第五十五話 この世界
茜音さんは胸元で両手をぎゅっと握りしめる。
そんな茜音さんに、さらに藤黄老は冷然と突きつけた。
「それに茜音、お前は鬼を操るための言霊の才を持っておらぬ。そんな者が鬼神に近づいたらどうなるか。八つ裂きにされるのはまだ生易しい方で、過去には頭から喰われた者すらいたという。お前はもう、この鬼神には近づいてはならん。蘇芳が暁の石室に入ったその時から、お前とこの鬼神は赤の他人となったのだ。これからはそう心得るがよい。……分かったな?」
茜音さんは小さく肩を震わせていたが、やがて肺から絞り出すような声で答えた。
「分かりました。ただ、最後に一度だけ兄さまに声をかけさせてください」
藤黄老は頷く。
茜音さんは鬼神となった蘇芳さんに視線を向けた。少しでも私のことを覚えてはいないだろうか。そういった、縋りつくような視線だ。
しかし、蘇芳さんの反応はない。全く見知らぬ他人と接しているかのようだ。もっとも、今の蘇芳さんに人としての心があるかどうかも分からないが。
それでも茜音さんは蘇芳さんに語りかける。
「おかえりなさい、兄さま。よくぞ無事で戻られましたね。本当に……良かっ……」
しかし、茜音さんはその言葉を最後まで口にすることができなかった。途中で大粒の涙がぽろぽろと零れ出してしまったからだ。とうとう感情が抑えられなくなってしまったのだろう。紡がれるはずだった言葉はやがて嗚咽に変わっていく。
全身を震わせる茜音さんの姿は、僕の心を強く締め付けた。
せっかく蘇芳さんが生き延びたのに……『いざや桜の木のもとに君を待つ』という誓いを叶えたのに。再会を喜び合うこともできないなんて。
しかもその理由が、よりにもよってこれまでもさんざん茜音さんを苦しめてきた「言霊の才がない」というものだなんて。あまりにも残酷すぎる。
茜音さんの気持ちを考えると、僕はやりきれなかった。
(何て言うか……よく考えると僕と茜音さんは似ているな。僕は〈言霊の力〉を持つがゆえに、周囲にうまく馴染むことができなかった。一方の茜音さんは、言霊の才を持たないせいで辛い立場に置かれている。言霊に関する力があるかないかというだけで、僕と茜音さんは同じなんだ……!)
言霊に翻弄されているという点では、僕も茜音さんも変わらない。そう思えば思うほど、僕は茜音さんに感情移入してしまう。
茜音さんはいま、どれほど辛い思いをしているだろう。どれほど歯がゆく、悔しいだろう。
しかも茜音さんは、お父さんやお母さんも〈鬼神の法〉で亡くしているのだ。こんな形で家族が引き裂かれるなんて、間違っていると僕は思う。
いくら鬼を清め祓う役目を負った巫覡だからとはいえ、ここまで身を削り、犠牲を払わなければならないものなのだろうか。
どうして狩森神社はこんな非人道的な行いを良しとしているのか。
せっかく〈鬼神の法の試練を耐え抜いた蘇芳さんに、近づくことさえできないなんて。
茜音さんの置かれた立場を考えると、だんだん彼女の背負った運命に腹が立ってきた。そんな運命を平然と巫覡たちに押し付ける狩森神社に対しても、憤りが抑えられない。
だからこの神社は滅びの道を歩んだのだ。そう、日美谷の里やキナリ村のように。
そんなの、はっきり言って自業自得じゃないか。
けれど、どれだけ僕が腹を立てようと、現実は何も変わらない。蘇芳さんが元に戻ることは無いし、茜音さんが救われることもない。僕はこの過去の狩森神社にとって、ただの幻のようなものなのだから。
僕にできるのは目の前で起こることをただ見つめるだけの傍観者に徹することだけだ。
ただ、茜音さんが苦しみ悲しんでいるところを見つめるだけ。
しだれ桜の葉が風に揺られてさざめき合う。
樹齢二千年とも言われるこの桜は、連綿と続いてきたこの狩森神社の営みを全て見つめ続けてきたのだろう。
そして狩森神社の望むままに鬼神を生み出し、そして鬼神としての役割を果たし終えた哀れな魂を受けとめてきたのだろう。
そのことに思いを馳せると、改めていざや桜の偉大さを思い知らされると同時に、その無慈悲さを痛感する。
いざや桜は決して人の心を救わない。
ただ、あるように在るだけ。
この世の全ての現象がただありのままに存在しているに過ぎないのと同じように。
風に吹かれ、いざや桜の枝が揺れる音を聞いていると、少し冷静になってきた。そして、今まで気づかなかったいくつかの事実に意識が向く。
一つ目は、かつて蘇芳さんだった鬼神の瞳の色だ。今も爛々と輝く二つの眼。だが、その色は同じではない。
鬼神の瞳はオッドアイだった。
片方は煌めくような黄金色、そしてもう片方は夕焼け空のような深い紅色。
(蘇芳さんはもともと両目の色が違った。片方は普通のこげ茶だったけど、もう片方は少し色素が薄くて、黄色っぽい色に見えた。それと関係しているのかもしれないな)
しかし、金と紅のオッドアイとは、どこかで嫌になるほど見た組み合わせだ。
(そうだ、狩森図書館に棲みついている、あの生意気な黒猫の瞳にそっくりなんだ!)
