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最終章 認識の差延

 変わらない港区の風景の最後尾に、私は立っていた。月の光が東京湾の水面に反射し、二度と繰り返されることのない、刹那的な反復不能の風景を奏でている。私の痩せ細った心情を他所に、かつては私が私でいられるはずだったその反復不能の風景でさえ、今や冷酷な記号に置き換えられていった。港区の世界は何一つ変わってはいなかった。変わっていたのは、私自身であった。私は、その最後尾から逃げ出した。それは、反射的に身体が突如として動き出したような、生物学的な本能に近しい衝動だった。逃げる視界のなかで風景が滲み、何度も傾いていく自分を必死に支えながら走った。目的も理由も曖昧なまま、動的な身体と静止した思考が激しく差延する。見えない。ここでも、私が見えない。そのいつもの言語だけが、矛盾を孕みながらも私を走らせ、同時に私を静止させた。何分、あるいは何時間走ったのだろうか。ついに体力の限界を超えた頃、私はようやく身体を静止させ、代わりに思考を動的なものへと置き換えた。



 そこは、いかなる地図にも登録されていない、名もなき港だった。港区の境界線を遙かに越え、工業地帯のコンクリートの割れ目から錆びた鉄筋が露出しているだけの、無機能で、放棄された岸壁。ここには管理局の電子音声も、百万円の仕立てのスーツという名の鎧も、他者からの評価という名の視線も存在しない。私は、誰の目も届かない暗闇のなかで、ゆっくりと汗だくの衣服を解除していった。ネクタイを外し、シャツを脱ぎ、スラックスを無機質なアスファルトへと落とす。昼の世界で私を不可視の塊にしていた富裕層の記号たちが、足元でただの布切れへと還元されていく。網膜に焼き付いていたあの黄色いドレスの残像も、完全に夜の闇へと溶けて消えた。「ペンドゥラム」「アントニウス」「石」「記号」「打設」「せん断」私が港区の夜と昼で積み上げてきた、あの過剰で硬質な語彙のすべてが、一瞬で無意味な瓦礫としてアスファルトに散らばった。



私は、私に成れた。



 周囲には、私の肉体の曲率をスキャンするオクタヴィアヌスもいなければ、ペンドゥラムのサイズをミリ単位で測定する五人の局員もいない。他者という鏡は、この暗闇において完全に消失していた。私は、他者に私を認識させるためにここに立っているのではない。他者の承認という欺瞞の沼をすべて解体した果てに、ただ私が私であることを私自身に証明するために、この何もない夜という圧倒的な私的空間を自作自演しているのだ。冷たい夜風が、剥き出しの皮膚の分子振動を激しく揺らす。石畳ではなく、ひび割れた粗悪なコンクリートが足裏から急速に熱を奪っていく。だが、私はその微小な環境変化を、ただの物質の対話として静かに受け入れていた。私は両手を上方へリフトアップした。誰に見せるためでもない、ただ自らの引張強度をこの世界の夜の重力に対して宣言するための、反復不能のポーズ。筋肉が最大表面積を記録し、ペンドゥラムが暗闇の中で静かにその定数を確定させる。私はオクタヴィアヌスの柱でも、カエサル級の支配者でもない。社会システムという名の巨大な入子状の彫刻から、完全に指先をすり抜けた、単一の構造体。都市の喧騒が遠くでかすかに響いている。あちら側の世界では、今夜も無数の英雄達が衣服という名の記号を競い合い、中身の空洞な言葉をセリフのように垂れ流し続けているのだろう。



 だが、この名もない港に満ちる静寂のなかで、私は確かに、本物の「石」になっていた。変化せず、摩耗せず、ただそこに存在するだけの、純粋な物質。人目を盗んだ暗闇のなかで、頑なな硬度を保ったまま、私は静かに、自己の輪郭を夜の虚空へと打設し続けていた。




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