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縁迦抄  作者: 撚火
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壊香"Echo"

ヘレン・ケラー曰く。私たちが一緒に過ごした幸せな時間は決して失われることはありません。私たちが深く愛しているものは全て私たちの一部になります。

その香りは、忘却の彼方から不意に滲み出す、古いインクの染みのようにやってきた。月長石(ムーンストーン)のコロン。彼女が好んでつけていた、甘く、それでいてどこか芯の冷たい、矛盾を孕んだ香りだ。三年前に彼女がこの部屋から永遠に姿を消して以来、嗅ぐことのなかった筈の香りが、今、確かに私の鼻腔をくすぐっている。


最初は気のせいだと思った。古い記憶が呼び起こした幻臭。あるいは、隣室の住人が偶然似たような香水でも使い始めたのかと。だが、香りは日増しにその輪郭を濃くし、私の日常に執拗に侵入してきた。朝、目覚めたシーツから。着替えようと手に取ったシャツの襟元から。誰もいないはずの浴室の、湿った空気の中から。それは間違いなく、彼女の香りだった。月長石の、あの冷ややかな甘さ。


あれは、まだ肌寒い春の夜だった。二人で小さなバルコニーに出て、欠け始めた月を見ていた時のことだ。彼女は私の肩にそっと頭を預け、冷たい指先で私の手を握った。その時、彼女の髪から、うなじから、ふわりと月長石のコロンが香った。


「ねえ、この香り、月みたいでしょう?」


彼女は囁いた。

「満ちたり欠けたり、光ったり翳ったり。でも、いつもそこにある。そんな風に、あなたのそばにいられたらいいのに」


その声には、普段の彼女からは想像もつかないような、微かな震えと寂寞の色が滲んでいた。私はその時、彼女の言葉の奥に潜む深い孤独に気づくべきだったのだ。だが、若かった私は、ただ彼女の言葉の甘美さに酔い、その美しい横顔に見惚れるばかりで、彼女の魂の叫びを聞き逃してしまった。その夜の月長石の香りは、今の記憶の中で、後悔の念とともにひときわ強く私を苛む。


「また、来たのか」

誰もいない空間に、私は呟く。返事はない。ただ、香りは一層強まり、まるで意思を持つ生き物のように私の周囲を漂い始める。それは単なる匂いではなく、彼女の存在そのものの残響だった。壊れてしまった時間の破片が、香りを触媒として再生しようとしているかのようだ。


香りが訪れるたび、鮮明すぎる記憶が蘇る。彼女の白い指先が私の髪を梳く感触。熱い紅茶を淹れながら、悪戯っぽく微笑む唇。窓辺で月を見上げながら、ぽつりと漏らした孤独の気配。それらは過去の映像としてではなく、今まさにここで起きている現実のように、私の五感を侵食する。


ある晩、書斎で本を読んでいると、不意に強い月長石の香りに包まれた。顔を上げると、窓辺に彼女が立っていた。月光を浴びて、その輪郭は淡く輝き、まるで生きているかのようだ。彼女は何も言わず、ただ静かに私を見つめている。その瞳は、あの春の夜と同じ、深い寂しさを湛えていた。


小夜(さよ)

私が名を呼ぶと、彼女はゆっくりとこちらに歩み寄り、私の頬にそっと手を触れた。その手は、驚くほど冷たかった。しかし、確かにそこに感触があったのだ。現実と幻の境界が、音もなく崩れていく。私は恐怖よりも、抗いがたい懐かしさに身を委ねそうになった。だが、彼女の姿は私の指が触れる直前、霧のように掻き消え、後には濃厚な月長石の香りだけが残された。香りは、彼女の不在を埋めるように、彼女の幻影をこの部屋に満たしていく。


私は香りの源を断とうと躍起になった。彼女の残した僅かな私物を全て処分し、部屋の隅々まで磨き上げ、あらゆる種類の芳香剤を試した。壁紙を張り替え、カーテンを新調し、この部屋から彼女の痕跡を消し去ろうとした。それは狂気に近い行為だった。友人たちは私の異様な様子を心配したが、私は誰にもこの香りのことを打ち明けられなかった。彼らはきっと、私がおかしくなったと思うだろう。この都市の喧騒の中で、私だけが過去の香りに囚われている。その孤独感が、さらに私を追い詰めた。


