2.帰宅
テツジは最後のグラスを空にして、ゆっくりと席を立った。
「ほんじゃあ、俺はここいらでおいとまするとしよう」
「そういえばテツさん、支払いするところを見たことないような気がするんですけど、リアリストなのにその辺はこだわらないんですか?」
メタバースのなかでは当然であるが、あらゆる売買が電子決済によって完結している。基本的にはポップを開いて同意するだけでやり取りは済む。
もちろん、現実世界のような現金が必要になることなどないが、多くの人々は形式的な慣習として紙幣やコイン、人によっては金貨や銀貨といったトークンを介して支払い手続きをすることも多かった。
「おう、いいことを教えてやろう。アイビー、ツケって知ってるか?」
「つけ?」
「自分で言うのもあれだが、俺は上客ってやつでね」
「ま、マスター、テツさんがこんなこと言ってますけど、ほんとですか?」
マスターは笑みを交えて答えた。
「ええ、テツ様はツケでお飲みなりますが、月末にはちゃんとお支払いをしてもらっていますから。上客ですね」
「まあこんな真似ができるのは、この店くらいなもんだがな」
「僕には真似できそうにない慣習ですよ」
「ほんじゃあな、また今度会おう」
そうしてテツジがバーの外へ出ると、都市の空は黄昏色に包まれていた。
メタバースの世界は基本的に眠ることを知らない。真夜中というものが絶対ではない世界。だがそれでも、現実に合わせた若干の昼夜の変化は見ることができた。
そして遠目には、大きなタワーが煌々と輝きを放っている。同心円状に配置されている超巨大都市群の中心部に立つ超巨大建造物。
〈ネオアジア・バベルタワー〉
それは一九八〇年代での日本、いわゆる日本バブル経済最盛期に考案され、ついに幻の計画として終わった巨大建築物をモチーフにしたものだった。
地上高さはおよそ一万メートル、想定された居住数は三千万人、用地総面積は当時の山手線の内側面積に相当する六十三平方キロメートル、予想工費は一九九〇年代当時のレートで三千兆円と見積もられていた。
とうてい現実世界では、技術的な可否は別としても、経済的に実現不可能な代物であった。しかし、メタバース世界において、実現不可能な建築物などは存在しなかった。可能なものはすべてが可能なのだ。
ときにはメタニューヨークなどに行ってみるのもよい。現実では、材料力学上において、とうてい建築不可能な高さの超・超高層ビル群を見ることができる。
それらも圧巻なのだが、ネオアジア・バベルタワーは別の意味で圧巻だ。山のような末広がりのかたちをしていて、とにかく圧倒的だ。それから、デザインは未来的なはずなのだが、それでいて見る者に対し、郷愁の念や懐かしさ、あるいは宗教的な印象も与える。
そして、十数億人の受け入れが可能な冗長性をもってプログラムされた巨大電脳都市であるのだ。
ここには超未来的な世界もあれば、フィクションの中世ファンタジックな魔法が日常に存在する世界もある。あるいは、それらと同じくらいアール・ヌーボー主義的な懐古趣味に満ちた世界もあるのだ。
テツは街の通りを進んでいき、一つの路地裏へ入った。正直言って、きれいなところではない。壁や路面は汚れや落書きがあり、ゴミが落ちていて、暗くジメジメしている印象だった。映画やアニメといったフィクションだったならば、浮浪者かチンピラにでも遭遇しそうなシチュエーションのようだ。
そして、弱々しい街灯の光に照らされた下に、ポツンと寂しく立つ公衆電話があった。
もちろんこれらは、テツジのレギュレーションに基づく情景だ。メタ世界では点々とした場所に、個人が思い思いの情景を設置することができる。
たいていは、広いアパート風の部屋だとか、アトリエのような場所、あるいはきれいに手入れされた庭だとか、そういったものを設定して、プライベートに居心地よく過ごすためものだ。
テツはログアウトとログインをするためだけに、この場面を設定していた。ただ本来は、ログアウトするための煩わしい手順なども存在しない。考えるだけで充分だ。
もちろん人によっては、視界にポップウィンドウを開いてログアウトのボタンをクリックしたり、何かしらのジェスチャーとともに「ログアウト」などと呟くこともある。
とにかく、テツジはこだわりが強いのだ。傍から見れば、とんでもなく手間と思える儀式的な行動をせずにログアウトするのを好まなかった。
昔のアメリカの都市部で見かけるような、金属製の無機質な見た目の電話機である。そしてこれは、古いSF映画に対するオマージュでもあった。
受話器を取り、ダイヤルをする。しばらくすると、かつて聞き馴染みのあった女性の声が聞こえた。
「テツ? これからどうするの?」
「ああ、自分の家に帰るのさ」
そして彼は目を開けた。
アクセスポッドから起き上がって見える景色は、アパートの一室という感じである。ただ、大昔の都市部のものと比べれば贅沢なくらい広い。ただ、少しばかり雑多な雰囲気が漂っている。それに隣の部屋には、いまや見かけることなど珍しいリビング&キッチンというスタイルが健在だった。
聞くところによると、最近の若者は部屋にメタバースへのアクセスポッド以外の家具らしいものが無い、などということもざらにあるらしいのだが、この部屋はその対局にあった。
家具はほとんどが高価な天然木製 ―しかもそのほとんどは彼が自作したもの― で、本棚には今となっては、超がつくほど珍しい紙製の本が並び、机は作業台に成り果てていた。そこにはコーヒーの染みがついているマグカップ、旧式のキーボード付きタブレット、素人目にはよく分からない工具や電子機器と、それに付随するかのように何かしら部品、基盤なんかが乱雑に置かれていた。
本棚の書籍には、ごく平凡な小説もあれば、高度な技術関連の専門書や仕様書もあった。
寝具のベッドは、それ本来の働きしか持ち合わせていないものだ。現代では、たいがいがメタへのアクセスポッドと一体形式になったものが一般的で、高級なものならアイソレーションタンク形式のものなんかも存在している。
とにかく、彼はメタへのアクセスには古いチェアタイプのものを使っていた。もちろん大半の人から見れば、メタに長時間過ごしたいときには不向きなものでしかなかった。
テツ ―フルネームはテツジ・トヨダ― が暮らしているのは人気のない居住区画。いわゆる、いつかの世間で言われていた社宅とでもいったエリアである。
彼が勤める施設の運営開始前後、メタ黎明期には、作業要員とその家族など、多くの人が暮らしていたが、今ではまるで抜け殻のような雰囲気を漂わせている。
そして彼は現実世界で仕事をしていた。しかも、この時代では狂気の沙汰としか思えない、週五もしくは週四連勤務なども時としては自ら率先していた。
どのような業務かといえば、メタバースの維持に欠かせないサーバー施設のメンテナンスである。それも具体的には技術屋というやつで、各種の設備——空調、発電および送電、送排水といった非常にハードな側面——の点検保守がメインだった。
もっとも、施設の多くは自律制御であり、メンテナンスの大部分も自律型の作業ロボットやドローンによって行なわれていた。
だが、どうしても人の手がいる部分はいまだに無くせなった。そして、施設全体の設計がいくぶんか古いということも、そうした事態に拍車をかけていた。要員の人材不足といった問題も例外ではなかった。
テツジは、先ほどまでの〈アヴァンティ〉で飲んでいたはずの酒の味が、口の中に残っていないことを確かめた。
「ほらな、現実に戻ってみれば幻想みたいなものさ」
テツジは独り言のようにつぶやいたが、だからといって、その言葉が本心というわけでもなかった。こうしてバーから帰ってきたときの、癖のようなお決まりのセリフだった。




