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第六十話 桔梗の末路

藤黄老(とうおうろう)!」


 僕は思わず叫んだ。僕の腕の中の黒猫もシャーッと叫び、めいっぱいに毛を逆立てている。


 けれど同時に、僕たちは気付いていた。この世界において自分たちがいかに無力かということを、嫌というほど思い知らされていた。


 この話の結末は決まっている。


 目の前で繰り広げられている一部始終は過去の出来事であり、それを僕が変えることはできないのだ。


 でも、ここで藤黄老が倒れてしまったら、鬼となった桔梗(ききょう)はどうなるのだろう。そして、狩森神社はどうなってしまうのだろう。


 いざや桜が燃えたことで織部(おりべ)さんは鬼に喰われ、他の巫覡(ふげき)も多くが負傷したり、命を落とした。今も御霊(みたま)の丘の下では多くの鬼の魂が人を喰らい、巫覡たちが必死でそれに抗っている。


 今でさえこのような悲惨な有様なのだ。おそらく狩森神社の長期的な戦力低下は免れない。


 ましてや、再び鬼を調伏することができるようになるまでには、多くの時を必要とするだろう。


 こんな状況で誰が桔梗の暴走を止められるというのか。最悪の場合、桔梗は鬼となったまま逃亡し、おびただしい被害を出し続けるのでは。


 僕がそう危惧する間も、事態は容赦なく進行する。


 今や、振り下ろされた桔梗の爪は、藤黄老の喉元に突き刺さろうとしていた。いくら自分とは縁もゆかりもない相手とはいえ、さすがに八つ裂きにされるのを直視する勇気はない。


 僕はぎゅっと目を瞑り、黒猫をきつく抱きしめる。


 その瞬間、空を切り裂く鋭い音が響き渡った。


 はっとして目を開ける。


 すると、藤黄老はまだ死んでいなかった。それどころか、何故か桔梗の動きが止まっている。


 よく見ると、彼女の胸元……心臓の辺りに何か突き刺さっているではないか。先端に三枚の羽根がついた細い棒のようなもの。あれは矢だ。


「矢……? 一体どこから?」


 僕の腕の中にいる黒猫は、その露草(つゆくさ)色の瞳を桔梗や藤黄老のいる方向とは反対側に向けた。それにつられ、僕も背後を振り返る。


 そこには茜音(あかね)さんがいた。


 狩森神社の建物の屋根に立ち、弓に矢をつがえ、その矛先をまっすぐ桔梗に向けている。


 その姿を見て、僕は茜音さんがどこに行っていたのかを悟った。茜音さんは修練場に弓と矢を取りに行っていたのだ。


 もしかしたら、彼女は他の誰よりも早く、桔梗がいざや桜に火をつけた犯人であることに気づいたのかもしれない。茜音さんと桔梗はただの同僚ではなく、互いに親友と認め合うほどの仲だった。それ故に、他の誰より互いのことを理解していたのだ。


 桔梗も茜音さんの存在に気づいた。


 さすがにこの展開は予想していなかったのか、その顔には動揺が見られる。


「あか……ね……? どう……し……て……」


 茜音さんは唇を引き結んだまま、それに答えない。ただ、弓を引くその手は決して緩めなかった。


 それを目にした桔梗は、徐々に怒りをあらわにする。


「どうしてなの、茜音……。あなたも、私を理解してはくれないの? あなたまで私を追い詰め、そして塵芥(ちりあくた)を捨てるみたいに切り捨てるの!?」


 桔梗の黒い(もや)に包まれた体がぶわりと膨らんだ。


 その姿はもはや完全に人のそれではない。人だった頃の彼女を知る者がその姿を見たら大きな衝撃を受け、そして激しく狼狽えただろう。それほどおぞましく、そしてあまりにも悲しい姿だった。


 けれど、茜音さんは迷わなかった。


 桔梗に向かってつがえていた矢を放つと、さらに背中に担いだ矢筒に手を伸ばし、三番目、四番目の矢を射っていく。


 五本目の矢が桔梗の胸を刺し貫いた時、とうとう彼女の体は耐えきれず、縮小を始めた。桔梗はまだ完全に鬼になりきっていなかったのだ。そのため、辛うじて弓箭が通用したのだろう。


 元の大きさに戻った桔梗は、五本もの矢をその身に浴び、立っているのもやっとといった様子だ。


 それでも茜音さんに向かって手を伸ばす。その姿を求めるように。


「あ、か……ね……。あなただけは……私を裏切らないと……信じて、いたのに……!」


 茜音さんはそれにも答えなかった。ただ、大粒の涙がその頬を滴り落ちていく。


 茜音さんは泣いていた。どんなに辛い目に遭っても、どんなに努力が実のらず悔しい思いをしても、決して人前で愚痴や泣き言を口にしなかった茜音さんが、いまこの時は、はらはらと涙をこぼしていた。


 茜音さんだって本当は桔梗を手にかけたくなかったに違いない。両親は既に他界し、兄までもが鬼神(オニガミ)になってしまった。茜音さんに残されたのは、姉妹同然に生きてきた桔梗だけなのだから。でも、桔梗を止めるには自分しかいない、その一心で茜音さんは弓矢を取りに戻ったのだ。


 それに二人は、以前、御霊の丘で約束を交わしている。


 ――ねえ……茜音、もし私が鬼になったら、茜音はどうする?