だが、どんな努力も無駄だった。どんな強い匂いも、月長石のコロンの前に屈服し、やがてその冷たい甘さに呑み込まれてしまう。香りは私を嘲笑うかのように、以前よりも鮮烈に、そして皮肉なほど甘美に立ち上るのだ。もはや、香りが私を蝕んでいるのか、私が香りを求めているのか、それすらも判然としなくなっていた。


「何が望みなんだ?」

ある夜、耐えきれずに私は叫んだ。香りに包まれた薄闇の中、彼女の気配が最も濃密に感じられるソファに向かって。


「僕にどうしろと……。もう、君はいないんだろう? 僕を狂わせたいのか!」

すると、ふわりと、香りが動いた。まるで、見えざる手が私の頬を撫でたかのように。そして、耳元で微かな衣擦れの音がした。――壊香。それは、壊れてしまった彼女の想いが、香りに宿って私に何かを伝えようとしているのだろうか。それとも、壊れ始めた私の精神が、都合の良い幻想を紡ぎ出しているだけなのか。私は膝から崩れ落ち、嗚咽した。助けを求めるように、しかし、その声は誰にも届かない。


その答えを探るように、私は香りに導かれるまま、部屋の中を彷徨った。まるで目隠しをされた子供が、母親の手を探すように。香りが最も強く主張する場所。それは、彼女が使っていた古い木製の小箱の前だった。三年もの間、開ける勇気がなかった、パンドラの箱。鍵はかかっていない。震える手で蓋を開けると、中には数枚の古びた便箋と、一本の小さな香水瓶が入っていた。月長石のコロン。しかし、瓶は空だった。


便箋を手に取る。それは、彼女の筆跡だった。私に宛てられたものではない。彼女が、誰にも見せることなく綴っていた、彼女自身の心の内の独白。そこには、私との日々の喜びと、それ以上に深い孤独、そして私には決して見せることのなかった、静かな絶望が記されていた。彼女は、私の隣にいながら、常にどこか遠い場所を見ていた。私の愛は、彼女の心の深淵には届いていなかったのだ。彼女は、自身の存在が希薄になっていくことを感じ、その恐怖を誰にも言えずにいた。


『この香りが消える頃、私はもういないでしょう。でも、もしこの香りが再び貴方の許に届いたなら、それは私がまだ、貴方の記憶の中で息をしているということ。どうか、忘れないで。私がここにいたこと。そして、私がどれほど貴方を愛していたかということを』


最後の一文は、インクの滲みで判読できなかった。だが、その滲みから、月長石の香りが鮮烈に立ち昇った。空のはずの香水瓶からも、同じ香りが溢れ出している。それはもはや、記憶の中の香りではなかった。現実の、物質的な香りとして、部屋を満たしていく。涙が便箋の上に落ち、インクの文字をさらに歪ませた。


私は悟った。彼女は、この香りを残響として、私に自身の存在を刻みつけようとしたのだ。忘却という静かな死から逃れるために。そして私は、無意識の内にそれを望んでいた。彼女を完全に失うことを恐れ、この香りのエコーに彼女の面影を追い求めていた。この香りは、彼女の愛の証明であり、同時に私の罪の記憶でもあったのだ。


香りは今も、私の部屋を漂っている。それはもう、私を苛む幻影ではない。彼女が生きた証であり、私の記憶と分かち難く結びついた、壊れかけた旋律のようだ。私はもう、この香りから逃れようとは思わない。この壊香と共に生きていく。それが、彼女の最後の言葉に対する、私なりの返答なのかもしれない。月の満ち欠けのように、香りの濃淡も、私の心の中で揺らぎ続けるだろう。


窓を開けると、夜風が微かに月長石の香りを揺らした。それはまるで、遠い昔に聴いた子守唄のように、静かに、そして永遠に、私の心に響き続けるだろう。この部屋は、彼女の香りで満たされた、二人だけの霊廟なのだ。

キューブラー・ロス曰く。あなたは愛する人の喪失を「乗り越える」ことはありません。あなたは喪失と一緒に暮らすことを学びます。

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