第五十二話 狩森神社といざや桜
そこはどこかの町中のようだった。
ただ、町中と言っても明らかに現代ではない。家はどれも木造で、鉄筋の建物はもちろん電信柱さえない。そもそも三階以上の建物がほとんどないくらいだ。
町中を行き交う人々もほとんどが着物で、まるで時代劇や歴史ドラマの世界に入り込んでしまったかのようだった。
そんな木造の家々が立ち並ぶ一角で、騒ぎが起きている。
そちらの方に足を向けてみると、神職の格好をした五人ほどの巫覡とみられる集団が何かを取り囲んでいた。
もっとも、巫覡とはいえ、服装の一部を武装している。男性は頭に烏帽子を被り、女性は額当を当て、そして胴や籠手、臑当などの防具を用いている。
彼らは何をしているのだろう。武装しなければならないほどの事態とは何なのか。僕は周囲の野次馬たちに交じって、巫覡たちが囲んでいるものを覗き込む。
それは影だった。
あちこち破壊された民家の庭先、そこで何だかよく分からないが黒くぼやけた影みたいなものが暴れ回っている。人のようにも、動物のようにも見える、奇妙な姿をした影だ。
顔と思しき場所には一対の獣のようにギラギラと光る瞳。そして、口元とみられる部分は大きく開かれ、巫覡たちの方を威嚇しているように見える。
「あれは……?」
心なしか、神御目市立図書館に出現した気味の悪い人影たちに似ているような気もする。考え過ぎだろうか。
眉根を寄せていると、周りの野次馬たちがひそひそと囁き交わす声が聞こえてきた。
「何だい、ありゃあ?」
「鬼だってよ」
「しーっ! 狩森神社の巫覡さまが鬼を祓ってくださっているんだ。騒ぐんじゃないよ!」
「鬼……? あれが……」
僕は改めて鬼の方に視線を向けた。
やはりと言うべきか、イメージの中にある鬼とは全然違う。頭に角は生えていないし、虎皮のパンツもはいていない。もちろん、金棒も持っていない。
全身が黒いのは分かるが、輪郭がもやもやとしていて何だかよく分からない。遠目で見ると、ふさふさした黒い毛をまとっているようにも見えてくる。
「どうしてあんなに姿がぼんやりしているんだろう。ひょっとして、僕に見鬼の才とかいう力が無いからかな。だから、毛むくじゃらの黒い塊にしか見えないのかも……」
周りの人々がみな着物をまとっている中、ひとりパーカーとパンツという出で立ちの僕は、はっきり言って鬼よりよほど目立っているし浮いている。でも、誰も僕に不審な目を向けない。先ほどと同じで、この世界の人々には僕の姿が見えていないのだろう。
(ここはどこなんだろう? 町並みといい、人々の服装といい、過去の時代のどこかだとは思うけど……時代的には多分、明治とか大正の辺りかな。タイムスリップ……というより、誰かの記憶の中、とか……?)
そんなことを考えていると、黒い鬼を囲んでいる巫覡たちが動き出した。
まず、中でも経験豊富とみられる男性の巫覡がよく通る声で呪文のようなものを唱え始める。
「掛けまくも畏き伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に、御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等、諸諸の禍事・罪穢有らむをば、祓へ給ひ清め給へと白す事を聞こし食せと、恐み恐み白す」
どこかで聞き覚えがあると思ったら、祓詞だ。
僕の祖母は地元の行事に積極的に参加していた。時おり、あまり外に出たがらない僕を一緒に連れて行ってくれることもあった。ある時、神社の行事に参加した際、神主さんが祓詞を唱えていたので、祖母がこっそりその意味を教えてくれたのだ。
(でも、あの男性巫覡の唱える祓詞は、おばあちゃんと一緒に神社で聞いたものとは違う気がする。言葉は全く同じだけど、声の質が違うというか、腹の底に響く感じというか……不思議な力で押し倒されそうになる)
男性巫覡が祓詞を唱え終わると、他の巫覡たちも一斉に口を開いた。
「祓え給い、清め給え。神ながら守り給い、幸え給え」
「祓い給え、清め給え。六根清浄」
彼らの言葉にも力があった。迫力があるというだけでなく、物理的に体を押されるような感じがする。