確かに鬼神を含めた鬼のシルエットと狩森図書館の猫のそれはよく似ている。特に輪郭がぼんやりとしていて、はっきりとした形が分からないところなどはまさに瓜二つだ。
初めて狩森図書悪の黒猫を見た時には、毛深いため輪郭が曖昧なのかと思った。しかし、鬼神を見るとその正体が分かる。何か黒い靄のようなものが常に彼らの体を覆っているのだ。
ただ、図書館の黒猫と鬼神とでは違う部分もある。それは大きさだ。図書館の黒猫の全長はせいぜい五十センチほどしかないのに対し、鬼神化した蘇芳さんはもっと大きく、背丈は僕よりも高い。
とはいえ、その違いも些細なものである可能性はある。何故なら、僕は町で鬼が弱り、小型化するところを見ているからだ。
鬼は人間ではないので、特定の大きさでい続ける必要はないのかもしれない。
そもそも、人の姿そのものを既に失っているのだから。
(ひょっとして、狩森図書館に棲みついている黒猫って……?)
二つ目に気になるのは、先ほどから僕と行動を共にしている露草色の瞳をした黒猫の存在だ。
こちらの黒猫も毛がふさふさしているせいか、輪郭がぼんやりしている。その点では図書館にいるオッドアイの黒猫によく似ている。
でもこの黒猫は図書館の黒猫よりずっと穏やかで大人しい。本当に同じ猫かと思うほど性格が違う。人間と同じで、猫にもそれぞれ気質や性格があるのかもしれない。
(それにしても、この黒猫も鬼神や鬼とどことなく雰囲気が似ているな。猫に似た鬼……という可能性もあるんじゃないかな)
そう考えると、さすがに少し身構えてしまう。鬼神であろうと鬼であろうと、人にとって脅威であることに変わりはないだろうからだ。
(どうなんだろう? この黒猫は本当に猫なのだろうか。ひょっとして、僕に見鬼の才がないせいで、他の何かが黒猫のように見えているだけかもしれない……)
そう考えると、いろいろと自信が無くなってくる。
そもそも僕の見ている光景は、本当に狩森神社の過去なのか。僕が狩森神社のことを知りたいと思うあまり、生み出した幻ではないのか。幻にしてはやけに生々しいので、そうではないと思いたいけれど。
当の黒猫は僕の隣にちょこんと座り、じっと茜音さんや蘇芳さんを見つめていた。暁の石室にいた時のように興奮して毛を逆立てるなどということはないが、二人から片時も目を離さない。まるでこの光景を瞼に焼きつけようとしているかのようだった。
「お前は一体、何者なんだ? どうして僕のそばにいるんだよ? この世界の誰も僕の存在に気づいていないのに、どうしてお前には僕のことが見えるんだ?」
黒猫は答えない。
蘇芳さんと茜音さんを見つめるその背中はとても孤独で、どこか打ちひしがれているように見えた。
三つ目に気になっているのは、この世界はどこなのかということだ。
周囲の風景を考えると、僕が見ているのは狩森神社の過去に間違いないと思う。夢や幻にしてはずいぶんとリアルだし、現代の僕たちの世界との共通点も多い。
ただ、単に過去にタイムスリップしたとか、そういうことではないようだ。何故なら、僕はこの世界に全く干渉できず、起きた出来事を変えることもできないから。
だから、どちらかというと誰かの記憶を追体験していると表現した方が適切な気がする。
最初はてっきり、茜音さんの記憶を辿っているのかと思った。僕が茜音さんの肩に触れた瞬間、異変が起こったからだ。茜音さんに引っ張り込まれる感じがしたので、茜音さんの内面世界に取り込まれたのではないかと思っていた。
しかしそれだと、説明のつかない部分がある。
茜音さんは蘇芳さんが〈鬼神の法〉を受けた時、暁の石室には入らなかった。つまり、そこで何が行われたのかは知らないし、再現のしようもないはずなのだ。
