『害意』1
「え、なにあれ」
アマナもその事態は知らないようだった。彼女は俺に蔦をくっつけたまま、キッチンに入ってフライパンをカンカン鳴らし始める。
「いじょーじたいでーす! へいへい!」
「なになに?」「早起きだなあ」
ぞろぞろと他のアマナたちが目を擦ったり伸びをしたりしながら起きてくる。そして、俺の方へやってきて、一緒になって赤く燃える『多数決の石』を見上げている。
お互いに顔を見合わせて、アマナたちは首を傾げている。
「アマナたちも、あれは初めて見るのか?」
「初めて見る」
「ざわつくねえ」
一様に頷く彼女たちの後ろから、俺にとって一番危機を感じやすい相手が現れる。
「ロステル!」
欠けたブローチを赤々と燃やし、青灰の瞳に円く炎を灯すロステルだ。けれど、昔よりはずっと正気だ。彼はその燃える目で、遠くの『多数決の石』を睨んだ。
「あの石から戦火の熱が来ているように感じる」
「本当だ、熱い……火事でも起きてるみたいだ……」
彼が近くにいるからか、俺もその熱を同化越しに感じ取れた。石が燃えた熱が吹き下ろしているというのが、確かに丁度良い表現かもしれない。ただ夜風が一陣吹いただけなのに、俺は火が髪を撫でたように感じて警戒する。
「でも何で……」
「ドウツキさん、ロステルさん、どうかしたんですか? さっきから大声出して……」
「ニエルル? いや、大声は出してない、けど」
遅れて耳に通信装置を付けながら寝ぼけたニエルルが出てくるが、俺は彼女に通信を送ってはいない。ロステルに目を向けると、彼も首を捻った。
「ほら、向こうから二人は呼んでるじゃないですか……」
そう言いながら、ニエルルは弓を持ったまま『多数決の石』のある方へ向かおうとする。
「ちょ、ちょっと待って、ニエルル! 俺たちはここにいる!」
俺は大慌てでニエルルの肩を掴んだ。意識はある。だけど、何か変だ。まるで、ロステルがブローチに精神を囚われて魔物を追い回していた時のようだ。彼女は一瞬だけ、俺の方を見て、緩慢に瞬きをする。
「あれっ?」
そこでやっと、ニエルルは元通りになって、俺を視界に捉えたらしかった。
「あれ? なんでドウツキさんがここにいるんですか?」
「さっきから、ずっといたよ。ニエルルこそ、どうして……。そうだ、ロステルも目に戦火が灯ってる。二人ともすごく影響を受けてるみたいだ」
「本当か?」
どうしてと通信で発してから、俺はロステルの目も炎の輪を宿していたのを思い出した。彼もそれに気付いてはいなかったようで、目元に手を寄せて瞬きをしている。
ニエルルも自覚はないのか、困惑気味に『多数決の石』の方を仰いだ。
「何でしょう。あっちからドウツキさんやロステルさんの声がするんです。それに、暮らしてたエルフの森の人の声も……行かなきゃって、気持ちになります。すごく」
彼女にしか聞こえない何かがあり、ロステルにしか察知できない害意がある。俺は二人を見て、それから集まってきてくれたアマナたちに視線を落とす。彼女たちも初めてのことに、少し不安そうに顔を見合わせている。
「不安定なら、家でじっとしてた方がいいと思う。でも、ニエルルは今の調子だと抑えが利かずに飛び出しちゃうかもしれない。ニエルル、今もあっちに行きたい? それは自分の気持ちじゃなさそうじゃないか?」
「んん、すごく……引っ張られてる感じがします」
「ロステルは?」
「衝動は御せるが、引き寄せられるものはある。『魔物』に極めて似た害意を感じる。この感覚を信じるなら、ネ=リャハの里が危険だ」
今この時も、ニエルルはふらふらと歩き出しそうだ。ロステルも抑えられなくはないが、無視はできないといった雰囲気で眉を寄せている。
「どうする?」「お先行きます?」「たまには逃げてもいいんだよ」
誰を見ようかと迷った末に視線を落とすと、アマナたちは俺を甘やかしてくれた。
逃げてもいい。それはとても優しい言葉だ。そして、今考える中では、一番賢い選択でもある。
――我々は南方の警戒で忙しいのだ。
蘇るのは去り際のカイラの一言だ。俺を追い払うようにしながらも、笑っていたその心強い顔が思い出される。
(もしかして……カイラは、不吉な前兆を察してたのか?)
