アナベル
アナベル視点、そしてメルシオ視点の全2話構成です。
誰かが言った。
お金があるからといって幸せになれるとは限らない。
だけど、お金がなければ、人は幸せにはなれないのだと。
その通りだった。
いや、この広い世の中には、お金がなくても幸せになれる人はいるのかもしれない。
でも、少なくとも私は……
お金がなければ、人に優しくすることもできない人間だったのだ。
***
「ごめんなさい、そこに回せる予算はないの」
「そんなっ!ミルフィー様が領民たちのためにご計画されましたのにっ」
歴史あるステラシス子爵家の優美な屋敷。その離れの小さな部屋で一人書類に埋もれていた私は、こちらを責めるように言い募る町長にまっすぐに向き合う。
「ミルフィーが領民のために発言したのは分かっています。でも、あなたたちの町だけに花祭りの援助金を回すことはできないし、計画にあったような有名劇団を招致するほどの予算はこの子爵領にはないのです」
ぐっと悔しげに唇を噛む町長の様子に、私の胸は鉛を飲み込んだように重くなる。
町長の気持ちは痛いほどによく分かっていた。王都への主要街道から外れたここステラシス子爵領は資源にも乏しく、また十数年ごとに大きな水害も起こる地であることから年々寂れていっている土地だ。そこに領主の娘であるミルフィーが町を盛り上げる大きな祭りを催そうと提案すれば、町長をはじめ住民たちは町に活気が戻るかもしれないと期待を抱くのは仕方がないことだ。しかし、子爵領では資金不足で街道の整備もできていない状態。こんな状態で祭りを開催しても、外の領地からの集客は見込めないだろう。
(また、領民たちから恨まれてしまうかしら……)
恨みがましげな町長が執務室から出て行った後、私は握り続けていたボロボロのペンを置いてふと窓辺から外へ目を向けた。そこには、先ほど出て行った町長を慰める美しい少女の姿があった。
人形のように小さな顔にしみ一つない真っ白ですべらかな肌。そして豪奢な金髪をなびかせている天使のような容貌の少女は、義妹のミルフィーだ。
「まあ、お義姉さまはそんな冷たいことを?大丈夫よ。あなたたちの頑張りを無駄にするようなことはしないわ。私がお父様にも聞いてあげましょう」
「ああ!ありがとうございます、ミルフィー様!なんとお礼を言えばよいのやら……!」
感激したようにミルフィーを崇めながら感謝を告げる町長と慈愛の笑みを浮かべるミルフィーに、私は重い溜息をついた。
ミルフィーは、ちょくちょくこうやって予算の相談もなく領民たちに約束をしてしまうことがある。そしてミルフィーを溺愛する父は、彼女の頼みならなんでも叶えてしまう。どれだけ私が予算的な問題を指摘しても、「それをどうにかするのがお前の仕事だろう」と切り捨てられる。……さらには、私の婚約者であるロイズまでも賛同してしまうのだ。
『領民を思う優しい妹と、守銭奴で冷たい姉』
それが、ここステラシス子爵領での私たちへの認識だった。
私——アナベル・ステラシスは、ステラシス子爵家の長女として生まれた。
元より病弱だった母は出産後さらに体調を崩し第二子は望めない状態。そのため、私は幼い頃から子爵領を継ぐための領主教育を受けてきた。
ほとんど家にいない父に、療養のため面会もできない母。寂しい幼少期だったけれど、私は二人に少しでも褒めてもらえるようにと、次期当主として必死に勉学や教養、そして礼節を修めてきた。一度でいいから、笑顔で良くやったと、褒めてもらいたかったのだ。それに、領主教育を苦とは思わなかった。勉強の一環で領地の視察に行った際、笑顔で歓迎してくれた領民たち。彼らを守っていくのが自分なのだということに、私の胸には熱い使命感が宿っていた。
「お嬢様、視察へ向かわれるのですか?」
「ええ、昨日の山火事で農村部での被害が心配なの」
「ですが、昨日も遅くまでお仕事をされていましたのに……」
「怪我人も出ていたらすぐに支援を送らなければいけないもの。私がのんびりはしていられないわ。でも、心配してくれてありがとう」
父から仕事も任されるようになり、私は寝る間も惜しんで邁進した。仕事を任されるのは、父からの信頼だと信じていた。
その頃はまだ、使用人たちとも領民たちとも、良い関係を築けていたのだ。
環境が一変したのは、十四歳の冬の事だった。
ずっと寝たきりだった母が亡くなり、喪が明ける間もなく父が再婚相手とその連れ子を屋敷に連れてきたのだ。
母と同じ白にも見える白銀の髪に若葉色の瞳の自分と違い、一つ年下の義妹となるミルフィーは父とそっくりな輝く金髪とサファイアのような瞳をしていた。
いままで、家にいないのは仕事が忙しいからだと思っていた父は、再婚してからは毎朝毎晩家族の食卓に着くようになった。義母と義妹にたくさんのドレスやアクセサリーを贈り、笑顔を浮かべている。
「わあ!お父様ありがとう!すごいわ、ミルフィー、お姫様になったみたい」
無邪気な笑顔で周りを明るくさせるミルフィーを中心に家が回るようになるのに、時間はかからなかった。
いつの間にか、私は一人部屋で食事をとらされるようになっていた。勉強で忙しい私が時間に煩わされずに食事ができるように、と。そして私の部屋だった日当たりの良い二階の一角は、今は華やかなミルフィーの部屋となっている。
「お勉強を頑張るあなたのために、図書室の近くの部屋を用意してあげたわ」
「……ありがとうございます、お義母様」
幼い時からずっと過ごしていた部屋が自分のものでなくなってしまうことに寂しさは感じたけれど、義母の心遣いを無下にすることもできずに私は笑顔でお礼を言った。それに、義妹となったミルフィーが輝く笑顔で「ありがとうございます、お義姉さま!」と言ってくれたので、自分の寂しさは心の奥に押し込んだ。笑顔で自分を慕ってくれる天使のようにかわいらしいミルフィーを、姉として大切にしたいと思っていたのだ。今までこんな風に無邪気に笑いかけてきてくれる家族なんて、いなかったから。
