18 祭りの後、そして……
季節は、いつの間にか梅雨を迎えようとしていた。
王立マグノリア魔法学園の石造りの校舎は、しとしとと降る雨に濡れ、どこか沈んだ色をしている。
だが、その内側——生徒たちの間では、未だに「あの日」の出来事が、熱を帯びた噂話として語り継がれていた。
「聞いたか? あの光の正体」
「ああ。アークライト家の秘宝『聖女の涙』だってな」
「リアム様が、呪いに侵されたクラスメイトを救うために、家宝を使い捨てたらしいぞ」
「なんて高潔な……! さすがアークライト公爵家の嫡男だわ!」
学園祭の夜に現れた、天を衝く巨大な光の柱。
そして、その後始末として流布された「公式見解」。
それは、リアム・アークライトの名声を(本人の意図とは裏腹に)不動のものとし、同時に、アリア・ローゼンという存在を、再び「舞台袖」へと隠すことに成功していた。
「……ふぅ」
1年A組の教室。
アリアは、教科書の陰で小さく溜息をついた。
(よかった……。みんな、リアムさんの嘘を信じてる)
教室の雰囲気は、以前と少し変わっていた。
アリアへの視線は、相変わらずある。だが、それは以前のような「侮蔑」や「不気味なものを見る目」ではない。
「あのリアム様が命がけで守った現場に居合わせた、ちょっと運のいい(あるいは不憫な)女子生徒」という、同情混じりの好奇心だ。
「アリアちゃん、大丈夫?」
隣の席で、メアリ・スミスが心配そうに顔を覗き込んだ。
彼女は数日間の療養を経て、今日から復帰したばかりだ。
顔色はまだ少し白いが、その瞳には以前のような陰りはない。
「う、うん。大丈夫だよ。……メアリちゃんこそ、無理してない?」
「平気! ほら、この通り!」
メアリは、力こぶを作る真似をして笑った。
その笑顔を見て、アリアは胸が痛むと同時に、救われる思いがした。
彼女は、覚えていないフリをしてくれている。
操られていた時のこと。アリアに刃を向けたこと。
その全てを、「悪い夢だった」と言って、笑い飛ばしてくれているのだ。
「……ありがとう、メアリちゃん」
「ん? なあに?」
「ううん。なんでもない」
二人が微笑み合っていると、教室の前方が騒がしくなった。
リアム・アークライトが入ってきたのだ。
彼の左腕はまだ包帯で吊られており、頬にはガーゼが貼られている。
痛々しい姿だが、それがかえって「英雄」としての箔を付けていた。
「リアム様! お怪我の具合は!?」
「リゼットさんが特製の湿布を作ってきましたわ!」
「俺も荷物持ちしますよ!」
取り巻きたちに囲まれながら、リアムは淡々と席に着く。
その途中、彼は一瞬だけ——本当に、瞬きするほどの短い時間だけ、教室の隅にいるアリアへと視線を向けた。
アリアも、それを受け止める。
(——異常なし?)
(——はい、異常なしです)
言葉のない会話。
それだけで、十分だった。
二人の間には、あの夜の共闘を経て、誰にも入り込めない「秘密の回線」が繋がっていた。
放課後。
アリアは、呼び出しを受けて学園長室へと向かっていた。
ただし、今回は一人ではない。
リアムも一緒だ。
「……足の具合はどうだ」
長い廊下を歩きながら、リアムが前を向いたまま尋ねた。
「え? あ、はい。もう全然平気です」
「そうか。……無理はするな」
「リアムさんこそ。その腕……」
「これか? 名誉の負傷というやつだ。女子生徒からの差し入れが増えて、逆に困っている」
リアムは微かに口角を上げた。
学園長室の重厚な扉を、リアムがノックする。
「入れ」
中に入ると、ヴォルグ学園長が執務机で書類の山と格闘しており、その横のクッションで、クロノス(黒猫)が優雅に寝そべっていた。
「来たか。二人とも、座りたまえ」
ヴォルグはペンを置き、疲労の滲む顔を上げた。
「事後処理の報告だ。……結論から言えば、学園側は『今回の件を不問とする』ことで決定した」
アリアとリアムは、顔を見合わせた。
「不問、ですか?」
「うむ。本来なら、アークライト君の危険物持ち込みも、ローゼン君の……まあ、あれも、厳罰に処される案件だ。だが、今回は相手が悪すぎた」
学園長は、一枚の資料を二人の前に滑らせた。
そこには、地下牢のような場所で拘束されている、ヘレナ・ブラックウッドの写真があった。
彼女の目は虚ろで、口元からは涎が垂れている。完全に精神が崩壊していた。
「彼女は……もう、喋れない」
ヴォルグが重苦しく言った。
「君の光が、呪いのパスを逆流して焼き切った際、彼女の脳内に仕込まれていた『口封じの術式』も同時に発動したようだ。……黒幕に関する情報は、全て闇の中だ」
「口封じ……」
アリアは背筋が寒くなった。
ヘレナは、利用されていただけなのか。
トカゲの尻尾切りのように、用済みになったら捨てられる駒。
「だが、収穫はある」
クロノスが、クッションの上から口を挟んだ。
「奴らの狙いが『アリア』であることが確定した。そして、奴らはアリアの力を過小評価していたこともな」
「過小評価?」
「ああ。奴らは、アリアを『制御不能なエネルギー源』程度に思っていた節がある。まさか、自らの意思で光を制御し、呪いを浄化するほどの『術者』になっているとは計算外だったはずだ」
クロノスは、金色の瞳でアリアを見た。
「アリアよ。お前は強くなった。……だが、同時に『見つかった』。これからは、より慎重に行動せねばならん」
「はい……」
アリアは頷いた。
もう、ただ逃げ隠れしているだけでは済まされない。
自分の身は、そして大切な人たちは、自分で守らなければならない。
「そこでだ」
ヴォルグ学園長が、眼鏡の位置を直した。
「アークライト君。君には引き続き、ローゼン君の『監視』……という名目の『護衛』を依頼したい」
「承知しております。言われなくとも、そのつもりです」
リアムは即答した。
「そして、ローゼン君。君には……『特訓』を受けてもらう」
「と、特訓ですか?」
「うむ。今の君は、魔力こそ規格外だが、技術が追いついていない。光の制御も、風の応用も、まだ我流の域を出ない。それでは、次なる敵——ヘレナ以上の使い手が現れた時、対抗できない」
「……誰が、教えてくれるんですか?」
クロノスは猫の姿だし、学園長も忙しそうだ。
「ふふふ」
クロノスが、ニヤリと笑った。
「心配するな。最強の講師陣を用意してある。……もうすぐ、夏休みだからな」
アリアは、嫌な予感がした。
最強の講師陣。
夏休み。
そのキーワードから導き出される答えは、一つしかない。
(……まさか、兄様たちが来るの?)
