第五十一話 母と子
(そう感じるのは何故だろう。狩森図書館の雰囲気がおばあちゃんの家に似ているから……かな)
おばあちゃんの家はとても古い日本家屋で、広々とした家だったけれど中はひどく暗かった。
僕はおばあちゃんも、おばあちゃんの家も大好きだったけど、おばあちゃんの家の暗がりは少し怖かった。特に幼い頃は、その暗がりの中にお化けが潜んでいるのではと想像して、一人で震え上がったものだ。
(そういえば……小学生の頃だったかな。おばあちゃんの家に泊まりに行った時、怖くて一人ではトイレに行けなかったこともあったっけ。お父さんやお母さんは、悠貴は怖がりだねと笑いつつも、一緒にトイレに行ってくれたんだ)
昔のことを思い出していると、自然とおばあちゃんの言葉が思い出された。
――ゆるすっていうのは受け入れることさ。ありのままの自分を、そしてありのままの世界を受け止める……それがゆるすということだよ。
もしおばあちゃんが生きていて今の僕を見たら、きっと同じことを言うだろう。
相手のことが本当に好きならゆるしなさい、ありのままを受け入れなさい……と。
でも僕は茜音さんのことが好きだからこそ、茜音さんや狩森図書館のことをもっと知りたいと思う。好きだからこそ、少しでも茜音さんに近づきたいし、理解したいと思ってしまう。
それは間違っているのだろうか。
そう思う一方で、狩森神社のことを調べた今では、おばあちゃんの言わんとしていることが少し分かるような気もした。
茜音さんのことを調べ尽くしたその結果、僕にとって受け入れがたいことが判明したとしたら、一体どうなるのか。自分でもそれがよく分からないからだ。
好きという気持ちがすっかり冷めて茜音さんから心が離れていってしまうかもしれない。それはそれで仕方がないとも思うが、茜音さんの立場からすれば極めて身勝手で嫌な人間に見えるだろう。
(それに、僕は茜音さんが僕のことをどう思っているか知らない。ひょっとしたら、そもそも僕のこの気持ちは茜音さんにとって、ただ迷惑なだけかもしれない……)
僕は溜息をついて離れた席から茜音さんを見つめる。
中学生時代、〈言霊の力〉のせいで同級生と深刻なトラブルを起こしてから、僕はずいぶん臆病になったと思う。他者とぶつかるのが怖くなったし、誰かに自分のことを知られるのにも抵抗を覚えるようになった。
高校では今のところ何も問題を起こしていないし、クラスでもうまくやれていると思う。でもその関係はあくまで表面的で、どこか余所余所しいものになってしまっているのではないかと感じることもある。
(そして、誰にも自分のことを知られたくないと思っている僕も、茜音さんのことを知りたいあまり、こうしていろいろ調べ回っている。これってかなり矛盾しているよな……)
そう考えると、だんだん自分のやっていることが正しいのかどうか、自信が無くなってくる。
茜音さんに関してこれ以上、詮索すべきではないのではないか。茜音さんのことは知りたいけれど、もし仮に知らなかったとしても怪談の聞き手を務めることはできる。
これまでがそうだったように。
高校の同級生に対するのと同じように、茜音さんに対してもつかず離れずの適切な距離を保ち、わきまえある接し方をすべきではないだろうか。
(でも、それも何か違う気がする。決して自分が茜音さんを好きだということをアピールしたいわけじゃない。茜音さんと特別な関係になりたいわけでもない。でもかと言って、自分の気持ちを押し殺して何でもないふりをし続けるのは、それはそれでとても辛いことなんじゃないか……?)
駄目だ、どうしても考えが混乱し、ぐちゃぐちゃになってしまう。
やっぱり僕はずいぶんと臆病になってしまったみたいだ。昔はこんな風に、好きになった人との距離感でくよくよ悩むなんてことは無かったのに。
再び溜息をつくと、眠っている茜音さんの肩がびくりと小さく跳ねた。
しまった、茜音さんを起こしてしまっただろうか。
思わず息を詰めるが、そうではないようだった。
茜音さんはうなされている。何か悪い夢でも見ているのだろうか。先ほどまで全身の力が抜け、ぐっすり眠っていたのに、今は手をぎゅっと握りしめ肩も時おり震えている。額や頬にも冷汗が浮かんでいる。
あまりにもひどくうなされているので、僕は心配になってきた。席を立ち、茜音さんに近づいて声をかけてみる。
「茜音さん、大丈夫ですか?」
しかし僕の声は茜音さんに届かない。茜音さんは、「あ……ああ……」と悲しそうな声を出すと、うわ言のように言った。
「さ、くら……」
「……え?」
「いざや桜が……燃えてしまう……!」
その言葉を聞き、僕の心臓は大きく鼓動を打った。
何故、茜音さんがいざや桜の名を知っているのだろう。
いや、いざや桜は神御目市の人々の間では有名な存在で、伝説になっているくらいなのだから、茜音さんがその名を知っていてもおかしくはない。それに、狩森図書館は民話や民間伝承に関する本も多く置いているので、探せばその中にいざや桜伝説に関する本がある可能性も高いだろう。
だが茜音さんは、さらに『いざや桜が燃えてしまう』と言った。
まるで、燃え上がるいざや桜を実際に目にし、悲鳴を上げているかのような口調で。
