第五十四話 暁の石室
丘の内部に通じる通路はしばらく行くと階段になっており、僕はそれを一段ずつゆっくり下りていった。
何せ、通路の中は光源となるものがほとんどなく、自分の足元すらよく見えない。後ろの入り口から差し込んでくる光だけが頼りだった。
おまけに階段はかなり急なので、気を抜いて踏み外そうものなら、転がり落ちること間違いなしだ。
階段はかなり下まで続いており、何度も折り返しになっている。それを下りきると、通路は平坦になった。どうやら、最下層まで到達したらしい。そこから、人がどうにか二人並んで通れそうなほどの細い通路がまっすぐに続いている。
そこはもはや入り口からの光も届かず、真っ暗だったため、僕は壁に手をついて慎重に歩を進めていく。
その時、壁の手触りから気づいた。その通路が石造りではなく、手掘りの隧道であることに。
(本当に狩森図書館の地下みたいになってきたな……)
隧道の中はまさに真の暗闇。だんだん自分がどこにいるのか、どこへ向かっているのかも分からなくなってくる。何だか死者の世界……そう、黄泉の国にいるみたいだ。
やがて通路の奥に明かりが見えてくる。おそらく蘇芳さんや藤黄老はそこにいるのだろう。
僕はその明かりを目指して一心に歩を進めた。
すると、隧道の最奥には部屋が広がっていた。僕は露草色の瞳をした黒猫と共に、こわごわとその部屋に足を踏み入れた。
部屋の広さは十畳ほどで、天井は四メートル以上はあるだろうか。ただ、床から壁、天井に至るまで全て石造りであるため、高さはあってもどこか圧迫感がある。
しかも光源は部屋の入り口の両側に設けられている篝火だけ。非常に薄暗く、炎の揺れに合わせて影も揺らめくので、まるで部屋の隅に何かが潜んでいそうな薄気味悪さがあった。
その石でできた部屋……石室は簡素で、特別なものは何もない。だが、唯一、部屋の端に設置してあるものがあった。それは長方形をした石の塊で、人ひとりが横たわれそうなほどの大きさがある。
実際、それは石でできた棺、石棺だった。
石棺は本体と蓋に別れており、表面には文字らしきものや、儀式的な模様が刻まれている。それも含めて、この石室の雰囲気はどことなくエジプトのピラミッドの内部に似ている。
部屋の中心では蘇芳さんが、い草で編んだ円座の上に胡坐をかいて座っていた。上半身は裸で、下に袴を履いているのみだ。
その蘇芳さんの上半身に、先ほどの藤黄老が筆で何か文字のようなものを書いていく。おそらく、咒術的な効果を発揮すると見られる文字。書体が崩れすぎていて読めないが、禍々しさだけはよく伝わってくる。これも〈鬼神の法〉に必要なものなのだろう。
他の神職たちは咒言のようなものを唱えながら、藤黄老に墨の入った皿を差し出したり、藤黄老のサポートをしたりしている。
藤黄老は呟くようにして、蘇芳さんに語りかけた。
「蘇芳よ、おぬしも知っての通り、いざや桜は鬼神が生まれ、そして鬼神が還る場所だ。我が狩森神道において、いざや桜は全ての魂が生まれ、そしてあるべきところへ戻る場所であるとされているからだ。
とはいえ、人を生きながらにして鬼神とする〈鬼神の法〉は危険性の高い咒法であり、かつては禁忌の術として封じられていたこともあった。だが、今はそれも過去の話、我らにとって今やその選択はあり得ぬものだ。
世が複雑になるにつれてか、ここのところ鬼……特に人由来の鬼が増加している傾向が見られる。誰かがその鬼を祓わねばならない。狩森の巫覡の能力は今の世の中に強く求められているのだ。
とはいえ、鬼の調伏や浄化は巫覡にとっても負担が多い。したがって、我らには鬼神が必要なのだ。巫覡以上の力を持ち、必ず巫覡の言霊に従う鬼神が……な。全ては世のため、そして人のためだ。