アリアの顔が引きつるのをよそに、話はまとめられた。
アリアとリアムは一礼して、学園長室を後にした。
廊下に出ると、窓の外は雨が上がっていた。
雲の切れ間から、夕日が差し込んでいる。
「……ローゼン」
「はい」
「少し、付き合ってくれないか」
「え?」
リアムに連れられてやってきたのは、旧校舎の裏。
あの、「秘密の温室」だった。
「あ……」
アリアは、息を呑んだ。
温室は、ボロボロだった。
ガラスは割れ落ち、鉄骨は歪み、中は黒く焦げている。
あんなに生命力に溢れていたハーブたちは、見る影もなく枯れ果て、泥にまみれていた。
あの夜の激闘の傷跡。
それが、そのまま残されていた。
「……ひどい」
アリアは、胸が締め付けられるようだった。
メアリと二人で、一生懸命掃除して、土を作って、植えた場所。
大切な、秘密基地。
それが、こんな無残な姿に。
「すまない」
リアムが、痛ましげに言った。
「もっと早く、私が気づいていれば……。君たちの場所を、守れなかった」
「ううん、リアムさんのせいじゃありません」
アリアは首を振った。
「それに……メアリちゃんが無事だったんだもん。場所なんて、また作ればいい」
そう。
建物は壊れても、そこにいた人たちは無事だ。
それだけで、十分すぎる結果だ。
アリアは、割れたガラス片を拾い上げようと屈んだ。
その時。
焦げた土の隙間から、何かが覗いているのに気づいた。
「……これ」
アリアは、指先で土を払った。
そこにあったのは、小さな、小さな緑色の芽。
黒く焼け焦げたローズマリーの根元から、新しい命が、ひっそりと、しかし力強く芽吹いていたのだ。
「生きてる……」
アリアの目から、涙がこぼれた。
あれだけの呪いに晒され、焼き払われたのに。
アリアが注いだ「光」の残滓が守ったのか、それとも植物自身の生命力か。
彼らは、死んでいなかった。
「……強いな」
リアムが、アリアの隣にしゃがみ込み、その芽を見つめた。
「君に似ている」
「え?」
「一見、弱々しくて、踏めば折れてしまいそうで。……でも、どんな嵐が来ても、泥にまみれても、決して折れない芯がある」
リアムは、アリアの方を向き、優しく微笑んだ。
「君は、強いよ。アリア」
初めて、彼が名前を呼んだ。
「ローゼン」ではなく、「アリア」と。
アリアの心臓が、トクン、と高鳴った。
夕日に照らされた彼の横顔が、やけに眩しく見える。
「……リアムさんも」
アリアは、勇気を出して言った。
「リアムさんも、私にとっては……太陽みたいに、強い人です」
「太陽か。……買い被りすぎだ」
リアムは照れくさそうに立ち上がった。
「さあ、帰ろう。……ここを修復するには、骨が折れそうだ。明日からまた、図書委員の仕事の合間に、少しずつ直していこう」
「はい!」
アリアも立ち上がった。
「メアリちゃんも、きっと手伝ってくれます」
「ああ。三人で、また一から作り直せばいい」
三人で。
その言葉に、アリアは幸福を感じた。
一人ぼっちだった温室。
メアリと二人になった温室。
そして今は、リアムも加わって、三人(と一匹と一羽)の場所になる。
壊れたことは悲しいけれど。
壊れたからこそ、新しく築けるものがある。
二人は、夕焼けの中を並んで歩き出した。
影が長く伸びて、寄り添うように揺れている。
「そういえば、アリア」
「はい?」
「期末試験が近いな」
「……あ」
アリアは、現実を思い出して硬直した。
そうだ。
事件に巻き込まれて忘れていたが、来週は一学期の期末試験だ。
しかも、筆記だけでなく、実技試験もある。
「ど、どうしよう……! 勉強、全然してない……!」
「安心しろ。私の『監視』対象が赤点を取るなど、管理者の恥だ」
リアムは、意地悪く、しかし楽しそうに笑った。
「明日から、図書室でスパルタ補習だ。覚悟しておけ」
「ううぅ……お手柔らかにお願いします……」
アリアの悲鳴が、誰もいない旧校舎にこだました。
それは、久しぶりに戻ってきた、平和で、騒がしい日常の音だった。
嵐は去った。
だが、季節は巡る。
もうすぐ、暑い夏がやってくる。
そして、クロノスが予言した「最強の講師陣」——アリアの変人兄弟子たち「四天候」が、避暑(という名の乱入)にやってくる季節が。
アリア・ローゼンの波乱万丈な学園生活は、まだ始まったばかりなのだ。