「わあ、お義姉さまの髪飾り、素敵ね!」
しばらくしてから、「大好きなお義姉さまと同じものを身に着けてみたいから」とミルフィーは私の物を欲しがりだした。無邪気な笑みを向けられると断ることができず、私は数少ない自分のアクセサリーをミルフィーへ譲った。ドレスも、もう仕事着のような地味な色合いの物しか残っていない。それでも、構わないと思っていた。自分は次期当主としての仕事をし、社交をミルフィーが担う。家族でそうやって支え合いながらステラシス家を支えていくのだと信じていたから。
「地味なお前が着飾ったところで、有益な社交がこなせるとは思えんからな」
「人には向き不向きがありますからね。社交は華やかなで愛嬌もあるミルフィーが担いましょう」
「お姉さまはあまり人とお話するのは得意ではないでしょう?私がその分頑張りますわ」
「……ありがとう、ミルフィー」
しかしミルフィーが社交へ出るようになってから、更に義母とミルフィーのドレスや宝石へかける費用が嵩むようになる。領主の仕事をほとんど担うようになっていた私は、ステラシス家の収入がその支出を支えることができなくなっていることを分かっていた。
「ミルフィー、あなたが社交を頑張ってくれているのはとても有難いと思っているわ。でも、毎回ドレスを新しく仕立てるのは少し控えられない?違うショールと組み合わせたり、アクセサリーを変えたり工夫すれば、そんなに頻繁に仕立てなくても問題ないんじゃないかと……」
私の言葉に、ミルフィーは途端に目に涙を浮かべた。
「私、お義姉さまの代わりに頑張ってきましたのに……。どうしてそんな意地悪を言われるのですか?」
「意地悪なんかじゃないわ。ただ、最近ドレス代が嵩んで、財政を圧迫していて。だから……」
「だからって、私に流行遅れのドレスを着せて笑いものになれと言うのですか⁈」
「そ、そんなことは言っていないわ」
泣き出すミルフィーを慌てて宥めていると、父と義母もやってきてミルフィーを抱きしめ私を非難した。
「妹がお前の代わりに社交を頑張ってくれているというのに……。もしや、ミルフィーの美しさに嫉妬でもしているのか?」
「貴族として、社交で美しく着飾るのは家門を侮られぬようにするために必要なことなのですよ。そんなことも分からないのですか?それを、お金の話を持ち出して姉思いの優しい妹に恥をかかせようとは……。なんて冷たいことでしょう」
「社交費を捻出することは、次期当主としてのお前の仕事であろう!それをミルフィーを責めるなど、心得違いもいいところだ!」
「……申し訳、ありません」
それから私は、ずっと金策に悩まされることになる。
ミルフィーたちの社交費が財政を圧迫しようとも、領民たちの生活に影響しないよう、必死でやり繰りをした。
ステラシスの領地は水はけが悪く、麦の栽培には適さない地だ。そのため主食である小麦も輸入に頼っており、財政を圧迫する原因だった。だから、まずたくさんの文献を読み込みこの土地でも育つ作物を調べ上げた。他国と取引のある商会にも問い合わせを行い、自らも農地に出ていくつもの候補作物の栽培状態を実験し、ついにサトイモがこの地でも問題なく育つことを発見した。そして、サトイモ栽培を農村に広めるために各地を巡り説明を繰り返した。そのおかげで少しずつ食料自給率が改善してきたところで、私は領地の根本的な土壌問題を解決するための治水事業の計画を立てていた。それには確かに多くの費用が掛かるけれど、土地が改善されれば麦などの作物も育てられるようになるし、十数年ごとにおこる水害の被害も抑えられるはずだった。その資金を貯めるため、無駄な出費はできる限り削らなければならない。真っ先に切り捨てたのは、当然のように自分にかける費用だ。今や自室のクローゼットには一つのアクセサリーもドレスもなく、数年前に仕立てた使用人のようなワンピースが数枚並んでいるだけだった。
(社交に出る訳でもないのだし、私のドレスは必要ないもの。数年の我慢だわ。治水事業がうまくいけば、財政も安定するはずだし、水害で住む家をなくす領民を救うことができる)
……その頃からだ。財政を引き締める政策を行う自分が、社交界や領民たちから守銭奴令嬢と陰口を言われるようになったのは。
それを知ったのは、自分の婚約が決まった時だった。
父は、正直なところ溺愛するミルフィーの婚姻にしか興味はないようだったけれど、爵位を継ぐ長女よりも先に次女の婚姻を取りまとめるのは外聞が悪いということには気づいていた。本音ではミルフィーを家に残したいと考えているかもしれないけれど、何の問題も起こしていない長子を押しのけて次女を跡継ぎに据えるのはそれこそ外聞が悪かった。
子爵家の次期当主である私には、いくつかの釣書がきていたらしい。継ぐ爵位がない貴族家の次男以降の者たちだ。父は、そこから最も爵位が高かったダイン伯爵家の三男ロイズを私の婿として当てがった。父より格上であるダイン伯爵家からの申し出を断りにくかったという理由もあった。
顔合わせの場で初めて顔を合わせたロイズは、華やかな容姿の金髪碧眼の青年だった。しかし、それにときめく間もなく小声で言い捨てられた。
「なぜ、俺がこんなみすぼらしい守銭奴令嬢と……」
忌々しそうな視線に、嫌でも理解させられた。ロイズにとって、この婚約は不本意なものであったことを。
この婚約は、文官にも騎士になるにも能力の劣る三男が無職のまま家に残るという不名誉を回避するために子爵家の跡取り娘に押しつけようというダイン伯爵の独断だったのだ。しかし、その容姿で令嬢たちからちやほやされていたロイズは、自らの婚約相手が古ぼけたワンピースを着てなんのアクセサリーもつけないみすぼらしい少女であったことが我慢ならなかった。
ロイズは私の事をいないものとして扱い、定例の婚約者同士のお茶会で子爵家に来るたびにミルフィーと楽しそうにお茶の時間を過ごして帰っていった。さらには、花祭りの日さえも。
