純真無垢な少年だった~魔王視点~
ユーゴ人生は決して冴えたものではなかった。
酒場で働く母の元に生まれたユーゴは幼いころから、『存在してはいけない人間』だということを痛い程感じていた。母は三十を超えていたがそれでも「未婚の母」よりも「行き遅れの女」であることを望んだ。酒場で男に愛敬を振りまく仕事だから当然と言えば当然だろう。幼いころは一日中、酒場の二階にある小さな部屋から一歩も出ることを許されなかった。
そんなユーゴが初めて空の広さを知ったのは、六歳になり王城内にある学園への進学を許された時だ。ユーゴの父という匿名の人物から全寮制の学園への入学を援助してもらい、渡りに船と母はユーゴを手放した。ベッドと流ししかない小さな部屋を出て行く時は、少し寂しくもあったが目の前に広がる世界の広さの方が魅力的で涙一つ流さなかった。
学園生活でユーゴを最初に襲った試練が風邪だった。
ほとんど部屋から出ずに育ったユーゴには風邪に対する抵抗が低く、ちょっとした気温の変化でも熱を出す日々が半年ほど続いた。おそらく最初の半年のうちは学園に半分も通っていなかったに違いない。
「学校のノートと食堂で出たリンゴ」
ベッドで大半の時間を過ごしていたユーゴに一番優しくしてくれたのがリリィだった。食堂で出るデザートやパンを毎日持って帰ってくれ、一日の出来事を楽しそうに話してくれた。時々、一生このままベッドから起き上がれないんじゃないか、と不安になる時もあったが、リリィは何も言わずに手を握って寝付くまで一緒にいた。
やがて元気に走り回れるようになっても、ユーゴはリリィの側から離れることはなかった。学園へ行く時も、食堂へ行く時も、休み時間を過ごす時も……リリィなしの時間は、就寝時間になり、それぞれの部屋へ帰る時ぐらいだった。
可愛いリリィを独占するユーゴは自然と虐められるようにもなったが、それを助けてくれるのは決まってリリィで
「あんたたち今度、ユーゴを虐めたら承知しないんだからね!」
と烈火のごとく怒ってくれた。時には武器、大人、相手の弱み……ありとあらゆる手段を使って彼らを蹴散らした。普段はおっとりとした彼女だが、相手が自分より二倍もある相手であれ、貴族であれ彼女は決してユーゴを見捨てないのだ。
いじめられるのは決して楽しいことではなかったが、彼らの前でリリィが自分の物であることを誇示できるという点では決して悪い気もしていなかった。冴えないユーゴの人生を唯一彩ってくれたのがリリィだったのだ。
二人の間で「好き」という言葉は交わしていなかったが、ずっと一緒にいるものだと思っていたしユーゴは密かに学園を卒業して手に職を付けたらリリィへプロポーズしようと決意していた。
「ユーゴ、リリィとは結婚できないんだよ」
その事実を知らされたのは、十三歳の時だった。同じクラスにいるシャルルがそう囁いたのだ。
「リリィは王族なの。毎日、アホみたいに一緒にいるけど、この学園を卒業したら、一緒にいられないけど平気?」
寝耳に水の情報にユーゴは思わず首を振る。
「遠くない未来に王族として認知されるか、政権争いの道具にならないために修道院に入れられるか……」
「それなら一緒に逃げればいい」
神官として仕事をすれば平均以上の収入が得られると思っていたが、リリィと一緒にいるためならば、商人でも農家でも冒険者でもいい。決して逃げるという選択は間違いではないと自負するユーゴをシャルルは鼻で笑った。
「あんた結構、お気楽っていうかアホでしょ。二人とも暗殺されるに決まっているじゃない」
目の前に超えられない壁が打ち立てられたような絶望感をユーゴは覚えた。それでも自分の人生の彩りであるリリィをユーゴは手放せなかった。どうせ諦めるならば……と伝説ともいわれている魔王を倒しに行こうと決意したのだ。この数百年で魔王を討伐した王は出ていないが、何もしないで学園にいるよりもよほどリリィと結婚できる可能性は高いだろう……と考えた。