より安全に、そしてより安定的に鬼神を生み出すため、いざや桜の下にあるこの御霊の丘の内部には、東の石室と西の石室が設けられておる。太陽の昇る東に座す石室は、鬼神が命を授けられこの世に生を受ける場所、すなわち暁の石室。逆に太陽の沈む西に配置された石室は鬼神の命が尽き、いざや桜へと還る場所、すなわち黄昏の石室。
これから〈鬼神の法〉、つまり咒術的処置を施された巫覡は仮死状態となり、この暁の石室にある石棺に九十九日間、安置される。そこから甦った者だけが鬼神として生存し続けることができるのだ」
藤黄老は淡々と語りつつも、蘇芳さんの体に咒術を施す手は決して止めない。また、蘇芳さんや他の神職たちも藤黄老の話を聞いて驚いたり動揺したりする様子はない。藤黄老の話は狩森神社の神職たちにとっては既に周知の事実なのだろう。
藤黄老にしても、みなに教え諭してしるというよりも、いくつかある確認作業の一つを行っているだけという感じがする。
藤黄老はさらに蘇芳さんに続けた。
「もしお前が〈鬼神の法〉に耐え抜き、生き延びれば、どんな鬼も調伏することができる強い鬼神となれるだろう。だがもし、鬼神として生まれ変わることができたとしても、お前は大きな代償を払うことになる。
まず、咒法の影響により、人間であった頃の記憶は例外なくすべて失われる。また、人格や感情、知性といった人間の根本を成すものも、吹き飛んでしまう可能性が高い。つまり蘇芳、お前は鬼神となったその瞬間から、他の人間によって使役され、ただひたすら鬼を清め祓うだけの存在となるのだ。
……まあ、母親が鬼神となったお前は、そのあたりの事情はよく知っておるだろうがの」
そう言ってから藤黄老は、手にしていた筆を蘇芳さんの体から離し、他の神職の者に渡す。どうやら咒術的処置が終わったようだ。蘇芳さんの体は額から指先まで、びっしりと文字で埋め尽くされている。
「……これより、〈鬼神の法〉の最終段階に移る。蘇芳よ、何か言い残すことはないか?」
すると蘇芳さんはこの石室に入ってから初めて口を開いた。
「妹を……茜音のことを頼みます」
「案ずるな。あの娘は賢く、そして強い。必ず己の力で自らの逆境を跳ね返すだろう」
「ええ、私もそう信じています」
蘇芳さんは少しだけ笑った。きっと茜音さんのことを想っているのだろうと察せられる、温かい笑顔だった。
藤黄老も頷いた。
「よろしい。それでは、覚悟は良いか?」
「……はい」
藤黄老は補助役の神職から、真っ白い平盃を受け取ると、それを蘇芳さんに手渡す。そしてさらに、お神酒を入れる徳利のような形をした瓶子を受け取り、それを傾け、蘇芳さんが両手を添える白い平盃に注ぐ。
しかし、瓶子の中に入っていたのは酒ではなかった。何か、真っ黒くて、とろりとした液体だ。
色から察するに、藤黄老が蘇芳さんの体に咒法の文言を書き込むのに使っていた墨と同じものだろう。
藤黄老は蘇芳さんに言う。
「これは鬼神の血だ。これまで〈鬼神の法〉によって鬼神となった狩森の巫覡たちの血を少しずつ集め、特別な咒術を施したものだ。この血に触れた者は必ず鬼神になると言い伝えられてきた。人間にとっては命を奪われかねない劇薬だ」
(あれ? でも、これって……)
僕はその時、気づいた。〈鬼神の法〉に用いられているこの黒い液体が、茜音さんが怪談を原稿にしたためる際に用いているインク壺のインクに似ていることに。
黒い墨やインクは種類が豊富だから、絶対に間違いないとは言いきれない。でも、光の反射具合や微かなにおいが似ている気がするのだ。
何より、長く触れていると感覚がおかしくなってくるところがよく似ている。現に蘇芳さんの体に書かれた咒言を見つめていると、ゆらめく篝火の効果もあってか、文字が生き物のようにくねくねと動き出すような感じがする。
そういえば、茜音さんも言っていた。怪談の書き取りに使っているインクはとても危険なものだから、決して触らないようにして欲しい、と。
(あのインク壺の中のインクが危険なのは、鬼神の血に咒術をかけて生み出されたものだったから……?)