花祭りは、恋人や家族、大切な友人などに花を贈る祝祭の日だ。——私は、今まで一度も婚約者からも、家族からも花祭りの花をもらったことはない。
庭園で美しい金髪の二人が花を贈り合い仲睦ましげに語らう様子は、まるで絵画に描かれた恋人同士のようにお似合いだった。
二人の様子からふいと顔を背けた私は、たまたま鏡に映った自分の姿に目をやった。老婆のような白髪にもみえる髪に、疲れ切ってみすぼらしく、陰鬱な容姿。
家族のため、領地のためなら構わないと思っていた。それでも、ふと考えてしまう。もしもお金にもっと余裕があったなら、私ももう少し綺麗なドレスを着て、婚約者と語らうこともできたのだろうかと。常に夜中まで金策に悩まされることもなく、目の下に令嬢にあるまじき隈をつくることもないのだろうかと。
そんな日々を過ごしていたある日、ステラシス領を季節外れの嵐が襲った。
縦に長いステラシス領をまっすぐに縦断した嵐は、多くの町に被害をもたらした。私は人命救助を最優先に、できるだけの支援を寝る間も惜しんで指示し、現地にも足を運んで復興に努めた。
すべての人に、最大限の支援をすることができれば一番良い。でも、そんなお金はとても捻出できない。だからこそ、優先順位を間違えることはできなかった。領民の命を守るため、まずは救助を最優先に。そして家を失った者たちが寒さに震えぬよう、一時的な住まいの確保、水と食料の支援を必要な町へ。
疲れ切った体を無理矢理に動かしながら、私はペンを動かし続けた。
そうして何とか一人の犠牲者も出さずに済んだと胸をなでおろしていた時、いくつかの町から嘆願書が届いた。
嘆願書には、嵐で畑が被害を受けてしまったため今年の税を免除してもらえないかという訴えが書かれていた。
当然私も、被害地の様子を実際に目にしているため今期の税を今まで通り払うのが難しいことは分かっていた。財源が唸るほどあるのであれば、私だって税の免除をしてあげたい。それでも、今回の被害は領地中に広がっている。一つの町の税を免除すれば、他の町でもそうせねばならなくなる。そして税収がなくなれば、本当に支援が必要な人への支援を行えなくなってしまう。
そのため、私はきちんと理由を記し、また今後の支援計画も合わせて丁寧に記載し、税は免除ではなく一時的な引き下げを行うことにすると返事をした。これは、他の領内の町へも同様のものを通達した。
しかし、そのことに不満を持つ者は当然存在した。領民にとっては、子爵家の財政状況など知る由もないことだ。家も被災して畑も被害をうけ絶望するなかで、自分たちの払う税で贅沢をしているだろう貴族がさらに税を取り立てようとしている現状が許せず、領主の館まで直訴しにきた者たちがいたのだ。
彼らの生活が苦しいのは分かっている。だから私は、自らが成人後に引き継ぐ個人資産をも支援に回し、それでもどうしても足りないギリギリまで税を引き下げたのだ。
直訴しに来た彼らには、必要な支援を行っていくことも、誠心誠意説明した。今だけは、皆で災害を乗り越えるために力を貸してほしいと、真摯に頭を下げて。
不満を残しながらも、しぶしぶ納得し帰っていった住民たち。
しかし、私は知らなかった。
帰ろうとした彼らと遭遇したミルフィーが、せっかく言葉を尽くして納得してもらった彼らに、ニコニコと税の免除を約束してしまっていたことを。
「なぜ、勝手に税の免除を約束してしまったの⁈」
その町の住人が広めてしまったのだろう。その翌日、いくつもの町の住人たちが自らの町の免税もと屋敷まで訴えて来たことから、私はミルフィーの発言を知って慌てて問いただした。
しかし、ミルフィーは傷ついたように目を潤め、たまたま来ていたロイズの胸元に縋りつく。
「だってお義姉さま、苦しんでいる領民を見捨てることなど私にはできないわ」
「み、見捨ててなんていないわ!できるだけ税率を下げて、支援にまわそうと……」
「苦しんでいる民からさらに税を毟り取ろうとするとは、なんて非道な女だ!こんながめつい守銭奴令嬢が次期当主だなどと、領民にとっては悪夢だろうよ」
ロイズが振り返ってそう言えば、門前に集まっていた領民たちは揃って声を上げた。
「そうだ!アナベル様は俺たちの苦しみなんて欠片も分かろうとしてくれない!」
「アナベル様は利益しか考えておられないのか!」
一度希望をもたされた免税を否定され不満を露わにした領民たちの言葉に、それでも私は震える足に力を込めて必死にまっすぐに立った。
「皆さんが今とても大変なことは分かっています!それでも、ひとつの町の税をなくせば、他の町もそれに倣わなくてはならなくなります。今回の嵐では、ほとんど全ての町が大なり小なり被害を受けているのですから。そうなれば、財源がなくなり切実に支援を必要としている人への支援もできなくなってしまうのです。もちろん、落ち着いてから、分割でも構いません。少しずつでも、皆で助け合うことはできないでしょうか」
真摯に伝えれば、きっと分かってくれると信じていた。しかし——。
「お義姉さま、資金がないというのは、嘘でしょう?」
まるで心苦しくも正義のために決死の告発をするかのように、ロイズの腕の中からミルフィーが声を上げた。
「私、知っているんです。お義姉さまが、多くの額を貯めこんでいること」
「ミ、ルフィー?」
今この場でわざわざそんな事を言い出すことが信じられず、私はミルフィーを呆然と見つめた。確かに、まとまった資金はある。しかしそれは、来年から着工する治水事業のための資金だ。治水事業については、ミルフィーにもロイズにもちゃんと説明していたはずだ。それなのに、二人は責めるように私を見る。
「どうして、みんなが苦しんでいる時にそのお金で助けてあげないの?どうして、領民のみんなにだけ負担を強いるの?」
「ち、違うわ!あれは領地のための、治水事業のためのお金でっ」
治水事業の計画を立てている時、いままでの水害の記録を分析して分かったのは、嵐や大雨で地盤の緩んだ数年以内に大規模な水害が起こりやすいということだ。それに当てはめれば、領民の命を守るためにできるだけ早い着工が必要だった。だからこそ、この資金にだけは手を出さずにいたのだ。
