第16話 灰かぶり姫の帰還と謎の男リチャード
森から悪意が消えた。
わがままボディの美少女をドナドナしていた「七人の媚人」は隣国で乳搾りの刑に処され、長年のパートナーを捨てて若い美少女を欲した「エロ狼」はマグロ漁船の船員になった。そして呪いを撒き散らしていた「いばら姫の成れの果て」は、穏やかな魔女となった。
森は今、かつてないほどの清々しい静寂に満たされていた。
朝日が差し込む木々の中を、一人の男が歩いていた。
その背丈は高く、身に纏った狩猟服の上からでも、無駄な脂肪が一切ない、鋼のように研ぎ澄まされた筋肉のラインが読み取れる。
「ジョンソン、どうした?」
低く、心地よく響く男の声に応えたのは、一匹の大型の猟犬だった。
ジョンソンと呼ばれた犬は、何かに取り憑かれたように猛烈に土を掘り返している。やがて、湿った土の中からギラリと不自然な輝きが放たれた。
掘り出されたのは、等身大の「黄金のエドワード王子像」の、ちょうど顔の部分であった。
エドワード王子からプレゼントされた、はた迷惑なその黄金像を、アシュリンは「視界の邪魔」という理由でこの森に深く埋葬したのである。
よく考えればこの黄金像を掘り返して、壊した魔女の鏡の修理代に当てればよかったのだが、すっかり埋めた本人も記憶の彼方だったのだ。彼女の脳内メモリは、トレーニングのメニューとタンパク質の摂取計算で常に使い切られている。
「……ん? これはエドワードが特注で作らせたというあの趣味の悪い噴水像じゃないか。なぜこんな場所に埋まっているんだ?」
ジョンソンは「お手柄だろう」と言わんばかりに、誇らしげに男の足元に鎮座し、バタバタと尾を振った。男は大きな手で愛犬の頭を優しく撫でる。
「わかった、わかった。よく見つけたな、ジョンソン。……それにしても、エドワードも懲りない馬鹿だな。またろくでもない女に引っかかっているようだ」
男は黄金の像を一瞥すると、興味を失ったように視線を森の奥へと戻した。
彼が身に纏う狩猟服は実用的だが、その仕立ての良さと、何より彼自身が放つ圧倒的な気品は、ただの狩人ではないことを物語っている。
手入れの行き届いた漆黒の短髪を風に揺らし、男は深い森のような緑の瞳を細めた。
「行こうか、ジョンソン。……今日は、珍しい獲物に会えそうな気がする」
男が歩き出すと、森の精霊たちがざわめくように風が吹いた。
男の名前は――リチャード・ブラックウッド。
アシュリンと彼が相見える日は、そう遠くはなかった。
一方その頃、アシュリンが不在のルーカス邸は、かつてない平和に包まれていた。
義母のレティシアは、テラスで優雅に紅茶を啜っていた。以前はアシュリンのスクワットの振動でカップの紅茶が常に波打っていたが、今は鏡のように静かだ。
義姉のセシリアとベアトリスも、パックをしながらソファでくつろいでいる。
「本当よ、お母様。エドワード王子のあの重たい噴水像を担いで消えてから数週間……。戻ってこないということは、きっとマモノにでも食べられてしまったのね」
「あるいは、あまりの重さに潰れて森の肥やしになったか……。どちらにせよ、私たちの精神が癒える天国のような日々が続くのね」
アシュリンがどうなったかなど、彼女たちにはどうでもよかった。
実父のルーカス伯爵が領地の仕事で長期不在なのをいいことに、彼女たちはアシュリンの捜索など露ほども考えず、ただこの「静寂」を貪っていたのである。
ドォォォォン!!
それは彼女たちの束の間の平和を脅かす不穏な騒音であった。
「ただいま戻りましたわ! 皆様、お元気そうで何よりです!」
明るい声と共に、屋敷の重厚な門扉を強引に押し開けて入ってきたアシュリンを見た瞬間、レティシアは紅茶のカップを落として粉砕し、セシリアとベアトリスはソファから転げ落ちた。
「ひ、ひぃぃぃぃっ! 出たわ、筋肉モンスター!」
「夢よ! これはきっと何かの間違いだわ!」
絶叫する義母たちを余所に、アシュリンは爽やかな汗を拭いながらリビングへと踏み込んできた。
「森でのトレーニングは最高でしたわ。おかげで広背筋がさらに一回り育ちましたの。ですが……」
アシュリンはぐう、と雷のような腹の虫を鳴らした。
「さすがにお腹が空きましたわ」
と言って、彼女はドカドカとキッチンへ向かった。その瞬間、レティシアの顔から血の気が引いた。
「待ちなさいアシュリン! 料理なら料理人に……」
「いいえ、お気遣いなく! このところ料理することを怠けていたので……ちゃんとやらなければ。シンシアス様は家事が得意な女性がお好きなんですもの、頑張りますわ」
数分後。キッチンからは、およそ調理場からは聞こえてこないはずの「破壊音」が響き始めた。
「まず、鶏肉の筋切りですわね!」
ドゴン! バキィッ!
包丁の背で肉を叩く音が、まるで岩石を砕くハンマーのような衝撃波となって響く。アシュリンが力を入れすぎたせいで、まな板は真っ二つに割れ、大理石の調理台にはヒビが入った。
「続いて、栄養たっぷりの根菜類をカットしますわ!」
シュバババババッ!
高速で振り下ろされる包丁の風圧だけで、近くに置いてあったカーテンが切り刻まれていく。本人は「丁寧な千切り」のつもりだが、周囲はもはや暴風域である。
「仕上げは、高タンパクな卵料理ですわ! 殻を割る力加減が少し難しいですわね……」
グシャァッ!
アシュリンが指先に少し力を込めただけで、卵はボウルの中で「粉砕」され、殻も身も混ざり合った謎の液体へと変貌した。それどころか、ボウルそのものが彼女の握力に耐えきれず、メキメキと歪んでいる。
「……あ、少し火力が足りませんわね。一気に加熱しますわ!」
アシュリンは巨大な薪を素手でへし折り、コンロに無理やり詰め込んだ。途端に立ち上る猛烈な火柱。キッチンは一瞬にしてサウナ状態となり、邸宅全体に焦げ臭い匂いと、謎のプロテインパウダーが舞い散る。
「できましたわ! アシュリン特製・高密度プロテイン肉塊ソテーです!」
差し出されたのは、もはや料理というよりは「焦げた炭の塊が、歪んだ鉄板の上に乗っている何か」であった。
キッチンは戦場跡のようになり、壁には謎の肉片が飛び散り、天井には煤がこびりついている。
「さぁ、皆様も召し上がれ! これでバルクアップ間違いなしですわ!」
満面の笑みで「肉塊」を差し出すアシュリンを前に、レティシアたちは抱き合って震えることしかできなかった。数週間の平和。それは、これから始まる「さらなる破壊の日々」への、あまりにも短い猶予期間に過ぎなかったのだ。
「ふふ、これでシンシアス様好みの『爆乳』に、また一歩近づきましたわ……!」
アシュリンは、はち切れんばかりの大胸筋を誇らしげに膨らませ、一人満足げに頷いた。
彼女の脳内では、「盛り上がった筋肉の厚み」こそが、全人類のオスを虜にする「至高の爆乳」であるというマッスルな等式が、完璧に成立していた。
愛ゆえに、さらなる高み(筋肉)を目指して突き進むアシュリン。
その凄まじい勘違いが、シンシアスの小屋で「本物の暴力」を前に崩れ去る瞬間が刻一刻と近づいていることを、彼女はまだ、微塵も知る由がなかったのである。




