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縁迦抄  作者: 撚火
2/12

放振"Horrible"

シドニー・ラリエ曰く、音楽とは言葉をさがしている愛である。

 ゆっくりと振り返った私の背中に、音が降り積もっていた。


 その音には、形があった。形のある音とは奇妙な言い回しだが、私はそれを確かに“触れられる”ものとして感じていたのだ。

 それは、足音だったのかもしれないし、誰かの咳払いだったのかもしれない。あるいは、もっと遠い昔に失われた誰かの嗚咽だったのかもしれない。


 放たれた音が、私にまとわりついていた。

 振動のような、振動ではないような、無限の残響だった。


 駅の階段を一段ずつ降りるたびに、私はそれを背負っていた。

 誰もいないホームに降り立つと、風が吹いた。風が吹いたはずなのに、髪の毛一本すら揺れなかった。

 それなのに、私の鼓膜の奥だけが強く震えた。


 振るえるのは、あなたの中の誰?


 そう囁いたのは誰だったか、わからない。

 たぶん私だ。きっと私ではない。


 私はかつて、誰かを許さなかった。

 あるいは、誰かを許したふりをして、自分を赦してしまった。

 振りほどいたつもりの手の感触が、いまだに指の隙間に残っていた。


 この場所には、かつて、会話があった。

 ふたりぶんの声が、交差し、衝突し、微妙に逸れながら、やがて空気に溶けていった。


 その残滓が、今日もここに浮遊している。


 私はポケットから小さな鈴を取り出す。

 それは、彼女が最後に私に投げつけたものだった。音を鳴らすためではなく、沈黙を壊すために。


 けれど私は、その音を鳴らさなかった。

 音を鳴らすことは、時間を再生させることだから。

 私はその再生を恐れた。恐ろしかった。だから、放置して、震えるふりをした。


 もう、震えていいよ。


 今、その声だけが、耳元で確かに言った。

 やわらかいけれど、揺るぎなかった。冷たいのに、温かさを知っている声だった。


 私は、指先で鈴を鳴らした。


 ちいさな音が、宙に放たれる。


 音が空気を打つと同時に、私の背中にまとわりついていた全てが、細かく砕けて剥がれ落ちていくのがわかった。


 まるで雪が降った後の朝にだけ感じられるような、誰も知らない振動が、あたりに広がっていく。


 恐ろしいのは、音そのものではない。

 振りほどいたつもりの感情が、いまだに自分の一部として震えていることだ。

ドビュッシー曰く、芸術とは、最も美しい嘘のことである。

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