否、おそらく空を飛べるネ=リャハの一族のこと、フィアルカが垣間見た灰色の構造物とやらも視認しているかもしれない。
(そのまま棄民城に向けて行くつもりだったけど、カイラがこれを知ってるなら、情報の取り落としはしたくないな)
どっちにしろ、俺はいつもの考える仕草をしてから、素直な気持ちを今いる仲間たちに伝えた。
「迷ってる。俺は情報を取り落としたくない。どうすればいいと思う?」
ミッドが促してきてくれた決断ではなく、今いる残りの面子でしかできない相談。俺は見回して、皆の意見を待った。
「私は行きたいです……でも半分は怖くって、行きたいと行きたくないが半々……」
「じゃあ守ろう」「数いるし?」「おかわりもありますが何人前ごいりよ?」
ふわふわとしながらもニエルルは答える。その足元に近付いて、アマナたちはぴょんぴょん地面を跳ねている。少なくとも、彼女たちはニエルルを離したりしないだろう。
「水場に落っこちそうな時は優しく引っ張ってあげてほしい」
「まかされよ」「まかされた」
アマナのこういう時のにへにへとした緩い笑顔は、緊張感をほどよく和らげてくれる。
最後にロステルの方を見れば、彼は真剣な眼差しで俺を見て、頷いてくれる。
「どちらでも対処できるというのが本音だ。が、後続の危険を断つ方が好みだ。……これはあなたの性分にも合っている」
「ん、そうかも」
その言い方に、思わず俺は小さく笑いをこぼした。満場一致だ。
「よし、ネ=リャハの里に戻って、カイラさんを探そう。危なかったら、すぐ退こう」
俺が里の方を見て最後にそう言い切るか否かのあたりで、里から爆発音が鳴り響く。俺の中に不安はあった。
「行かなきゃ……!」
ふらふらと走り出すニエルルに、俺は息を呑む。
「ま、待って、ニエルル!」
彼女の状態も心配だけれど、ここではぐれてしまった方がずっと悪い気もする。俺は直感を信じて、彼女を追い始める。
魔物避けの総本山である『多数決の石』。その庇護下にある森は幸いにして、魔物の発生にも見舞われずに俺たちを通してくれたのだった。
◆
俺たちが到着する頃には、ネ=リャハの里に火の手が上がっていた。ネ=リャハの人たちの死体が上がっているわけではないが、あちこちには見覚えのある灰色の砂のようなものが散らばっている。間違いなくそれは、『魔物の死体』だった。
同時に、あちこちから魔物と競り合う人々の声が聞こえる。空にはネ=リャハの翼がいくつも見えた。
何より、俺たちの目の前にも、北に来てからここまで一度も見なかった魔物の姿がある。俺はそれに、とっさにペンライトの光を向ける。
「あれは……何の魔物? いや、だってあれは」
俺は光に照らされたそれをはっきり目視した。
「忌々シイえるふ!! 頭デッカチの引キコモリどもが!!」
「爆弾ダ! ツルハシで頭を砕イテヤレ!!」
アマナ程度の小柄な体躯だが、彼女たちよりそれはずんぐりとしていた。大抵の場合、ひげが形作られ、両手で斧や槌を持っているような見目をしている。中には爆薬を持っている者もいて、これが先の爆発の原因だという自己紹介をしてくれている。
遺跡でミミックには遭遇したことがあるが、背の高さを抜けばあれに酷似している。
『それらは、まるであの都市で作られた魔法生物のようだった。彼らの言語で、エルフ、ドワーフ、あるいは妖精――そうしたかたちをしている』。