確かに〈神御目市の歴史 5〉でもいざや桜は焼失したと記されていた。でも、どうして茜音さんがそれを知っているのか。特に、狩森図書館に置いてある〈神御目市の歴史 5〉では、いざや桜や狩森図書館に関する部分はページごと黒塗りにされていて読めないようになっていたのに。
神御目市の民話でもいざや桜が燃えたということは語られていなかった。女性司書もそういったことは全く口にしていなかった。
ごく一部の者しか知らないはずの真実を、なぜ茜音さんが口にするのだろう。
もしかしたら……いや、そんなことはあり得ないのは分かっている。でも、ひょっとすると茜音さんはいざや桜が狩森神社の御神体であったことを知っていたのではないか。それどころか、そのご神体のいざや桜が明治期の混乱の中、何らかの理由によって燃えたところも実際にその目で目撃していたのではないか。
そんなことはあり得ない。
頭ではそう分かっていても、心のどこかでその可能性を考えてしまう。
〈神御目市の歴史 5〉に掲載されていた写真には、狩森神社の境内、銀杏の木の下で茜音さんによく似た巫女が立っているところが映し出されていた。あれは本当に茜音さん本人だったのではないだろうか。
何故なら、こうして改めてよく見ても、あの本の中の巫女と茜音さんは同一人物ではないかというほどよく似ているのだ。
改めて、強い疑問が沸き上がってくる。
茜音さんは何者なのだろう。『鬼の娘』とはどういう意味なのだろうか。
茜音さんは今も机に突っ伏したまま、悪夢にうなされ続けている。そのうなされ方があまりにもひどいので、起こした方がいいのではないかと思えてくる。
けれど一方で、全く別の考えが頭に浮かんだ。
僕はこれ以上、茜音さんに関わるべきではないのではないか。アルバイトはきっと、探せば他にも見つかるだろう。自分にとって都合の悪い真実が明らかとなり、ひどく傷つくようなことになる前に、自ら茜音さんから離れるべきではないのか。
(いや、本当にそれでいいのか? 僕は……僕は……!)
このまま進むべきか、それとも引き返すべきか。二つの選択肢の間で僕は悩んだ。
〈神御目市の歴史 5〉を読んでも、狩森神社はとても風変わりな神社であったことが伝わってくる。〈鬼神の法〉という咒法が、現代の価値観に照らし合わせてもかなり非人道的で危険なものであったことも。
本当に茜音さんが狩森神社の関係者であるなら、茜音さんが『鬼の娘』と呼ばれるているのもそれと何か関係があるのでは。
そうであるとしたら、僕のような何の力もない非力な人間が下手に関わっていい話とは思えない。キナリ村怪談の時のように為す術もなく巻き込まれ、死ぬほど恐ろしい目にあうだけだ。
ここは自らの身をわきまえ、身を引くのが自分のためでもあるし、茜音さんのためにもなるのではないか。
考えれば考えるほど、この辺りで引き返すのが賢明であるような気がしてくる。
しかしその時、僕は眠り続ける茜音さんの顔を見て、はっと息を呑んだ。
茜音さんの長いまつげが涙で濡れていたからだ。
「茜音さん……!」
それを見た瞬間、それまでの葛藤はどこかに吹き飛んでしまった。
茜音さんが悲しんでいるのに、見て見ぬ振りはできない。
茜音さんが苦しんでいるのが分かっているのに、今さら離れられるわけがない。
だって僕は、この女性のことが好きになってしまったから。別れた後のことなんて考えられないほど、大好きになってしまったから。
気づけば僕は茜音さんの肩に手を伸ばしていた。
「茜音さん、大丈夫ですか? 茜音さん!」
ところが、僕が茜音さんの肩に触れた瞬間、僕の体は前につんのめった。茜音さんの肩を掴んだはずの右手は、何故か茜音さんの体をすり抜けてしまっていた。
「え……?」
一体、何が起こったのだろう。
理解する間もなく、僕の体はそのまま茜音さんの中に引き摺り込まれていく。
「う、うわ……!」
慌てて足を踏ん張ったが、全く効果はなかった。まるで高いところから真っ逆さまに落ちていくかのように、凄まじい勢いで引っ張りこまれる。それに抗う術は、僕にはない。
そしてすぐに視界が暗闇に包まれ、何も分からなくなってしまった。
∗∗∗∗∗
どれくらい経っただろうか。
闇の向こう側から誰かの話し声が聞こえてきて、僕は目を見開いた。
そこは広い部屋の中だった。
床も壁も天井も全てが板張りで、一見するととても簡素なつくりをしている。しかしどこもきれいに磨かれており、塵ひとつ積もっていない。そのせいか、とても厳かな印象を受ける。
さらに視線を巡らせると、部屋の最奥には階のある立派な祭壇が祀ってあるのに気づいた。
真榊や御饌、幣物、玉串といった幣帛が供えられており、ご神鏡が納められている扉はきっちりと閉まっている。さらにその天井部には幕板が渡されており、そこから神前幕が垂れていた。
その光景を見て、僕は自分がどこかの神社の本殿の中にいるのだと気付いた。
部屋を包む空気は冷たく、そしてとても神聖だ。窓は几帳や御簾で覆われており、そのせいかひどく暗い。祭壇の両脇にある一対の灯籠と篝火 (かがりび)が唯一の光源になっている。ちろちろと揺らめく炎の明かりが床に長い尾を落としていた。
僕はその暗い部屋の中、祭壇の真反対に立っているのだった。
(ここは……?)