リリィにもシャルルにも誰にも告げず、こっそりと魔王の城を目指して学園を飛び出したのは、ちょうどユーゴが十三歳になって半年が経った頃だった。
しかし少年の夢物語がそんなに簡単に実現することはなかった。
気付いた時には魔王城のはるかふもとに広がる森の中で生き絶え絶えになっていた。魔王城に近づけば近づくほど地面から発生する魔力は増大し、身体の中を蝕んでいたのだ。
小声で魔法を唱えなんとか息をする中、ピチャリピチャリと自分へ近づく音を聞き、自分の早すぎる死期を悟った。ここにたどり着くまでにユーゴは魔物を何度か倒してきたが、訓練をしていないユーゴにとっては常に紙一重の戦いだった。だからこそ今ような状態で魔物を倒すのは難しいことを誰よりも本人が一番理解していた。
『ちゃんと好きって言えばよかったな』
『逃げようって言えばよかったのかな』
『どうせならキスでもしておけば、良かったな』
リリィとの想い出と共に死のうと覚悟した時、ヌーッと視界に黒い髪の毛が入り込む。
「あらあら、素敵なお客様ですこと」
グイっと身体が宙に浮かび、ユーゴは思わずヒッと悲鳴を上げる。目の前には右半身が鱗に覆われた黒髪の女性が立っていた。
「なるほどね~魔法を使って精神を保っていたのね。賢いわね~~」
「たす……けて……」
言語が通じる魔物に初めて会ったユーゴは、気付いた時には助けを口にしていた。
「そうね……」
女性は小さく「う~~ん」と唸り、難しいわね、と呟く。やっぱり殺されるんだ……とユーゴが覚悟を決めた瞬間、身体がフワリと沼の方へ向かう。
「助けてあげたいんだけどね。もう魔物になっちゃっているのよね」
ユーゴが沼を見下ろすと、うっすらとだがドラゴンのような魔物が宙に浮かんでいた。それがにわかに自分の姿だとは信じられなかったが、周囲には自分しかいない。
「方法は二つあるわね。このまま魔物として生きていくか、人間としての意識があるうちに死ぬかね」
どちらの選択肢もユーゴが希望する回答ではなかったが、死ぬ前に疑問を解消したかった。
「魔王は……」
「魔王!いいわね!それ。魔王にしてあげるわ」
『魔王を倒す』という自分の選択肢が正しかったのか聞きたかったのだが、返ってきた答えはとんでもないものだった。
「魔王……いないんですか?」
「いたんだけどね~。この前、精神を病んでしまってね。亡くなられたところだったのよ。で、年功序列ってことで私が新しい魔王候補になったんだけど、ほら私、中途半端なビジュアルでしょ?魔王っぽくないっていうかね……」
そう言われて、ユーゴが改めて目の前の女性を観察してみると、確かにスタイルもよく美形だが、半分しか魔物化していない。背中に羽が生えているが、完全な魔物かと問われると疑問の余地が残る状態だ。
「その点、あんたのビジュアルはいかにも“魔王”って感じじゃない?魔王になっちゃおう!」
ひどく楽しそうにそう言われ、ユーゴは“魔物”として生きる人生も悪くないような気がしてきた。
「でも……この息苦しさは……なんとか……」
「あぁ!そうだね。ちょっと待っていてね」
そういうと女性はユーゴの額に手を振りかざし、小さく呪文を唱える。少しするとフワリと冷たい空気がユーゴをつつみ瞬時に息苦しさが消えた。
「すごい……」
「うふふふ。伊達に十四年近くここに住んでいないわよ」
「あ、ありがとうございます。僕、ユーゴです」
先ほどまで自分を襲っていた不快感がなくなり、ユーゴは自己紹介をしていなかったことに気付く。
「ユーゴ!素敵な名前ね。私はアデライン。よろしくね」
“魔王”と“邪悪な側近”が出会った瞬間でもあった。