隙を見逃さない。

 生き残った骸骨歩兵たちが、一斉に矢を放つ。

 ルクレツィアは我に返ると、慌てて風魔法による防御壁を展開した。


 ヴァルトモルが再び盾を掲げる。


 防御壁として機能するはずだった風は、たちまち掻き消される。

 それを見たノルンは咄嗟にルクレツィアのもとへ駆け寄ると、彼女を庇うようにその身を投げ出した。

 その際、ノルンはマントを翻し、母衣のように膨らませる。


 次の瞬間、二人を矢の雨が襲う。

 地面に無数の矢が突き刺さる。

 何本かはノルンの背中にも命中したが、幸い深くは刺さらず、急所も外れていた。


「ノ、ノルン……?」


「大丈夫」


 不安そうなルクレツィアの声。

 ノルンは短く答えた。

 心配をかけまいとするように、大したことないと言わんばかりの笑みを浮かべる。


 事実、ノルンには大したことでなかった。

 普段からこれ以上の痛みに晒されているからだ。

 ノルンはポーチから痛み止めと体力回復のポーションを取り出す。

 いくつかをルクレツィアに渡し、自分も手早く飲み干す。


「きっと、何かからくりや抜け道があるはず。それを見つけよう」


 うん、とルクレツィアは小さく頷く。

 正直なところ、攻略の糸口がつかめない。

 ヴァルトモルは燃え盛る草原を背後に、二人を悠然と眺めている。

 不気味な沈黙が戦場を支配した。

 ノルンが次の一手を考えあぐねていると――


 ヴァルトモルは右手の剣を掲げる。


 その瞬間、信じがたい光景が広がった。

 まるで時計の針が巻き戻るかのように、バラバラになっていた骸骨歩兵たちの骨が宙を舞い、次々と元の姿へと組み上がっていく。

 倒したはずの敵が再び立ち上がる光景に、二人の表情から血の気が引いた。


 ヴァルトモルとの戦いは、まだ始まったばかりだ。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

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