ことの真偽は、僕には分らない。ただ、この黒い液体が普通じゃないのは確かだ。
息を詰めて見つめていると、蘇芳さんは落ち着いた表情で鬼神の血が満たされた白平盃に両手を添え、それを胸元の高さまで掲げる。
僕はさすがにぎょっとした。
「まさか、あの黒い液体を……鬼神の血を飲むつもりなのか? 人にとって命を奪われかねない劇薬を……!」
すると、先ほどまで僕の足元で静かにしていた露草色の瞳をした黒猫が、急にそわそわし始めた。せわしなく僕の足元を行ったり来たりしている。
「どうしたんだ……? そうか、お前もきっと、この儀式が怖いんだな」
僕は黒猫の背中にそっと触れてみた。すると、何故だか手の平に毛の感触が返ってくる。この世界のものには触ることができないのに、この黒猫には触ることができるのだ。
そして、黒猫もまた僕に触れられていることに気づいている。その証拠に、黒猫は僕の手からするりと逃げてしまった。僕に触れられるのが嫌というよりは、蘇芳さんのことが気になって仕方ない様子だ。現に今にも蘇芳さんにとびかかっていきそうな気配を漂わせている。
何だかとても危なっかしい。とても放ってはおけなかった。
仕方がないので、僕は黒猫を抱き上げた。ふんわりとした毛並みの奥から、ほのかな温もりが伝わってくる。
黒猫は少し不満げな様子で最初は抵抗したけれど、すぐに僕の両腕に収まった。僕に抱き上げられるのが嫌だというよりは、やはり蘇芳さんのことが気になってたまらないらしい。その証拠に、その青色をした瞳は蘇芳さんに注がれたまま、片時も離れない。
僕と黒猫が固唾を飲んで見守る中、蘇芳さんは白平盃を勢いよくあおる。
そして、その中に注がれていた黒い液体を一気に飲み干した。
そして次の瞬間、早くも変化が現れる。
蘇芳さんはカッと目を見開くと、横に倒れ込み、痙攣を始めたのだ。
苦しげに歪められた口からほとばしるのは、獣のような唸り声。
同時に蘇芳さんは狂ったように石室の床をかきむしった。そのせいで爪は剥げ、血まみれのボロボロになってしまう。とても正気を保っているとは思えない、尋常ではない苦しみ方だ。
僕の腕の中にいる黒猫は、そんな蘇芳さんの姿を目にし、全身の毛を逆立ててシャーッと威嚇するような叫び声をあげた。そのさまは、まるで悲鳴を上げているようでもあった。
しかし、その悲痛な声も届かず、蘇芳さんは地獄の苦しみにのたうち回るのだった。
その身に記された咒文がやけに克明に浮き上がる。
まるで、獲物を締め付けて殺さんとする、無数の蛇のように。
僕も身を硬くし、もがき苦しむ蘇芳さんの姿を見つめるしかなかった。これほど苦しんでいる人に対して、何をしていいか分からない。もし何をすべきか分かっていたとしても、そもそも僕はこの世界に干渉することができない。
やがて蘇芳さんはぐったりとし、ぴくりとも動かなくなった。
それを見た藤黄老は、特に動揺した様子もなく、補助役の神職たちに指示を出す。
「石棺に運べ」
二人の神職たちもまた、このような事態に離れているらしく、ぴくりとも表情を動かさなかった。藤黄老に命じられた通り、力尽きた蘇芳さんを担いで石棺まで運び、仰向けに寝かせる。
蘇芳さんの顔色は土気色で呼吸もしていない。咒術によって仮死状態にさせられていることは理解していても、本当に死んでしまったのではないかと心配になってくる。
さらに二人の神職は蘇芳さんの横たわった石棺に同じく石でできた重そうな蓋を抱えてそれを被せた。
露草色の瞳をした黒猫は、僕の腕の中で蘇芳さんの体が収められた石棺の方へ身を乗り出しつつ、なおも毛を逆立てシャーッと威嚇する仕草を続けている。あまりにも暴れるので、抱きかかえているのが大変だ。
僕は必死に黒猫の背中をなでながら説得した。
「大丈夫、蘇芳さんならきっと〈鬼神の法〉を乗り越えられる。それを信じよう……!」
もっとも、本当に蘇芳さんが助かるかどうか、自信はなかった。
正直、〈鬼神の法〉がこれほど過酷で壮絶なものだとは思っていなかった。多くの狩森の巫覡たちがこの〈鬼神の法〉を受け、そして地獄の苦しみに耐えてきたのだ。
鬼を清め祓う、ただそれだけのために。
それを考えると、狩森の人々の執念と使命感に、ひたすら圧倒されるばかりだった。
〈鬼神の法〉が終わったのか、藤黄老と二人の神職はそれぞれ松明を手にし、石室の入り口に設けてあった篝火を消して部屋から去っていく。
石室の中は瞬く間に闇に包まれた。何も見えない。あの世かと思うほどの漆黒の世界。