けれど、蘇芳さんの儀式の様子は克明に伝わってきた。つまりこれは、もっと別の誰かの……あるいは何かの記憶なのではないか。
長い間、狩森神社と共にあり、狩森の巫覡たちのことを誰よりもそばで見守ってきた。
もしそんな存在がいるとしたら、それは……。
再び風が吹き、いざや桜の枝や葉がその身を揺らした。さわさわ、ざわざわと、さざ波のように絶え間なく聞こえてくる。葉擦れの音は、さながらいざや桜の息づかいのようでもある。
やがて再び視界が白光に染まった。
まぶしさに瞼を閉じ開いた瞬間には、僕たちは全く別の場所に移動していた。
そこは一見すると、のどかな山村だった。
一体、何故ここに移動させられたのだろう。
不思議に思って村の周りを歩いてみると、木々が開けていて、山のふもとを見下ろすことができる場所に出た。山の下には人里が広がっており、大きなしだれ桜を有した狩森神社もあった。狩森神社のある神御目町は北側に農村になっていて、さらに北上すると山が見える。僕たちは今、その山の中にいるのだ。
その、のんびりとした雰囲気の漂う山村の中心部で、何やら騒ぎが起きていた。響きわたる村人たちの悲鳴、何かが破壊される物音。今回も僕に同行している露草色の瞳をした黒猫が、真っ先にそちらへ駆けって行った。僕もそのあとを追う。
村の真ん中で対峙する黒い影が二つ。それを村人たちが遠巻きにして見つめている。
睨み合う影のうち、一つは体長三メートルもあろうかという、いかにも強そうな鬼だ。それに向かい合うのは、鬼より一回り小柄で、紅と金のオッドアイをした別の鬼。鬼神となった蘇芳さんだ。
その二体から少し離れたところに、四人の神職姿をした者たちの姿が立っている。男性は烏帽子を被り、女性は額当を当て、胴、籠手、臑当といった防具で身を固めている。
彼らの顔には見覚えがあった。狩森神社の巫覡たちだ。町中で鬼の調伏を行っていたのと同じ面々なので、記憶に残っていた。
そのうち三人は祓詞を唱えている。そして残る一人が蘇芳さんに命じた。
「黒緋、行け! 鬼の力を削ぎ、打ち負かせ!」
どうやら、蘇芳さんの新しい名は黒緋というらしい。
蘇芳さんに命令を下した男性巫覡は他の巫覡たちに比べて堂々としており、経験豊富であることが窺える。以前、町で鬼の調伏を行った際も、中心となっていた人物だった。彼が鬼神となった蘇芳さんの使役主なのだろう。
つまり彼には鬼に干渉する言霊の才があるのだ。その力で蘇芳さんが暴走しないよう、コントロールしている。
確かに男性巫覡の声は凛としてよく通る一方、何だか不思議な圧を感じる。命令されたら逆らえない凄みのようなものがあるのだ。
主の命令を受け、蘇芳さんは自分の倍はあろうかという大きさの鬼に飛びかかっていった。もちろん、相手の鬼もそれを察し、蘇芳さんに牙を剥く。両者の動きは俊敏で、かつ力強い。まるで大きな二匹の獣が互いの命をかけて死闘を繰り広げているようでもあった。
二体の鬼の実力は拮抗していて、互いに威嚇し合っていたかと思うと、素早く動いて有利なポジションを取ろうとする。またある時は爪や牙を使って、相手を引き裂いたり組み伏せたりする。組んず解れずの大乱闘でなかなか勝負がつかない。
それを見かねた巫覡たちも弓箭で援護する。前回は剣や棒を装備した巫覡もいたが、今回の鬼はあまりにも手強く、とても人間の敵う相手ではないので控えたのだろう。
一時間近くに及ぶ激闘の末、三メートル近くもあった鬼は徐々に小さくなっていき、やがて犬や猫ほどの大きさになる。
そこで蘇芳さんの使役主である男性巫覡が、丸い形をした神鏡を取り出した。
その鏡に反射した日の光が小型化した鬼を直撃。鬼は七転八倒して苦しむが、神聖な光の力には耐えきれない。鬼の全身を覆う黒い靄が日光によって吹き飛んでいく。