その力は、鬼にも効果てきめんであるようだった。先ほどまで巫覡を威嚇していた鬼は、すっかり委縮して大人しくなり、警戒したように巫覡たちの方を睨んでいる。
「ひょっとして、これが言霊の才による効果なのかな……」
鬼が怯んだのを機に、巫覡たちは攻勢に転じた。それぞれ剣や弓箭、棒を手に、鬼を打ち払う。
また、巫覡の中には何らかの咒術的文字の書かれた符を用いたり、白い粉を撒く者もいる。
最初はあの白い粉は何だろうと思って見ていたが、おそらく塩だ。鬼や鬼が放つ『穢れ』に対し、清めの塩を撒いているのだろう。
鬼との戦いは激しく、巫覡たちが防具で身を固めているのも納得できるほどだった。
やがて、巫覡たちの調伏によって、鬼はどんどんその勢いを衰えさせていった。最初は大きなヒグマほどあったその体はみるみる小さくなり、最後には猫くらいの大きさになってしまう。その中で、今もなお二つの目だけが煌々と光っている。まるでその辺をちょろちょろ走り回っている黒猫みたいだ。
もっとも、小型化した鬼は走り回る余力も残っていないらしく、すっかり弱りきっている。
最後に、祓詞を唱えた男性の巫覡が、懐から丸い形をした直径三十センチほどの鏡を取り出した。神鏡だ。
その神鏡に反射した太陽の光が容赦なく鬼を照らし出す。
鬼はその光を浴びて、のたうち回って苦しみ、やがて絶叫をあげた。そしてその身を包んでいた最後の黒い靄――穢れすらも祓われ、散り散りになっていく。
あとに残ったのは、ぼんやりと光を放つ塊のようなもの。宙に浮かんだその発光体は、すうっと神鏡に吸い込まれていった。
まるで幻の世界の出来事を目にしているようだった。鬼の存在もそれを清め祓う巫覡たちも、とてもこの世のものとは思えない。それほど現実感がなく、常軌を逸した光景だった。
この時代はまだ近代化もさほど進んでおらず、宗教的、精神的世界が人々の生活に密着していたのだろう。僕はそのことに大きな衝撃を受け、そして同時にひどく感動してしまった。今では必要ないと切り捨てられたものが、この時代はまだ人々の生活に息づいていたのだ。
ただ、その一部始終を全て把握することができた者はわずかであるようだった。野次馬の町人たちはひそひそと囁き交わす。
「何だ、今のは? 何が起こったんだ?」
「お前さん、今のを見ていなかったのかい? あのご神鏡に何かが吸い込まれていっただろう。穢れによって荒ぶっていた魂が、御霊に還ったんだよ」
「本当かい? ワシにはよく分からなかったがなあ」
「まあともかく、これで鬼に悩まされずにすむ」
「ああ、ありがたや、ありがたや……」
中には狩森神社の巫覡たちを拝む者もいた。それだけ狩森の巫覡は人々の信頼を得ていたということだろう。
「でも、あの中に茜音さんはいない。茜音さんはどこにいるんだろう?」
狩森神社の巫覡たちは、鬼によって滅茶苦茶に破壊された民家の家主と思しき人物と何事か言葉を交わしている。そしてそれが終わると、速やかに撤収し始めた。
この場にとどまっていても茜音さんの姿を見ることはできそうにない。そこで僕は、狩森神社の巫覡たちの後を追うことにした。
町を出るとすぐに閑散とした田園地帯が広がっていた。狩森神社の巫覡たちは、その田園地帯の真ん中に伸びる一本道をまっすぐに歩いていく。
小一時間ほど歩き続けたあと、やがて別の町が見えてきた。先ほどの町よりずっとと大きい。さらにその町中を進んでいくと、ようやく神社が見えてきた。
町中に唐突に現れた豊かな森。入り口には高さが五メートルをゆうに超える白木の立派な鳥居が立っている。
石標を見ると、『狩森神社』とあった。鳥居の姿を一見しただけでも、かなり歴史のある大きな神社であることが分かる。その奥に見える境内もけっこうな広さがありそうだ。
狩森神社の巫覡たちの後を追う形で白木の鳥居を潜ると、すぐに見覚えのある銀杏の木が目に入った。〈神御目市の歴史 5〉にも載っていた銀杏の木だ。あの写真では、この木の下で何人かの巫女が並んで映っていた。
「やっぱり、ここが狩森神社で間違いない……!」
感極まって銀杏の木に触れようとすると、呆気なく手がすり抜けてしまった。何度、銀杏に触れようとしても、その手は木の幹に接触することなく、すかすかと空振りするばかりだ。
