北方の翼 1
「二人とも、何ともない?」
「こちらは大丈夫です……ここは、ひづめあとの向こうでしょうか?」
「おそらくは」
ニエルルが腰のあたりをさすりながら立ち上がる。ロステルも頭に落ち葉を付けたまま立ち上がって、周りの木の葉を眺め始めた。
白い樹皮の枝に付いている木の葉は、俺も見たことがない色とかたちをしていた。広葉樹のように広く、けれど針葉樹のように何カ所か先端が尖っている。青と緑の色彩が太陽の光にほのかに透けて、きらきら光っている。
文字通り、ここから先は俺にとっても未知のエリアなのだ。否、今まで未知でなかった場所なんて一つもないけれど。より一層深い不思議があるような気がして、俺の回路は高揚を示していた。
「ひとまず、フィアルカさんの言っていた北に行こう。夜になって魔物が出るのは、きっと変わらないだろうし」
彼のことが気にならないわけではない。けれど、今は何もできやしない。俺はすでに傾きかけた太陽を見上げて、二人を連れて歩き始めた。影のできる方向からどうにか方角を探り当てて、俺は木の葉を踏みながら進んで行く。いつもは俺の前にミッドやクローディアがいて、視界にはいつも誰かの頭が映り込んでいた。けれど今はそれもなく、空と自分の距離がぐっと近付いたような錯覚があった。
(この森、どこまで続いているんだろう)
薄い硝子細工のような落ち葉を踏み越えて、俺たちは森をまっすぐ進んだ。その最中、俺は何度か、道に迷っていないかと考えた。人間は森の中にいると、自然と曲がった道を進むとデータベースにあったから。
「ニエルル、方角は分かる?」
「あ、はい。大丈夫です。びっくりするほどまっすぐです」
その迷いを払ってくれるのは、ニエルルだった。彼女がエルフとして作られたからか、彼女は森の中での方角を間違わないのだという。実際に、一番曲がり道をしそうになっていたのはロステルだった。
「あ、ロステルさん。そっちに行くと曲がりますよ」
「む……すまない」
それを指摘されて、ロステルが立ち止まり、ニエルルと俺の方へ歩いてくる。
「不思議ですね。私たち、人間なのに何となく人間じゃないんです」
ニエルルの何てことはない声に、俺は青い葉に遮られた空を仰いだ。
トールとニューロマンサーの想いを引き継いだ俺。領主と失われた種族の間に生まれたロステル。人間の遺伝子をベースに、エルフとして設計されて誕生したニエルル。少なくとも、その半分はきっと人間だ。だけれども、みんなそれぞれ人間でないところがあって、補い合っている。居心地は、間違いなく良かった。
「でも、丁度いい?」
「そうかもしれません!」
俺の通信に、ニエルルはぐっと拳を握った。ロステルも俺たちの会話を見て、穏やかそうな表情を見せている。彼女の明るさに、暗い俺たちは救われている。
「……待って。誰かいる」
そうやっていくらか言葉を交わしながら歩いた頃、俺は聴覚センサーに物音を捉えた。上方、木々の間からだ。俺は手を向けて、後列のロステルとニエルルに伝える。ロステルが構えないことや、日中であることから考えれば、魔物の線は薄い。だけれども、もう魔物ばかりが俺たちを襲うわけではないということを、俺たちはもう知っている。
やがて目を凝らすうち、青や緑の木の葉の合間に、鮮やかな赤い布が見えた。一つ見えれば、二つ、三つと目視できる数は増えていく。それが人型であることも。
俺たちは、五人ほどの集団に囲まれていた。
「Olmees! Quita ina sun mon! Kout sue! Neigh-ryahah!」
おそらくは女性と思われる声が轟く。初めて聞く言葉だった。おそらく、今までも人によってある程度のなまりや独自の言語があったはずだ。だが、俺は機能して初めて言語を理解できなかった。
とっさに見たのはフィアルカが託してくれたチョーカーだった。ロステルは首元のそれに手を当てて、ほうと何か感心したような声を上げている。任せていいかと彼の目を見れば、彼は小さく頷いた。
「そうだ。オレたちは大陸南部から来た! ある者に、迷ったなら北に向かうよう進言された。あなたがたに害を加える意図はない。棄民城への道を知りたいだけだ!」
よく通る彼の声が木の葉の間を通り抜ける。いつ、何が来てもいいように、俺とニエルルは身構える。しばらく、木の葉のざわめきの合間で、言葉がやりとりされる。
「相談している。待機しよう」
声を潜めて、ロステルがそう呟く。俺は頷いて、じっと相手の出方を待つ。
「その香り。『すみれの魔王』の客、か」
ほどなくして声は止み、一陣の風が吹いた。木々の間から、俺にも分かる言語を呟きながら、赤い羽衣を纏った人影が降り立つ。
「……!」
俺はここで、初めて相手の姿をはっきりと見た。アマナよりも明るい茶の紙に、鋭い緑の瞳をした若い人間だった。だが、その背中は鳥のような羽毛の翼に包まれている。戦いに向かなさそうな薄い衣を羽織りながらも、手に持つ長槍は鋭利にぎらついている。
その切っ先を俺たちに向けて、彼(俺は彼か彼女か判別できなかった)は問う。
「おい、お前達。誰でもいい。すみれの魔王の名を唱えてみよ」
「すみれの魔王……」
俺たちはそれが誰であるか、三人で視線を向け合いながら考えた。おそらく、俺たちが考えている人間は同じだ。ただ、見た限り、翼の生えた相手に通信装置はない。だとしたら、俺は会話ができない。だから答えるのはニエルルか、ロステルになる。少しして、ニエルルが頷いた。
「フィアルカさんのことですよね?」
翼の生えた人間は、ふんと鼻を鳴らして槍を収めた。次々に、木の葉の中に隠れていた有翼の人々が俺たちの前に姿を現す。おそらく、最初に現れた人がリーダーなのだろう。
「Iye quan,,Kaira?」
「里に連れて行け。お前たちはフィアルカの認めた客だ。逃げようとは思うまいな」
彼はくいと顎を動かして、質問をした仲間たちに合図する。彼らは俺たちを取り囲んだまま、どこかへ向かおうとしているようだった。つっけんどんな態度ではあったが、すぐに俺たちをどうこうしようというわけではないらしい。
「つ、連れて行かれますけど!」
「すぐどうこうしないなら、ついていくしかないんじゃないか? 客って言ってたし……」
俺たちは翼ある人々に押されるようにして、森の中を再び歩き始めた。