しかし、まとまった資金があることを認めた私の発言に、領民たちの空気が変わった。
「ふざけるな!俺たちが苦しんでいるのに、支援金を出し渋っていたのか⁈」
「俺たちは今、苦しんでるんだ!」
「冷血な守銭奴め!こんなやつが次期当主だなんて!」
「ミルフィー様は、俺たちの声に耳を傾けてくれる!」
「ミルフィー様が次期当主であれば……!」
領民たちの声が、氷の刃のように私の胸を刺し貫いてゆく。
知っていた。時たま気まぐれに視察にやってくるミルフィーは、領民たちの訴えをいつも予算を考えることもなく、かわいそうだからと許可を出す。そして、私がそれを却下するたびに、領民たちは私に不満を覚え、ミルフィーを心優しい令嬢だと持ち上げるのだ。
(……ああ、もう誰も、私が次期当主となることを望んでなんていないんだ……。私は、間違っていたの……?未来を見据えるのではなく、今の領民たちの訴えに応えるべきだったの……?)
私だって、お金があればもっと充実した支援を行いたかった。
お金があれば、もっと早く治水事業を始められた。
お金があれば、街道の整備も進められた。
お金があれば、領民のための福祉事業にもっと力を入れたかった。
お金があれば、領民のために取り組みたい施策はたくさんあった。
お金があれば、民の訴えを予算を理由に却下などしたくなかった。
お金があれば……もっと、優しい人間でいられたの……?
ずっと、生まれ育ったこの領地のためにすべてを捧げてきた。
次期当主として、彼らを守っていくのだと、どれだけ大変でもその思いを支えに立ってきた。
——しかし今、私の中でなにかがポキリと折れた音が聞こえた気がした。
その数日後。父に呼ばれて赴いた応接室には、父と義母、ミルフィー、そしてロイズが揃っていた。そこで告げられたのは、ロイズと私の婚約を解消し、代わりにミルフィーが彼と婚約すること。そして、ミルフィーに子爵家を継がせるという決定だった。
「領民たちからも今回の対応で不満が上がっておる。これほど領民たちに反感を持たれた者を次期当主とする訳にはいかんからな。心優しいミルフィーが次期当主となれば、領民たちも安心するであろう」
「ごめんなさい、お義姉さま。私、お義姉さまから後継者の座を奪うつもりなんてなかったのに」
ふるふると震えながら目を潤ますミルフィー。しかし、その口元が笑いをこらえるように上がっているのを私は見てしまった。
そんなミルフィーを、ロイズが優しく肩を抱いて慰める。
「ミルフィー、君が自分を責める必要などないよ。アナベルに次期当主としての品格がなかったというだけの話だ」
「ロイズさまぁ……」
「これからは、俺が婚約者として君を支えるよ。一緒にこの子爵領を盛り上げていこう。そうだ、結婚式は王都にも負けないくらい大々的に行おう」
「まあ!素敵ですわ。今回の被害で気持ちが落ち込んでいる者も多いですもの。皆が楽しめるよう、華やかなお祭りにするのも良いですわね」
「君はいつでも領民たちの心に寄り添っているんだね。なんて心優しいんだ」
「そんな、子爵家の娘として、当然のことですわ」
……そんな予算を、いったいどこから出すつもりなのだろう。
真っ先にそんなことを思ってしまった自分に、私は乾いた笑いをこぼす。皆の言う通り、確かに私は守銭奴令嬢らしい。反射のように、すぐに子爵領の残りの予算を計算してしまう自分が笑えた。もう、私はこの地を守る資格さえなくなってしまったというのに。
そんな私に、父が口を開いた。
「お前には縁談を用意してやった。評判の悪いお前をもらってくれる者などいないかと思ったが、もとは商家だった成り上がりのカタスティマ男爵家がお前でも良いと言っているのでな。なかなかの支度金も送られている。最後に領地の役に立てるのならば、お前も本望だろう」
「……かしこまりました」
私は、反論する気力もなく小さく了承した。
もう、父にとって私は支度金という金になる商品としての価値しかないことが分かってしまったから。
「カタスティマ男爵は金のためなら何でもする冷酷な商人らしい。爵位も金で買い叩いたとの噂だ。お前にはお似合いだろう」
「そんな……。お義姉さま、そんな冷たい方と結婚するなんてかわいそう……」
「大丈夫さ。守銭奴同士、気が合うだろう」
「そっか!それなら安心ですわね、ロイズさま。お義姉さま、私たちの結婚式には是非戻ってきてくださいね。そうだわ、結婚式と言えば……」
ふわふわとした、まるで現実感のない会話が目の前で明るく交わされる。結婚式のことで盛り上がるミルフィーもロイズも両親も、もう私のことなど見てもいない。
男爵家から送られた支度金は、おそらくこの二人の結婚資金となるのだろう。必死で貯めてきた治水事業のためのお金も、今回ミルフィーが約束した税の免除を補填するために消えていく……。
(私は、何のために頑張ってきたのだろう……)
守銭奴令嬢と呼ばれながらもお金をかき集めてきた私が、最後にはお金と引き換えに売り払われる。そんな皮肉に、しかしもう笑うだけの気力は私には残っていなかった。
***
一週間後、私は追い出されるように嫁ぎ先のカタスティマ男爵家へ向かっていた。
男爵領へ入ってまず驚いたのは、街道がしっかりと整備されていることだ。整備されたのは最近なのだろう、凹凸のない最新の技術で整えられた幅の広い街道にはたくさんの馬車が行きかっている。
男爵家の屋敷のある中央の街には港もあり、多くの貿易船も停泊していた。ここで下ろされる商品は、あの広く整備された街道を通って各地へと取引されていくのだろう。人々で賑わう中央広場は、子爵領など比べられないほどに発展している。商人あがりの男爵と父は馬鹿にしていたが、カタスティマ男爵はとてもやり手の方なのだと思う。
(そんな人がなぜ、私に縁談を送ってきたんだろう……?)