どうやら、僕はこの世界の人の目に映らないだけでなく、物に触れることもできないらしい。
存在しているようでしていない、ただの幻……この世界での僕はそういった位置づけなのかもしれない。
さらに奥に進むと、狩森神社は僕が想像していたよりずっと広大であることが分かってきた。参道は三車線ほどもあろうかというほど広いし、鳥居もいくつも建っている。どんなに歩いても本殿はおろか、社務所や神楽殿すら見えてこない。
おまけに参道の両脇には豊かな鎮守の森が広がっており、大きな幹をした木々の向こうには建物らしき影がいくつか見えた。ただでさえ広々としている狩森神社は、どうやら外側にも多くの施設を抱えているようだ。
僕は思わず立ち止まって考えた。狩森神社はこれだけ大きいのだ。そこに努める神職の人たちの数もかなりの数に上るだろう。つまり、そういった人たちが生活する社家町もかなりの規模になるはずだ。
思えば、狩森神社の前に広がっていた鳥居前町も大きかった。参拝客向けの大きな土産物屋や飲食店、宿屋などが軒を並べ、活気に溢れていた。
おそらく、狩森神社を中心に一つの巨大な街が形成されているのだ。
その町中のあちこちに、『神御目町』という文字の入った幟や看板が立っていることにも、僕は気付いていた。どうやら、狩森神社の周りに形成された鳥居前町は、神御目町という名であるらしい。
(神御目町……か。ひょっとして、この町が後の神御目市になるのかな)
そうだったとしても不思議ではないほど、神御目町は大きい。栄えていて活気もある。そして、その繁栄を生み出しているのが狩森神社の存在だ。それはすなわち、狩森神社がどれほどの権勢を誇っていたかということの証左でもあるのだ。
(それなのに、未来では狩森神社の存在が徹底的に消されている。これはやっぱり、どう考えても普通じゃない。過去の狩森神社に何があったのか、知ることができたらいいんだけど……)
それはともかく、今は茜音さんを探さなければ。
森に覆われた参道を歩き続けると、ようやく斎館や納札所、社務所や神楽殿といった施設が並んでいるのが見えてくる。最奥にある拝殿や本殿は大きいけれど朱塗りではなく、素朴な木造だった。やはり〈神御目市の歴史 5〉に載っていた写真そのままの光景だ。
さらに本殿の向こうには小高い丘があり、その丘の上に目を見張るほどの大きなしだれ桜が根を張っているのが見えた。流れ落ちるように美しく弧を描いて垂れ下がった枝々は、どれもいっぱいに花を咲きほころばせている。
神秘的で艶やかで、そして圧倒されるほどの威容を誇る桜の大木。
一目見てそれがただの桜ではないことが分かった。
「もしかして、あれがいざや桜なのか……?」
拝殿越しに見るいざや桜は、その大きさと迫力ゆえか、狩森神社全体を守っているようにも見える。
〈神御目市の歴史 5〉によると、いざや桜は樹齢二千年とも言われており、その驚異的な生命力ゆえに古来から神が宿っていると考えられてきたらしい。いざや桜が狩森神社の御神体となった所以だ。
「まさかこの目で、いざや桜を見られるとは思っていなかったな」
風がそよぐと、それに合わせて桜吹雪が舞う。とても幻想的な光景だった。桜を見慣れている僕も、思わずため息をついてしまうほどの美しさだ。
いざや桜が失われた後も伝説となったのは、決して偶然ではなく必然だったと断言できる。
「……でも、ここにも茜音さんはいないんだな。茜音さんは一体、どこにいるんだろう?」
僕の周りには、巫女を含めた多くの神職の人々が境内を掃除したり社務の管理に当たったりして、忙しそうに行ったり来たりしている。また、参拝客の姿も多い。
彼らに茜音さんの居場所を聞くことができれば手っ取り早いのだが、残念ながら彼らに僕の姿は見えないし、声も聞こえないようだった。町の人々と同じように。
せめて気づいてもらえないかと、行き交う人々に近づいて肩を叩こうとするが、やはり先ほどの銀杏の木のように全く触れることができない。
どうすればいいのだろう。
困っていると、ふと足元に何か触れた感触がした。驚いて下を見ると、いつの間にかそこに黒猫がいるではないか。