腕の中にある黒猫の温もりだけが、自分が今、この世にいるのだということを思い出させてくれる。
ほどなくしてまた視界が真っ白に染まっていく。
次に目を開けた時、僕と黒猫は狩森神社に隣接された修練場の中にいた。
休憩中なのか、広場の中には誰もいない。ただ時おり、矢が的に当たるパスッという音が聞こえてくる。弓道場で茜音さんが一人、弓箭の練習をしているのだ。
茜音さんはいつものように巫女姿で修練に打ち込んでいるが、今はそれに加えてどこか張りつめているように見えた。
それに、いまいち集中できていないというか、心ここにあらずといった感じがする。その証拠に、茜音さんの放った矢はどれも中心部から逸れてしまっている。
茜音さんにしてはやけに調子が悪い。気のせいだろうか。
そこへ茜音さんと同じくらいの年齢をした少女が現れた。彼女は大きく肩を上下させており、ここまで全速力で走ってきたのだということが窺える。そして、茜音さんが弓道場にいるのに気づくと、再び三つ編みを揺らし、走り寄っていった。
確か桔梗という名の娘だ。
「茜音、御霊の丘にある暁の石室が解放されたよ! 蘇芳さんは生きてるって……ちゃんと石室の中から出てきたって!」
茜音さんは体をびくりとさせ、大きく目を見開いた。衝撃のあまりか、腕が小刻みに震えている。はずみで放った矢は、的を掠りもせずに地に突き刺さった。
桔梗はそんな茜音さんに寄り添うようにして声をかける。
「お兄さんのことが心配なんでしょう? 弓と矢は私が片付けておくから、今すぐ会いに行ってあげなよ」
(そういえば、藤黄老は〈鬼神の法〉を受けた者は九十九日間、石室の中にある石棺に安置されると言っていた。今日はその翌日、百日目なんだ!)
桔梗の様子から察するに、蘇芳さんの〈鬼神の法〉は成功したらしい。蘇芳さんは辛く過酷な咒術に耐え、生き延びたのだ。
桔梗に声をかけられた茜音さんは緊張した様子を見せつつも頷く。
「……うん。桔梗、ありがとう……!」
茜音さんは手にしていた弓矢を桔梗に預けると、弾かれたように走り出した。彼女の赤い袴が大きく翻るが、それもお構いなしだ。
僕の腕に収まっていた黒猫も飛び下り、猛スピードで駆けって茜音さんを追う。
「ま、待ってよ! 置いて行かないでくれ!」
僕もまた茜音さんと黒猫を追った。二人ともすごい速さで走っていくので、気を緩めると見失ってしまいそうだった。
もっとも、二人の行き先はだいたい想像がつくけれど。
茜音さんと黒猫が向かったのは、狩森神社の本殿の裏にあるいざや桜だった。僕の考えていた通りだ。
春に見事な花を咲かせていたしだれ桜は、今は青くて瑞々しい葉を茂らせている。
いざや桜の下にある丘……御霊の丘の石段を駆け上がると、茜音さんの背中が見えた。露草色の瞳をした黒猫も一緒だ。
茜音さんは逸る気持ちを抑えられないのだろう、いつも落ち着いている彼女らしからぬ大声で叫んだ。
「兄さま、ご無事ですか!? 兄さま!!」
すると、いざや桜の下に藤黄老が立っていて、僕たちの方を振り返る。
その隣に立っていたのは真っ黒い人影だった。背の高さはちょうど百八十センチ手前くらいだろうか。ただ、全身がぼんやりしていて、はっきりと形が分からない。ただ、頭部と思しき場所には、一対の瞳が光を放っている。まるで獣のように。
その姿には見覚えがあった。以前、町中で暴れていた鬼の姿にそっくりなのだ。むしろ、指摘されなければ、それが蘇芳さんだとは気づかなかっただろう。
そう、目の前の蘇芳さんには、彼が本来持っていた特徴はどこにも残っていない。
鬼の姿と全く変わらない、異様な姿。人ですらない、完全に別の何かになってしまった蘇芳さんを目の当たりにして、僕はショックを隠しきれなかった。
「蘇芳さん……本当に鬼神になってしまったんだ……!」
僕でさえこれほど驚愕したのだ。茜音さんの受けた衝撃はいかばかりだろうか。
僕は呼吸をするのも忘れ、茜音さんの後ろ姿を見つめた。茜音さんも藤黄老のそばにいる黒い人の形をした影が蘇芳さんだと気付いたようだ。
「兄さま……!」
そう叫んで人影の元に駆け寄ろうとする。ところが、藤黄老がそれを阻んだ。
「茜音、それ以上、近づくでない」
「藤黄さま……!」
「この者はもはや蘇芳ではない。鬼神なのだ。お前のことなど全く覚えておらぬし、それどころか生きていた頃の記憶や感情、人格などの全てを失っておる。鬼神になるということは、そういうことなのだ。お前も狩森神社の巫覡として、それはよく理解しているであろう?」
「それは……でも……!」