俺の中に、フィアルカの言葉が蘇った。そして、ニエルルが後ろから発した言葉が、俺の予感の決め手になる。
「ど、ドワーフだ……ドワーフですよ、これは、本にもあったしあの街にも……きゃあっ!!」
ドワーフ。その名を聞いた直後、ニエルルは暗闇から飛び掛かってきたそれに襲撃される。が、彼女まで被害は及ばない。アマナのうちの一人が蔦で押さえつけ、乱暴に闇の向こうに放り投げたからだ。
「やばー!」「火気厳禁!」
彼女たちは時たま投げつけられる爆弾を叩き返して、ニエルルを守ってくれている。
「な、なんで……これ、魔物じゃないですか、ねえ……」
明らかに動転したニエルルの声が聞こえてくる。その姿を見たドワーフたちが、一斉にニエルルの方を見て彼女を指差し始める。
「えるふダ!!」
「殺セ!! コロ――」
俺たちが身構える中へ殺到しようとしたドワーフが、今度は急に横から矢で射られて灰色の砂に戻る。
「小汚イ下等な野蛮人ドモ! 我々えるふニ楯突こうトイウノカ!」
「命知ラズメ! 撃テ!!」
はっとした俺はそちらへ視線をやるが、そこにいるのはニエルルより少し背が高い程度の、これもまた灰色の人影だ。耳が尖っていて、弓を握り絞め、今ドワーフの姿をした魔物に射かけ始めたところだ。
「みんな、なんで……」
ニエルルはアマナに守られながら、その正体を呟いた。ニエルルにとってのみんなは、『エルフ』だ。彼女は魔物たちの顔に、故郷の仲間を見ている。
どちらも灰色の砂で構成された、怪物に成り下がっている。
「なんで、エルフとドワーフが魔物に……なんで、エルフはみんな知ってる顔なのに……私のこと、誰も気付いてない……」
彼女の言葉なんて誰も耳を貸していない。ニエルルを置き去りにして、エルフとドワーフは互いに憎悪に満ちた面持ちで争い始める。矢を番え、爆弾を投げつけ、斧やツルハシを振り下ろし、まったく関係のないネ=リャハの里で暴れている。彼らは互いを憎み合っているのに、いやに的確にネ=リャハの里に火を付け、人々に襲いかかっている。
(魔物同士で争ってるのに、爆発物や矢のせいであっちこっちから火の手が……!)
性質が悪いのは、お互いが間合いを取るために家屋に転がり込んで、そこから射撃で応戦し合うところだ。放っておくだけで戦火がいたずらに広がってしまう。他の魔物と同じだ。存在するだけで脅威になる。何かを壊すためにだけ存在している。
どうすればいいか迷う俺の側にも、八つ当たりのようにドワーフが武器を振りかざしてくる。それが届かないのは、ロステルが砲撃でその砂の塊ごと撃ち抜いたからだ。
「意思疎通の余地はない。降りかかる火の粉は、払う」
灰の砂塵の中で俺に振り返るロステルの瞳は、爛々と赤い炎を巡らせている。
「ロステル! これは、魔物に見えてる!?」
「間違いない、魔物だ! こころがそう言っている!!」
鮮明に、ロステルは次の銃器を構え、ドワーフを睨みながらそう言い切った。そして、フィアルカやニエルルの言葉と組み合わせれば、当然この答えが出てくる。
(工業都市にいたエルフとドワーフがそのまま魔物になったってことか!? いや、あの人ならやりかねない!! 魔物の発生メカニズムを想定できてるなら……! カイラは無事か!?)