といっても、最初は何だかよく分からなかった。全身がふわふわの毛で覆われているからか、黒猫の輪郭はひどく曖昧だったからだ。何となく、狩森図書館に棲みついている金と紅のオッドアイをした黒猫に似ている気がする。
もっとも、あの憎たらしい黒猫よりは少し小さい。瞳の色も違う。いま僕の足元にいる黒猫は、両目とも澄みきった露草色をしている。
露草色をした黒猫は、何か言いたげにじっと僕を見上げた。
「お前、僕のことが見えているのか?」
すると、黒猫はぱっと走り出した。そして、二メートルほど先で僕の方を振り返る。
「……? ついて来いって言ってるのか?」
他に行く当てもなかったので、僕は露草色の瞳をした黒猫の後について行くことにした。
黒猫が向かったのは、狩森神社の東側に隣接した広場だった。そこは神社内ではないものの、狩森神社の所有する土地の一部ではあるらしい。
広場ではいわゆる巫女姿をした子どもたちが剣や弓箭、棒の訓練をしていた。女の子は赤い袴を、そして男の子は浅葱色をした袴をはいている。
さらにその北側に建てられた施設では、同じように何人もの若者が勉学に励んでいるのも見えた。おそらく学校のようなものだろう。
教鞭をとる講師と思しき人の声が聞こえてくる。
「……いいか、よく覚えておけ。君たちは人である前に巫覡なのだ。神に仕え、〈鬼〉を清め祓う神和ぎなのだ。だからこそ、君たちはどんな困難に見舞われても巫覡として生き、巫覡として死なねばならない。いついかなる時も、それを意識して過ごすように」
「はい!」
若い巫覡たちの、意欲と希望に満ちた返事が響き渡る。ここでは、狩森神社に努める若者たちが巫覡となるための修業を行っているのだ。
そういった修行中の巫覡たちの中に茜音さんもいた。修練場で何人かの子どもたちと一緒に弓に矢をつがえ、的を射る練習をしている。ちょうど高校の弓道部みたいな雰囲気だ。
茜音さんの年齢は、現代で例えるなら小学生の中学年くらいだろうか。先ほどよりも少し背が伸び、長くなった髪を後ろで一つに結んでいる。そして、真剣な面持ちで一心に矢を放っている。
その姿は僕の目に、とても瑞々しく輝いて見えた。一生懸命、何かに打ち込む茜音さんは、とても美しい。
何より、弓矢を構える姿勢が美しい。体の左右の均衡が取れていて、軸もずれておらず、ぴんとしている。
その眼差しには微塵の迷いも見られない。そのせいか、放たれる矢のほとんどは的の中心部である心臓を的確に射貫いていく。矢が放たれた後もそのままの姿勢を保つ茜音さんの髪や肩、そして袴に、桜の花びらがひらひらと降り注ぐ。
その修練場からもいざや桜がよく見えた。まるで、子どもたちを見守っているかのように。
やがて、休憩時間が来た。修行に励んでいた若い巫覡見習いたちは、続々と修練場を去っていく。
しかし茜音さんは、ひとり修練場にとどまって矢を射続けていた。それを見た他の巫覡見習いたちはひそひそと囁き交わす。
「見てごらんなさい。また茜音さんが一人で居残り修練をしているよ」
「どんなに頑張ったところで無駄なのにな。言霊の才、見鬼の才、調伏の才の三つのうち、一つでも欠けていたら一人前の巫覡にはなれないのだから」
「放っておきましょう。いつか本人もそのことに気づく日が来ますよ」
その光景を目にし、僕は胸が痛くなった。茜音さんのお母さんが危惧していた通り、狩森神社での茜音さんの評価はかなり低いものとなっているようだ。
彼らの声は茜音さんにも聞こえているだろう。けれど、茜音さんはそれを全く気にせず、弓の修練に集中している。
そんな茜音さんに、一人の少女が近づいていく。茜音さんと同じくらいの年齢で、長い髪を三つ編みにしている。
その娘は、茜音さんを気遣うように声をかけた。
「茜音、もうその辺にしたら?」
すると茜音さんは、その娘の方を振り返って笑った。
「桔梗……うん、あともう少しだけやったら終わりにする」
茜音さんの笑顔はとても明るい。相手に対して全幅の信頼を寄せていることが伝わってくる。
実際、茜音さんと桔梗と呼ばれた三つ編みの娘はとても仲が良いらしい。桔梗は茜音さんに手ぬぐいを差し出し、茜音さんはそれで額の汗を拭く。そして再び新しい矢に手を伸ばす。