落ち目の子爵家の娘など、いくら男爵家より家格が高くても、これほど潤っているカタスティマ男爵にとってはほとんど旨味のない政略相手だ。
もしかしたら社交界の情報に明るくなく、私の悪評を知らなかったのかもしれないと思うと心が沈んだ。
(ここでも要らないと言われたら、私はどこに行けばいいのかしら……)
暗い気持ちで男爵家に到着し、止まった馬車から足を踏み出すと、馬車の扉のすぐ前に背の高い青年が立っているのに気が付いた。
「!」
青年は質が良く品のあるグレーのスーツをまとっていて、黒髪をすっきりと後ろでまとめている。一見冷たくも見えるのは、その整った容姿にかけている眼鏡のせいだろうか。
驚いて降りかけの姿勢のまま固まってしまった私の正面で、青年もなぜか固まったまま、眼鏡の奥のアイスブルーの瞳を見開くように私の顔を見つめていた。
「あの……?」
「……っ!」
どうすればいいのかと声をかけると、はじかれた様に青年は肩をはねあげ、私を見つめたまま顔を赤く染め上げた。
「え……?」
その反応に驚いていると、青年の背後から執事であろう男性の咳払いが聞こえてきた。
「領主様、まずは奥様をエスコートせねば」
その言葉から、私はやっと目の前の青年がカタスティマ男爵その人であることに気が付く。
彼は執事の言葉にはっとしたように、わたわたと私に手を差し出した。
「も、申し訳ありません。本当にあなたが来てくださったことが夢ではないのかと……。私はカタスティマ男爵家が当主、メルシオと申します。ようこそおいでくださいました、アナベル嬢」
結婚相手となるその青年——メルシオは耳を赤くしたまま私に嬉しそうに笑いかける。優しいその笑顔に、私はどう反応すればよいのか分からないまま、おずおずとその手をとったのだった。
カタスティマ男爵家のお屋敷は、子爵家の屋敷よりずっと立派で隅々まで手が行き届いていた。まずは旅の疲れを取ってほしいと案内された部屋は、美しいバルコニーのついた日当たりの良い上階の部屋だ。そこからは、美しく整えられた中庭が見渡せる。
部屋の中は落ち着いた色調でまとめられながらも、磨き上げられたマホガニーの木材が使われた家具はよく見ればどれも素晴らしい装飾の施された一級品だ。広い室内にはかわいらしい花々も飾られており、この部屋の主になる者への心遣いが感じられた。
私の専属になると紹介された二人の侍女もとても親切で、広々とした浴室に案内されたと思ったら隅々まで磨き上げられ、高級なオイルを使ったマッサージまで施される。
まるでお姫様のような待遇に呆然としているうちに、今度は美しいドレスを魔法のように着つけてくれた。肌触りの良いシルクと繊細なレースがふんだんに使われたドレスは、今まで自分では触れたこともないような美しさだ。とどめとばかりに首元には希少なブルーダイヤがいくつも連なったネックレスがつけられ、鏡の前に立った私はなんだか本当に高貴なご令嬢のようで自分ではないみたいだった。そうして私は、とてもお美しいですわと満足顔の侍女たちに応接室へと送り出されたのだ。
メルシオがいると言われた応接室をそっと覗けば、恐らく仕事の話なのだろう、真剣な表情で執事になにやら指示を出しているメルシオの姿があった。
初対面での姿を見ていなければ、なるほど確かにやり手の商人というのが頷ける風格がある。さらりとした清潔感のある黒髪を後ろで束ね、眼鏡の奥のアイスブルーの瞳には知的な光が灯る。ロイズのような貴族的な華やかさはなくとも、その静かな泉のような端正な容姿は様々な交渉に長けた余裕を感じられた。
「し、失礼いたします」
仕事の邪魔にならないよう小さく声をかけると、私に気づいたメルシオは手元の書類をバサリと落として勢いよく立ち上がった。一瞬前の風格は露と消え去り、ドレス姿の私を視界におさめて何故か顔を覆って俯いてしまう。
「あ、あの、お仕事のお邪魔でしたでしょうか……?」
出直した方が良いだろうかと考える私に、メルシオはガバリと顔を上げて私の手をとった。
「あなたが邪魔な訳ありません!……すみません、あまりの美しさに取り乱しました」
照れたようにそんな事を言われるが、思いもしなかった言葉で私は混乱する。だって、今まで美しいと言われるのはミルフィーのみで、みすぼらしい私をそんな風に褒めてくれる人なんていなかったのだから。
お世辞だと分かってはいても、初めてこんなに綺麗なドレスを着せてもらってそわそわしていた私は頬が熱くなっているのを自覚し視線を下ろす。
「あ、あの、素敵なドレスをご用意していただき、ありがとうございます」
おずおずとそう言えば、メルシオはパッと嬉しそうに笑った。
「私の用意したドレスをアナベル嬢に着ていただけただけで、これ以上の喜びはありません。ドレスに関してはとりあえず五十着ほどご用意しておりますが、気に入ったものがなければ新しいものをどんどん作らせますから遠慮なくおっしゃってくださいね」
……よくわからない数字が聞こえた気がしたけれど、きっと私の聞き間違いだろう。私は改めて彼に向き合い、カーテシーを行った。
「あの、ご挨拶が遅れてしまいましたが、ステラシス子爵家が長女、アナベルと申します。これから、どうぞよろしくお願いいたします。そして、素敵なお部屋やドレスをご用意していただき心から感謝申し上げます」