俺はペンライトで照らし、カイラを探しながら、流れもしない冷や汗に身震いした。
頭に浮かんだ考えを否定できないのが一番恐ろしかった。あのクーネルという老人は人間をエルフとドワーフに変えてみせ、ファンタジーっぽい街を作る一方で、カレルやシーニャという強化された人間も作ってみせた。
魔物が憎み合う気持ちで生まれたものだと彼が知っていたなら、あの人はどうやって作ろうか考えるはずなのだ。ニエルルが冗談半分に言った『魔物』を作るというのだって、俺は信用できると判断していた。
自分が面白く思う物事のために、クーネルは最悪のアイデアを実践する性質と環境を兼ね備えていた。俺の回路から弾き出されたそれは、おそらく間違いがない。
(こんなこと、いくらなんでも許されていいはずがない)
俺はこみ上げる嫌悪感と恐怖に身を震わせた。こんなの、星を飛び出してまで生き残りたかった人類全てへの裏切りだ。
人間の尊厳全てを失って、人間だったエルフとドワーフは俺の目の前で殺し合いをしながら災厄を振りまいている。エルフにも人間にもなりきれない、ニエルルだけを残して。
「どうしよう、どうしよう、わ、私、私呼ばれてる……でも、誰も私に気付いてない、じゃあ、誰が……」
ニエルルは視線を泳がせ、腕で身体を抱いて怯えていた。一生懸命、現状を理解しようとしている。だけど、俺でも冷静でいられない状況に、彼女やロステルを長居はさせられない。
「駄目だ、退こう! 身の安全が先だ! ニエルル! こんなのニエルルもロステルも保たないよ!!」
「ドウツキさん……っ」
空を飛ぶネ=リャハの姿を探していた俺と、ニエルルの距離はわずかに開いていた。俺は彼女に向けて振り返る。
「ドウツキさんには、見えてないの?」
「えっ?」
彼女の目は、鮮烈な多数決の石の赤を照り返し、その色に染まっている。彼女は多数決の石を指差して、青ざめている。
「……!?」
次の瞬間、俺は彼女の後ろに、無数の視線を感じた。否、俺の後ろからも、地面の底からも、空の天辺からも、沸き上がるような視線があった。それも、ただ見ているだけではない。どれもこれも、近くで暴れているドワーフやエルフのように赤く爛々としている。
「ドウツキ、見えているか!?」
「あ、ああ……うん! 見えてる、けど……!」
ロステルに呼びかけられて、初めて俺はこの視線を認識するのにロステルの同化を経由しているのだと知った。
直接、何かをしてくるわけではない。だけど、たまらなく居心地の悪い視線だ。
「……これ、は」
俺の回路は、その視線の中に含まれる感情を必死に割り出そうとしていた。殺意に似た強烈な意志。憎悪には複雑すぎる。不許容にも似ているが、もっともっと前のめりだ。騙して、裏切って、あざ笑って、出し抜いて、時に純粋に、『壊し尽くす』と感じさせる絶対の意志。
その量や組み合わさる事情に差があれど、俺はこれを旅路で何度も見てきた。やっと、それを明確な形として視界に収めたのかもしれなかった。
(確かに、ずっと存在していたんだ。これは……だからって、こんな形で目に映ることが――)
イデアーレの微笑みに。思い詰めたグリンツ氏の形相に。ヒューバートの苦渋の顔に。シーニャとクーネルの笑い顔に。そして何より、ロステルの宿す炎の中に。
(これが……こいつが……!!)
理不尽に人を引き裂こうとする思念の総称。これに当たる単語を、俺は知っている。何度も口にしてきた。だけど、今だけは通信に出すこともできないまま、強ばった唇だけ動かした。
『害意』。
無数の害意が、ニエルルを破壊して、引きずり込もうとしているのが見えたのだ。そういう点では、『同化』でもあった。害意をもって相手を自分の領域に取り込み、支配する。この世界で当たり前に行われてきたやりとりそのものだ。
「何あれ……私、すごい数の目に見られてる……み、みんなに、見られてる……! ご、ごめんなさい、一人で逃げた、から……そんな目で、見て。い、嫌ですよ。私、人間で――」
彼女は開いた口をわなわなと震わせながら、両手で頬を覆った。その指先や手首から、滲む何かがあった。
それは、灰色の砂の色をした羽毛だった。