あとに残った魂は、神鏡の中に吸い込まれていった。
前回の調伏と比べ、今回はずいぶん時間がかかった。それだけ、今回の相手が手強かったということなのだろう。
そのせいか、狩森神社の巫覡たちも疲労が濃い。もし鬼神となった蘇芳さんがいなかったら、調伏できなかったかもしれない。
蘇芳さんの使役主は、蘇芳さんに対してねぎらうように声をかけた。
「黒緋、よく働いてくれたな。お前のおかげで鬼を清め祓うことができた。狩森神社に戻ったら、その傷を癒そう」
僕には見鬼の才がないせいか、蘇芳さんの姿はもやもやとした闇色をしていて、細かい部分はよく分からない。けれど、使役主である男性巫覡によると、どうやら怪我をしているようだ。あれほど激しい戦闘を行ったのだから無理もないだろう。
もっとも、蘇芳さんは使役主に声をかけられても何の反応もしない。一言も喋らないし、そもそも使役主の言葉を理解しているのかも分からない。
ただ、蘇芳さんが鬼神として立派に務めを果たしているのは見て取れた。その証拠に、蘇芳さんの使役主だけでなく、他の巫覡たちも蘇芳さんに信頼の眼差しを向けているように見える。
蘇芳さんが目覚ましい活躍をしているのを見て、本当に良かったと心から思う。蘇芳さんは〈鬼神の法〉という大きなリスクを冒して鬼神になった。だからその努力が報われて安心感が沸き上がってくる。
その一方で、茜音さんのことを考えると手放しで喜ぶことはできなかった。
茜音さんが今、この場に居合わせて調伏の一部始終を見たらどう思うだろう。言霊の才さえあれば、鬼神となった蘇芳さんの隣にいるのは自分だったはずなのに。茜音さんがそう考えても不思議ではないのではないか。
(そういえば、茜音さんの姿がないな。茜音さんは今どこで何をしているのだろう?)
しばらくして、狩森神社の巫覡たちはこの山村から引き上げることにしたらしい。僕もいつも通り、彼らのあとをついて行くことにした。露草色の瞳をした黒猫も一緒だ。
小一時間ほど山道を下っていくと、ようやく人里に出た。そこからさらに三十分ほど歩いて狩森神社に到着する。
狩森神社は再び春を迎えていた。御霊の丘の上に立つ巨大ないざや桜は満開で、しだれた枝に咲きほころぶ薄紅色に染まった花弁が零れ落ちるかのようだった。
蘇芳さんの使役主は狩森神社に到着すると、休息もそこそこに蘇芳さんを連れていざや桜の元へ向かう。
その途中、御霊の丘では何人かの神職が草抜きや掃除をしていた。
その中には茜音さんの姿もあった。
(茜音さん……!)
僕はどきりとする。よりにもよって、蘇芳さんが他の巫覡と一緒のところに出くわしてしまうなんて。
掃除をしていた神職の人々は、蘇芳さんやその使役主に気づくと、立ち上がって一礼をする。蘇芳さんたちは狩森神社の中で尊敬される立場にあるようだ。
茜音さんも蘇芳さんとその使役主に頭を下げた。けれど全く表情を動かさないし、蘇芳さんの方を見もしない。まるで完全に赤の他人になったかのようだ。
茜音さんの立場を考えれば、そうせざるを得ないのは分かる。茜音さんは言霊の才がないため、鬼に干渉する術を持たない。だから鬼神に近づくことは大きな危険を伴うのだ。
でも、二人は家族なのに。
本当なら、茜音さんもお兄さんの帰りを喜びたいだろうに。
狩森神社の巫覡はそういった人として当たり前の感情を抱くことすら許されないのだろうか。
僕は蘇芳さんと茜音さんを交互に見つめた。ところが、二人は別々の方向に移動していく。蘇芳さんは使役主である男性巫覡とともに、丘の上にあるいざや桜の方へ、一方、茜音さんは他の神職たちと共に御霊の丘を下っていく。
どちらについて行くべきか悩む僕をよそに、露草色の瞳をした黒猫は茜音さんのあとを追う。
そこで僕も茜音さんを追いかけることにした。




