4.出勤
翌日も朝から仕事だった。
起床すると、テツジは軽くストレッチをしてからシャワーを浴びる。それから髭も剃ってから几帳面に髪を乾かし、作業服を着こむ。それから手早く朝食の準備に取り掛かった。
ちなみに個人が料理を手作業するという時代は、とうの昔に終わっている。基本的には固形あるいはチューブ入り完全栄養食が配給されていて、それだけ食せば事足りるという状況である。
これは世界食糧安定分配計画の賜物であり、諸般の事情、あるいは宗教的信条などを理由に古典的生活を営んでいるような一部の地域を除けば、人々は飢餓とは無縁の生活を享受していた。
配給食料は基本的に完全自律管理の工場プランテーションで製造され、ビタミンや人体に必要な必須元素、タンパク質などもまとめて、栄養食に加工される際に必要量が添加される。
とはいっても、もちろん例外も認められている。入手は簡単ではないが、未加工の野菜や果物も得ることは可能であった。それとごく少数派だが、現実世界で料理を趣味にする者もいた。ただ、肉や魚に関しては完全培養のものしかないので、特別の缶詰め様式で手にするしかないのが実情である。
さらに、個人の食事量は厳格に管理されており、豪勢に食べる飲むといったことはできなかった。もっともこの時代に、現実世界での食事などという行為は大多数の人々にとって単なる作業であり、料理と味覚を楽しむという行為は、メタバース世界において、それこそ思う存分に味わうことができた。
大昔の感性で捉えてみれば、ディストピアなどという言い方をするような世界かもしれないが、メタバースという理想郷が存在する今、現実世界はそれらのための単なる下地でしかなかった。
そして例外的な存在の一人が、このテツジという男なのである。
家庭用小型ベーカリーで作ったパンをトーストして、その上にこれまた今の時代は高級品の生卵から目玉焼きを作り、ベーコンとフライパンでいっしょに焼いたものを乗せた。それにコーヒーを淹れることも欠かせなかった。これもまた異常なほどの拘りで、豆から自作したものだった。
朝食は彼にとって、一日のなかでもっとも優雅な時間でもあった。
充分に味わって食べ終えるとコーヒーを飲み、これまた食器を手早く洗って片付け、自前の工具と作業用端末の収まているバッグを手にして自宅を出た。
***
基本的には現場へは直行直帰という業務スタイルだが、場所が近ければ詰所に顔を覗かせていくことも習慣であった。
それから、その日の作業行程を確認して、必要な道具や資材の準備にかかる。
地上へ向かう階段を進む。コンクリートの無機質な縦長の空間、白色照明が等間隔に続く。そこへ、作業靴で歩くコツコツと音が伝番していく。
この極東地域一帯の大陸から沿岸部、それと周辺諸島では、多くの人が地下に暮らしている。とは言っても、ベタな昔の未来ものSF映画みたいに、地上がなにかしら汚染されているとかいうわけではない。むしろ現実は、そうした表現の対局の状態である。
とりわけ先進国地域ではすっかりメタバースが普及したゆえ、大半の人々はその中で過ごすがために常に寝たきりのような状態であるものだから、市民の居住区が地下に作られるようになったのは、自然な成り行きだったのかもしれない。
それに極東は、中央アジアや欧州、アメリカ大陸 ―まあ、西海岸のエリアは別だが― などと違って、地震が多いことも要因であった。地上よりは山岳などの地中のほうが、建物が倒壊するといった被害を押さえるのに好都合だった。
階段を上ってる途中でテツジは、こめかみを指先で軽く叩いた。すると彼の視界に女性の姿が現れて声をかけてきた。
「主任、おはようございます。ただ今の時刻は九時十二分です」
「よう、アミクス。おはようさん」
〈アミクス〉
それは高性能対話型業務補助BOTである。
基本的には音声ガイド、画面上での存在だが、ホログラム用の等身大キャラクターも用意されている。容姿は、アニメ調からリアルフェイス、性格も生真面目なものからお茶目なものまで、使用者の好みに応じていくらかのカスタマイズが可能だ。
性能は良かった。たしかに、登場したころは高性能だった。画期的だとして各地でもてはやされたが、今となっては、時代遅れのシステムであることを否めない。
職場で使用しているのは、その中でも初期から中期頃のモデルで、業務向けオフライン用バージョン。もともと、公的施設でのみの運用を想定されたもので一般向けよりは汎用性が低く、オンラインでの脆弱性が発見されてからは、多くが別のシステムに取って代わられた。
ここ極東施設では、ハード面で旧式な部分が多数あることと、オフライン独立系設備が多いことから、いまだに〈アミクス〉が現役で活用されていた。
デフォルトでは動物がモチーフでゆるキャラのようなモデリングが多いのだが、テツジは独断で設定をいじっていた。等身大の人間の女性で金髪セミロング、少しアニメ調のデザインで凛々しい感じの顔つき、いたって真面目な性格のキャラクターという設定に変えていた。
「主任、作業行程は確認済みですか?」
「ああ、いつも通りだよ。それと今日は、新人が来るという話じゃないか?」
「はい、そうです。地上の作業員待機場で集合予定となっています」
「了解だ」
空は快晴。風が大地を優しく撫でて、今日も地上の空気は清々しかった。
***
現場業務で新たに相棒となる人物は、二十代そこそこの女性だった。
カレン・オオミナト……どうやら本名らしかった。ここ最近は、現実世界でもログインネームを名乗る者は少なくなかった。
すでに支給されている作業服を着ていた。地味な服装に対して、きれいな紺碧に染められ、エメラルドグリーンのメッシュが入ったセミロングの頭髪が目立っていた。
たぶん、メタにいるときもそうしたヘアスタイルなのだろう。現代の若者にしては珍しいなとテツジは思った。
睡眠や飲食、排泄といった身体の生理現象の対応を除けば、メタで過ごす時間が長い現代人にとって、現実で過ごすときに外面を気にするというは必要性は、ほとんど失われかけていた。
彼女はどことなくけだるそうな表情をしていた。だが人事資料によれば必要最低限の機械工学、電気工学に材料力学、基礎的なプログラミングの知識も持ち合わせていた。実際の技術的な面は及第点というレベルで、仕事への態度も熱心とは言えないが、そのことで不満をいえる状況でもなかった。
皆がメタバースの世界に漬かりっぱなしの世の中で、この手の仕事にやってこようという人はいつも不足していた。どんなに給与がよかったとしても、現実世界という条件が付くだけで、応募者は激減する。
むしろ単なる好奇心からであっても、現場に人が来るというのは喜ぶべきことであった。ともかく、気楽にやっていくしかないなとテツジは思った。
「それじゃあよろしく、オオミナト君」
「あ、はい、お願いします」