そう告げて顔を上げると、メルシオは何故かやっと手に入れた宝物を見るような瞳で私の事を見つめて笑った。彼が笑うと、氷のようだったアイスブルーの瞳に、春の雪解けのような温かな光が灯る。私はその笑みに、とくりと心臓が跳ねるのを感じた。
「いいえ。アナベル嬢が私の妻として嫁いできてくださったことは、私にとっては金に換算できないほどの価値があります。私の全財産を捧げても足りないくらいなのです。あなたが私の妻となってくださったことを決して後悔しないよう努めると、神にも金貨にも誓いましょう。さしあたっては、何か足りないものはございませんでしたか?必要なものがあれば、私でも侍女にでも言っていただければ、ドレスでも宝石でも別荘でも、すぐに用意いたします」
あまりにもな大盤振る舞いと金銭感覚の違いにくらくらしながら、私はおずおずと問いかける。
なぜこんな風に歓迎してくれるのか、全く分からなかったから。
「あ、あの。ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「ええ!なんでも聞いてください」
「……なぜ、メルシオ様は私へ縁談を申し込んでくださったのでしょうか。ステラシス子爵家は中央への伝手もなく、政略的に見てあまりお役に立てないと思うのですが……」
声は尻すぼみになってしまったが、メルシオは何の問題もないというように答えてくれた。
「確かにアナベル嬢にとっては、突然の事で驚かれたことでしょう。……実は、アナベル嬢とは手紙で何度かやり取りをさせていただいた事があるのですよ」
「メルシオ様と、ですか?」
「ええ。エンポロス商会、と言えば思い当たりますか?」
「え⁈」
メルシオの言葉に、私は目を見開いた。それは、水捌けの悪い地で育つ作物を探っていた時、外国の作物の資料などを取り寄せるために頼った商会の名だった。手紙でのやり取りだけで実際に代表の方に会ったことはなかったけれど、とても親切に対応してくれた。それだけでなく、領地の特産品の売買の相談や治水事業についても知恵を貸してくれたのだ。いつか直接お礼をしたいとずっと思っていた相手であった。
「メルシオ様が、エンポロス商会の代表の方なのですか⁈」
「ええ、爵位のないままにいくつもの商会を経営していると貴族の方々に目をつけられてしまうので、今まではそれぞれ偽名を使ったり代理の者を代表に据えたりしていたのですが、エンポロス商会もその一つなのです」
他にも運営している商会や貿易会社を教えてくれたけれど、どれもこの国のみならず隣国でも大きな販路を持つ商会だ。この国の王太子の後ろ盾を持つ商会まである。それらを束ねているというのが本当なら、メルシオはこの国の経済を動かしていると言っても過言ではない。そんな人物が、目の前にいる自分とそれほど歳の変わらない青年だということに驚きが隠せない。
しかしそれよりも、私はまず彼に言わなければならないことがあった。
「私、ずっとお礼をしたかったのです。サトイモの件も、特産品の販路の件も、治水事業の件も……。親切に相談にのっていただき、本当に、ありがとうございました」
社交界での伝手もなく、専門の知識も不足していた私は、領地の運営はもとよりその金策は手探り状態だった。それでも領民のために失敗はできないと強い重圧のなかにいた私に手を差し伸べてくれたエンポロス商会は、私にとって恩人と言えた。
「よいのですよ。お礼なら、毎回丁寧なお礼状を送ってくださっていたではないですか。あなたの手助けができていたのであれば、これ以上の喜びはありません」
メルシオから与えられる今まで触れたことのないような無条件の優しさに、私は戸惑う。
「……どうして、こんなに私に良くしてくださるのですか……?」
「……あなたのような若いご令嬢が、領地のために懸命に学ぶ姿に感銘を受けたのです。そして領民のため、平民の商人にも丁寧に教えを乞い、必死に領地を支えるあなたの優しさに、いつしか私は惹かれていたのです」
「っ……」
メルシオの言葉は、とても嬉しかった。誰にも認められなかった頑張りを、彼だけは知ってくれていたようで。
それでも、私の“優しさ”に惹かれたという言葉に、胸がじくじくとした痛みをぶり返す。
私は、震える指先をぎゅっと握りしめた。
「……そのように言っていただけて、とても嬉しく思います。でも……。
……私は、お金にがめつい、冷酷な守銭奴令嬢なんです。お金がなければ、誰かに優しくする事もできない、恥ずべき人間なのです」
爵位を得てこれから社交界にも出るようになるメルシオは、遠からず私の悪評を知ることになるだろう。その時に失望されるくらいならと、私は自ら懺悔するように告白した。
こんな私に優しさをくれた恩人でもあるメルシオに後からこんなはずではと落胆されたくなかったし、そんな顔を見てこれ以上傷つきたくなかったのだ。
領民たちの、私を非難する顔を思い出す。皆が、私を冷たい人間だと言っていた。そんな私が知られれば、きっとメルシオも私のことなど——
「――でしたら、これから毎日あなたの部屋の中を金貨でいっぱいにしましょう!」
「…………?」