 ――その時は……私は私のすべきことをするわ。私は巫覡にはなれなかったけれど、それでも巫覡としての生き方を全うしたいと思っているから。……母様とそう誓ったから。


 ――……。そう……その言葉、忘れないでね。


 茜音さんは最後まで自分が巫覡であることを選んだのだろう。それがお母さんと交わした、何よりも大切な誓いだったから。


 そう、茜音さんは巫覡なのだ。だからこそ、鬼となった親友を自ら調伏(ちょうぶく)しなければと考えた。


 鬼となった桔梗に、これ以上、罪を重ねさせるわけにはいかない。たとえこの手が罪で穢れることになっても。


 それが、茜音さんが茜音さんである所以であり、彼女の優しさでもあるのだ。


 桔梗もそれに気づいたようだった。茜音さんの零す涙と、そこに込められた思いに。


「茜音……ごめん。ごめんね……」


 桔梗もまた、一筋の涙を流す。


「ありがとう……」


 そう言い残し、桔梗はゆっくりと後ろに倒れ込んだ。


 その直後、倒れた彼女の上に燃え盛ったいざや桜の枝が轟音を立てながら落ちてくる。


 あたりは大きな炎に包まれ、その勢いはどんどん強まっていく。


 やがていざや桜も桔梗も、全てが火の海に吞まれていったのだった。


 茜音さんはいつまでもそれを見つめていた。


 それから再び僕の視界は真っ白に染まる。そして次に気付いた時には別の場所に移動していた。


 そこはまたもや神社の屋内だ。薄暗い、板張りの室内には畳が敷いてあるスペースがあり、そこに何人かの神職の格好をした中高年が集まって話し合いをしている。他の神職より明らかに豪華な服装を身にまとい、身分も高いと察せられる人たち。狩森神社をまとめる重鎮たちだ。


 ただ、以前よりずいぶんと人数が少ない。いざや桜が燃えた際、桜の中に封じられていた鬼神(オニガミ)の魂が現世に溢れ出した。その犠牲になってしまったのかもしれない。


 集まっている人々の中には藤黄老(とうおうろう)の姿もあった。満身創痍で、全身を白い布や包帯で覆っているが、話し合いに参加する元気はあるようだ。


「藤黄老……生きていたのか……!」


 ほっとした拍子に腕の力が緩んだ。すると、僕が抱き上げていた黒猫が腕の中から脱出し、音もなく床に降り立つ。そして最初に前足を、次に後ろ脚を順に伸ばす。


 あまりにも衝撃的な光景の連続に、僕は我知らず黒猫を抱く腕に力を込めてしまっていた。露草色の瞳をした黒猫はよほど窮屈な思いをしたのだろう。  


「ごめんな、かなりきつく抱きしめちゃったもんな」


 黒猫の背中を撫でようと手を伸ばす。ところが、黒猫はするりとそれをかわし、逃げてしまった。そして心なしか距離を感じる視線を僕に向ける。すっかりご機嫌ナナメのようだ。


「ごめん、ごめんってば。この通り謝るからさ。そんなに怒るなよ」


 しかし、そんな僕の謝罪の言葉を無視し、黒猫は毛づくろいを始めるのだった。どうしていいか分からず、僕は困り果てるばかりだ。


 そうこうしていると、重鎮たちがひそひそと囁き交わす声が聞こえてくる。


「やれやれ……どうしたものか」


「困ったことになったものよのう」


「まさか、いざや桜が燃えてしまうとは……」


「全焼はどうにか免れたが、いざや桜の霊威が大幅に削がれてしまったのは間違いない。特に〈鬼神(きしん)の法〉についてはこれまでのようにはいかぬだろうな」


「何と言っても最大の問題は、これまでいざや桜が封じておった幾千幾万もの鬼神(オニガミ)の魂が世に解き放たれ、散り散りになってしまったことだ」


「それだけではない。いざや桜はこれまで、〈()〉と化した幾多の魂を浄化し、あるべきところへ還す役割を負ってきた。なればこそ、我らも鬼神(オニガミ)を生み出すことができたのだ。人を人為的に鬼にするということには副作用も伴う。それをいざや桜が緩和してくれていたからこそ、禁忌とされてきた術にも手を出すことができた」