先ほどまで、確かに狩森図書館の一般開架室の中にいたはずなのに。僕は夢でも見ているのだろうか。
無意識のうちに、おばあちゃんの形見である腕輪念珠に手を触れる。硬質で冷やりとした感触が、これが現実なのだということを証明しているかのようで、僕はどこかほっとし、そして同時にひどく困惑したのだった。
これが現実であるなら、何が起こっているのだろう。
落ち着いて室内に目を凝らす。すると薄暗い本殿の中央で、二人の人物が正座し向かい合っているのに気づいた。
一人は三十歳ほどの女性だ。神職の装束を身にまとっていて、威厳のある顔つきから相応の地位にいる人物であることが察せられる。
その女性の前に座っているのは巫女の格好をした小さな女の子だった。小学一年生くらいだろうか。わずかに伏せられたその目からは、幼い子どものものとは思えないほどの思慮深さが窺えた。
先ほどから聞こえてきた話し声は、彼女たちによるものだったのだ。
女性は少女に問う。
「……茜音よ。狩森の巫覡に必要な才が何であるか、分かっているな?」
「え、茜音さん!?」
驚きのあまり、つい口に出してしまい、僕は慌てて両手で自分の口を塞いだ。
しかし、女性や少女の反応はない。二人に僕の声は聞こえていないようだ。おそらく、僕の姿も見えていない。何故なら、二人とも僕の方は一顧だにしないから。
「さあ、その三つの才を言ってみよ」
すると、女性の前に座った少女――小さな茜音さんは、鈴の鳴るような、けれど芯を感じさせるはっきりした声で女性に答える。
「はい。言霊の才、見鬼の才、そして調伏の才です」
それを聞き、女性は力強く頷いた。
「そうだ。言霊の才は言葉に宿る霊的な力でもって鬼に干渉し制御する力、見鬼の才は鬼の姿を見る力、調伏の才は鬼を祓い、あるいは清める力のことだ。
その三つの能力のうち、言霊の才と見鬼の才は先天的なもの、調伏の才は後天的なものと言われている。つまり、調伏の才は努力と修練でいくらでも身につける事ができるが、言霊の才と見鬼の才は努力ではどうにもならない、生まれつき身に備わっているかどうかが全てだということだ」
女性は一瞬、茜音さんに憐れむような視線を向けてから、言葉を続ける。
「茜音よ、そなたは巫覡として優れた素質を持っている。しかしただ一つ、言霊の才だけは持ち合わせておらん。言霊の才がなければ、鬼を制御することができず狩森一族の巫覡として十分に務めが果たせぬこともあるだろう。そうなればきっと、そなたは肩身の狭い思いをすることになる。
……だからな、茜音。そなたは懸命に修練に励むのだ。周りがどれだけお前を嘲笑おうと、ひたすら調伏の才を磨くのだ。さすればきっと、己の進む道が見えてくるだろう。良いな、どれだけ辛くとも決して卑屈になってはならぬぞ。劣等意識にとりつかれた心には鬼が棲む。狩森の巫覡として常にそのことを忘れるでないぞ」
すると、茜音さんは初めて顔を上げ、女性の目をまっすぐに見て言った。
「はい、分かりました。お母さま」
「お母さん……。あの人が茜音さんの……」
だが、茜音さんとお母さんの間に、親しさや打ち解けた様子はない。二人の関係は親子というより、師匠と弟子に近い気がする。
もっとも、お母さんが茜音さんのことをとても心配しているのは伝わってきた。茜音さんも、幼いながらもそのことを理解しているようだった。
(二人は普通の親子じゃなかった。でも、それでも互いを想い合っていたんだな)
女性が自らつけていた首飾りを外し、茜音さんの首にかける。青い勾玉がついた、古風な首飾りだ。茜音さんは驚いた顔をして女性を見上げる。
「お母さま、これは……!」
「良いのだ。これより、それはそなたのもの。一族が代々、守ってきた神聖な宝を、これからはそなたが守り伝えていくのだぞ」
「……はい」
茜音さんの顔には強い決意が浮かんでいた。子どもらしからぬ表情だけど、とても凛々しい。お母さんから託された首飾りを守り抜くのだという、強い使命感が浮かんでいる。
その様を見ていると、怪談蒐集に熱意を傾ける茜音さんの姿が思い出された。この時から茜音さんは茜音さんだったのだと、なんだか嬉しくなる。
そう思った瞬間、周囲が白光に包まれた。
あまりの眩しさに僕は目を閉じる。
そして次に目を開いた時には、全く別の場所に移動していた。