冷たい視線で見られるのではと身構えていた私は、何でもないことのように笑顔のまま告げられた言葉に、何を言われたのか理解するのにしばらくの時間を要した。言葉が理解できても、意味が分からなかったけれど。
そんな私に、さらにメルシオはニコニコしながら口を開く。
「あなたの部屋の前の庭を宝石で埋め尽くしても良いですね。時計台から札束をばらまく遊びをしてみるのもいい。あれはなかなか気分がよさそうですから」
「……え……?」
現実感のない提案に、私は口をぽかんと開けた。その様子に何を勘違いしたのか、メルシオは慌てたように言い募る。
「ああ、ご心配にはおよびません。もちろんそれは私のポケットマネーから出しますよ。婚姻後にあなたには私の現在の総資産の半分は先に名義を変えてお渡ししておきますし、毎月男爵夫人としての化粧料は金貨百枚をお渡しする予定です。もちろん足りなければもっと増額を……」
「ええと、その心配ではなくて。なぜそんなことをおっしゃるのか、意味が、よく……」
金貨百枚など、子爵領の年間予算の数倍だ。そんな額を毎月自由に使える夫人予算として渡すことにも正気を疑うが、そもそもなぜ部屋を金貨で埋めたり札束をばらまくなんて話になったのか訳が分からない。
困惑顔の私に、メルシオはアイスブルーの瞳をゆるめてニコリとほほ笑む。
「あなたはこれから一生、お金があれば……などと悩むことはないのだとお伝えしたかったのです。なぜなら、尽きることのないお金を、これから私はあなたに捧げ続けるから」
迷子のように立ち尽くす私の手を、メルシオが優しく持ち上げた。まるで、この世に一つしかない宝物のように。
「あなたは私にとって、今のままでも最高に素敵で美しく、誰より優しい素晴らしい人です。ですが、あなたが自分を冷たい人間だと不安に思っているのであれば、その懸念事項をなくして安心して私の妻となってほしいのです」
どこまでも優しい声が、私の耳朶を震わせる。
私の手を優しく包むメルシオの手は、とても、温かい。
「不安になる事なんて何もありません。私は商人です。これからもじゃんじゃん稼ぎますし、一生あなたに溢れるほどの愛と金を捧げると誓いましょう。
——だから、あなたは一生、優しい人間でいられますよ」
「ぁ……」
メルシオの言葉に、私は目を見開いた。瞳の奥が、じわじわと熱くなる。
この人は、お金がないと優しくなれない私を蔑んだりしない。初めて会った人なのに、この人はどんな私でも受け止めてくれるのだと、なぜか信じられた。胸がいっぱいになって、心が安心感で満たされる。
「いままで、お金が沢山あったらしてみたかった事はありますか?何でも言ってくださいね。お金で買えるもので私に用意できないものはありません」
「……お金があったら、したかったこと……」
私は目元を拭いながら思い出す。もしもお金があったなら、何をしたかっただろうかと。
金策に喘ぐ事なく、普通の令嬢のように綺麗なドレスを着てみたかった。
お洒落をして、婚約者と語り合ってみたかった。
でも、それはすでにメルシオが叶えてくれている。それ以外なら……
「花祭りに……お花が欲しい、です」
「もちろんです!あなたの夫として、両手いっぱいの花束を贈らせてください。アナベル嬢は何の花が好きですか?」
「好きな、花……?す、すみません、そういえば、あまり考えた事がなくて」
忙しい日々の中で身の回りを削る事しか考えてこなかったため、好きなものを考える余裕さえ今まではなかったのだ。子供の頃には、好きなものはたくさんあったはずなのに。
「では、次の花祭りの日には、私が一番好きな花を贈らせてください。その花を、あなたも好きになってくれたら嬉しい」
「っ、……はい……!」
私は、たぶん生まれて初めて、心からの笑顔を浮かべて頷いた。
そんな私を愛おしそうに見つめるメルシオと目が合い、自然と笑い合う。こんなに次の花祭りが楽しみなのは初めてだ。
メルシオの贈ってくれた花ならば、きっと私は好きになる。そんな確信があった。
それから数年後、私はさらに商会を大きく成長させるメルシオと幸せに暮らしている。
その間に、王国の財政状況を改善させ貿易航路を開いた功績で男爵家は子爵位、さらには伯爵位へと陞爵され、いつの間にか私は伯爵夫人となっていた。さらにメルシオはこの王国の王太子であるアレキサンダー殿下とも親しかったようで、結婚式の際にはお忍びで来られた殿下に祝福されてとても驚いた。
私が子爵領から出て二年後、ステラシス子爵領では水害が起こり大きな被害が出たと聞いた。しかも子爵家は金がなく支援どころが救助の指示も出さずに自分たちだけ他領に避難したとも。
もう資格がないと知りつつも領民を心配する私のために、メルシオは子爵領に支援を送ってくれた。私の憂い顔を晴らすためならこのくらいなんでもないと言って。
民を見捨てたステラシス子爵家は、結局破産し爵位を取り上げられたと聞いたけれど、私はもう彼らに関わるつもりはない。今の私にとって大切なものは、メルシオとメルシオの守るこの領地の住民たちなのだから。
メルシオはあの日の誓いの通りに、私に溢れるほどのお金と愛情を注いでくれる。……持参金もない惨めな花嫁だった私の個人資産が、いまや国家予算並みであることはあまり考えないようにしている。