「だが、これからは今までのようにはいかん。まず着手すべきは、先だっての後始末だ。世に散っていった鬼神(オニガミ)の魂がどこへ行ったか、その行方を捜索するところから始めなければならんな」


「事はそう簡単ではない。ただでさえ、いざや桜が燃えた際に起きた混乱のせいで、巫覡や鬼神(オニガミ)の数が激減している。今後数年、我らは深刻な戦力不足に直面することになるだろう。ましてや、行方も知れぬ鬼神(オニガミ)の魂を探し出すなど……とても現実的だとは思えんな」


「それに、これほど多くの巫覡や鬼神(オニガミ)を一度に失ったことは、これまでの狩森の歴史でもなかったことだ。再興を目指したところで、果たしてそれが叶うかどうか……。いずれにせよ、いばらの道になるのは間違いないであろうな」


 重鎮たちの表情はみな険しかった。一言も発しなかったが、藤黄老の眉間にも深い皺が刻まれている。御神体であるいざや桜が失われてしまったことで、狩森神社はたちまち立ち行かなくなってしまったのだ。


(以前、茜音さんはこういった状況になることを心配していた。もし何らかの理由でいざや桜が失われてしまったら、狩森神社はどうなってしまうんだろうって。それが現実になってしまったんだ)


 とはいえ、僕の感覚からすると、こうなるのはある意味、当然の結果なのではないかと思う。誰かに負担や犠牲を押し付けて成り立つ社会は、内に抱えたその大きな歪みゆえにいつかは崩壊するものだと思うからだ。


 でも、当事者はそんな呑気なことを言ってはいられない。藤黄老や他の重鎮の顔には、どれも苦悩が滲んでおり、頭を抱える者や腕組みをする者、すっかり呆然自失として空を仰ぐしかない者もいた。


 みなが万策尽き、途方に暮れるしかないのだ。


 そんな中、突如として部屋の扉が開け放たれた。薄暗い部屋に、さっと日の光が差し込んでくる。その光の中心に、誰かが立っている。


「あれは……茜音さん……?」


 茜音さんはいつもの巫女装束をまとっていた。けれど、その表情はこれまで僕が見たこともないほど厳しく、殺伐とさえしていた。集まった重鎮たちもそれに気づく。


「茜音……?」


「一体、何をしに来た」


「ここで何をしている? お前を呼んだ覚えはないぞ」


「この部屋は許可を得た者しか立ち入ってはならぬ決まりだ。分かっているだろう?」


 重鎮たちの表情や口調はどれも剣呑なものばかりで、不快感を隠そうともしない。そもそも、おそらくこの部屋は一定の身分を持った者しか足を踏み入れてはならない場所なのだ。


 けれど茜音さんはそれに全く怯まなかった。落ち着いた仕草で部屋の中に入ると、重鎮たちの集まる畳の前で正座する。


「大変僭越ながら、皆さま方のご意見を拝聴しておりました。どうか、各地に散っていった狩森の鬼神(おに)の魂を取り戻すために、この私の(からだ)をお使いください」


「何……?」


「一体どういうことだ」


「私が亡き桔梗の代わりに〈鬼神の法〉を受け、新たな鬼神(オニガミ)となります。それで狩森神社の戦力不足も多少は改善されましょう。ですから必ずや、かつて鬼神(オニガミ)となって狩森を支えてきた同胞たちの魂を救って欲しいのです」


 そう訴えると、茜音さんは床に手を突き、深々と頭を下げた。


「茜音さん……!」


 茜音さんがこの場に現れた時から、何か途轍もない覚悟を決めたのだろうと予想はしていた。でも、まさか茜音さんが狩森神社のため、自ら鬼神(オニガミ)になると言い出すなんて。


 重鎮たちも茜音さんの発言に大きくどよめく。


「これから〈鬼神の法〉を……? 馬鹿な!」


「我々の話を聞いていたなら、お前にも分かるはずだ。いざや桜が燃えた今、その加護を十分に得ることは難しいのだぞ。ましてや〈鬼神の法〉など、正気の沙汰ではない! 下手をすると鬼神(オニガミ)にすらなれず、ただの無駄死に終わりかねぬ……!」