なぜか結婚式後も触れてくれず、やはり女としては求められていないのだろうかと誤解し落ち込んだこともあったけれど、今では二人の子供にも恵まれて、昔では考えられないくらい日々が幸せで溢れている。子供たちはもちろん、メルシオは私の事を本当に大切に大切にしてくれるのだ。ずっと不思議に思っているのだけれど、まるで本当に、メルシオの目には私が世界一綺麗に映っているかのようだ。
明るい日差しが注ぐ執務室に、ノックの音が響く。
「アナベル、まだ仕事をしていたんですか?」
「メルシオ様!」
何年経っても変わらず私を甘やかしてくれる優しい夫に、私は執務机から顔を上げてぱあっと笑顔を浮かべる。
「孤児院の子供たちへの勉学支援について、もう少しだけ詰めたかったんです。それから、失業者への再就職支援の概要も……」
書き上げた資料を見せると、メルシオは優しくほほ笑んで私をふわりと抱き上げた。そして、可愛くて仕方がないとでもいうような表情で口づけを落とす。
「メルシオ様……」
頬を赤く染める私に、メルシオは愛おしそうに口元を緩める。こんなに優しいメルシオが今でも冷血商人などと巷で呼ばれているのが、本当に不思議でならない。
「仕事をしている時のアナベルは、本当に楽しそうですね」
「ふふ、はい!」
結婚当初、爵位を得たばかりの男爵領は街道の整備をはじめ公共事業や福祉などの内政改革を始めたばかりだった。私が何かお手伝いがしたいと頼み込んだところ、メルシオは福祉事業の統括を任せてくれたのだ。
しっかりした予算の中で、男爵領の領民のために必要な事業を考える。この予算があれば、あんなことも、こんなこともできる。時にメルシオの視察にもついていき、その地に必要な事業を調査する。領民からの声を聞きながら事業を立ち上げていくことが、楽しくて仕方なかった。頑張った分だけ、領民の笑顔が返ってくる。それが、何より嬉しい。
いくらでも追加予算を出せるからとメルシオは言うけれど、それに甘えるつもりはない。大切な領民からの税を無駄にしないよう、そして何かあっても支援に頼り切らず領民たちが自立し豊かな生活を送れるような仕組みを作っていく。
最近は、新しい福祉事業が注目を浴びて他の領から視察が訪れることもある。
これもすべて、いつも私を信じ支えてくれる優しい夫のおかげだ。
「アナベルが楽しそうなのは嬉しいのですが、今日は特別な日ですから。お仕事は少し休憩して、私にあなたの時間をいただけませんか?」
メルシオの言葉に、私はもちろんと答えて部屋にこっそりと用意していたものを手に取り彼のもとに戻った。
彼に手渡すのは、真っ白な小花が咲き誇るアナベルの花。
彼が、一番好きなのだと教えてくれた花だった。
あの日から毎年、私たちは花祭りの日にアナベルの花を贈りあう。……自分の名前の花を贈るのは、少しだけ恥ずかしいのだけれど。
ふいに、過去にそんなやり取りをしていたような記憶がぼんやりと浮かびかけたけれど、とても幸せそうに花を受け取ったメルシオに抱き上げられて、その記憶の霞はしゅっとどこかに消えてしまった。
「アナベルに、私からも渡したいものがあるのです」
てっきり今年もアナベルの花束を贈ってくれるものと考えていた私は、改装中でしばらく立ち入り禁止だった裏庭に連れてこられた。
「これが、私からの贈り物です」
「わ、ぁ……!」
覆いの取り払われた裏庭は、たくさんのアナベルが咲きほこる美しい庭園へと生まれ変わっていた。白い花びらや緑の葉についた朝露が、キラキラと太陽の光を反射し輝いている。木陰には居心地のよさそうな東屋も設置されていて、天気の良い日にあそこで読書するのはとても気持ちがよさそうだ。
「すごい!とても素敵です!こんなに綺麗なお庭……ありがとうございます、メルシオ様」
満面の笑顔でお礼を言えば、メルシオは嬉しそうに私のことを後ろからぎゅうと抱きしめた。
「喜んでもらえて良かった。アナベルが私の側にいてくれることは、私にとってそれこそ奇跡のような幸せなのです。だからアナベルはもっともっと私に甘えて、もっと幸せになってもらわなければ」
「ふふ、これ以上甘えていたら、私はダメ人間になってしまいます」
「それでもいいんですよ。あなたが、私の隣で笑っていてくれるなら」
本当に、どうしてこれほど私の事を好きになってくれたのか今でも分からない。それでもメルシオは、出会った時から変わらず私を深く愛してくれている。その気持ちを疑う暇などないくらいに、お金と幸せをじゃぶじゃぶと注ぎながら。
そして彼を愛する気持ちは、今では私だって負けてないと思っている。
「私は、人は金がなければ幸せになれないと思っています。でも、金だけでは幸せになれない事も知っている」
アイスブルーの瞳が、温かな光を灯して私を見つめる。
「私は、アナベルがいないと幸せになれないのです」
その言葉に、私は心を満たす愛おしさを言葉にのせてほほ笑んだ。
「私もです。私もメルシオ様がいなければ、幸せになることはできないでしょう」
額を触れ合わせ、頬を綻ばせて笑い合う。
間近で絡んだアイスブルーの瞳には、幸せそうに微笑む私の姿が映っていた。
「愛しています、メルシオ様」
「私も、誰よりもあなたを愛しています、アナベル」
そうして私たちは、白いアナベルが見つめる中で優しい口づけを交わした。