 みな、茜音さんの考えには否定的だ。けれど茜音さんは頭を下げたまま、なおも訴える。


「それは百も承知でございます。なれど、狩森神社最大の危機とも言うべきこの状況の中、私も何がしかの役に立ちたいのです」


「茜音……」


 藤黄老は目を見張った。茜音さんが本気であることを察したのだろう。けれど他の重鎮たちの反応は冷ややかなものばかりだった。


「ふん……笑わせるな。巫覡にもなれなかった半端者のお前に何ができる?」


御霊(みたま)の丘の()()の分際で神社の方針に口を出すものではないわ! まずは混乱した神社の立て直しを優先する。でなければ、どうにもならん。他は全て後回しよ」


 重鎮たちは言語道断とばかりに、口々にそう吐き捨てる。彼らに比べれば、茜音さんは相当な若輩者だ。おまけに、巫覡になるには言霊の才が足りなかった、半端者。その茜音さんが意見をするのが気に食わないのだろう。


 すると茜音さんはすっと顔を上げ、冷徹な瞳を重鎮たちに向けた。そこにはぞくりと背中が粟立つほどの鋭利な光が宿っていた。


「それでは、世に散っていった狩森の鬼神(おに)たちはどうなさるおつもりなのですか。あなた方は彼らが無辜(むこ)の人々襲い、罪を重ねるのをただ黙って見ているのですか。それはあまりにも無責任というものです。狩森の鬼神(おに)を制御できるのは狩森の巫覡だけ……だからこそ、そこから目を背けるべきではないと私は考えています」


「何ィ!?」


「黙って聞いておれば……調子に乗るな、小娘が!」 


 藤黄老を除き、重鎮たちは怒りをあらわにした。中には立ち上がって茜音さんを指差し、罵倒する者さえいた。しかし、茜音さんは動じることなく、凄みのある目で彼らを見つめ返す。


「それに……いざや桜の封印から解き放たれ世に散っていった鬼神(オニガミ)の中には、私の母の魂も含まれています。そしておそらく、〈鬼神の法〉を受けたものの鬼神(オニガミ)となることなくこの世を去った父の魂も。

 私の両親だけではありません。〈鬼神の法〉を受け、鬼神(おに)となった者のほとんどが狩森の者たちです。彼らはみな、狩森家のため、家族のために鬼神(オニガミ)になることを受け入れ、その魂が〈()〉に染まりきるその時まで私たちに尽くしてくれました。それなのに、今度は約束された眠りからたたき起こされ、狩森家にさえ見捨てられてただ世に徒なす悪鬼に成り下がろうとしているのです。

 私は……私は自分の父や母がそのような目に遭うなんてとても耐えられません。ですから、父や母の名誉のためにも狩森の鬼神(おに)を呼び戻し、再び彼らの魂に安寧をもたらす仕事にこの身を捧げたいのです」


 熱のこもったその言葉を聞き、重鎮たちはみな押し黙ってしまった。反論できる者は一人としていない。


 そこから僕は悟る。彼らもまた、多かれ少なかれ〈鬼神の法〉によって身内が鬼神(おに)になったり、死んでしまったりという経験をしているのだということを。


 不当な手段でいざや桜から解き放たれ、世に散ってしまった鬼神(オニガミ)の魂を野放しにすべきではない。重鎮たちもそれは重々承知しているのだ。


 重々しい沈黙が広がる中、藤黄老が口を開いた。


「確かに、いざや桜は燃えてしまったが、(あかつき)の石室と黄昏(たそがれ)の石室はどちらも無傷で残った。いざや桜も完全に霊威を失ったというわけではない。今ならまだ、〈鬼神の法〉も行えなくはないだろう」


「藤黄老! しかし……!」


「だが、〈鬼神の法〉の成功率は間違いなく下がる。先ほども誰かが言ったが、苦しむだけ苦しんで無駄死にする可能性も十分にある。茜音よ、それでも構わぬか? たとえ無為にその命を散らすことになっても……それでも〈鬼神の法〉を受ける覚悟があるか?」


 すると、茜音さんは一寸の躊躇いなく、きっぱりと断言した。


「もちろんです。元より、そのつもりでいました。このままでは狩森は座してただ死を待つのみとなってしまう。そうであるなら、無理を押してでも動くべきです。少しでも生き残る可能性が高い方へ……!」


「良かろう。それでは〈鬼神の法〉を行うこととしよう」


 藤黄老の言葉に、茜音さんは一瞬、顔を輝かせ、そして大きくうなずいた。


 しかし他の重鎮たちは納得しない。立ち上がる藤黄老に対して、一斉に非難の言葉を浴びせかける。


「私は反対です、藤黄老! 考え直すべきです!」


「私もいま〈鬼神の法〉を行うのには反対です! ただでさえ狩森神社は混乱のさなかにある……そんな中で強行した〈鬼神の法〉が失敗でもすれば、皆の失望は計り知れないものとなりましょう!」


 すると、藤黄老は重鎮たちの方を振り返り、ぎろりと睨んで言った。


「では、お主たちが自ら鬼神(オニガミ)となり、この茜音の代わりに四散していった我らが同胞の魂を探しに行くか?」


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