追いかけっこ
人ごみの中をとりあえず走り出したユウだったが、だからと言ってアテルの姿を見つけたという訳ではなかった。
ユウにしてみれば、その場でただ黙って待っていても仕方がないから動き出しただけで、アテルの行った方向がわかっていた訳ではない。
なので、下手をすると、アテルが行った方向とは逆方向に走ってしまう可能性もあったのだが、結果としてユウはそのイチかバチかの賭けに勝った。
人ごみの先にアテルの姿を見つける事が出来たからだ。
と言っても、アテルの姿が見えたのは一瞬の事でしかなかったのだが、それでも追いかける方向が間違っていなかった事はわかる訳で、後はなんとか距離を詰めていけば良い。
わかった事は他にも有った。
それは、アテルは誰かと一緒にいる訳ではなく、一人でいるという事だ。
つまり、アテルは誰かに捕まったとか、さらわれたとかいう事ではなく、自らの意志で動いているという事になる。
そんな事をする理由についてはわからないが、とりあえず、最悪の事態ではなさそうだ。
だからと言って、安心出来る訳ではない。
万が一この間にアテルに何かあれば、フィルスやラインラに申し開きが出来ない。
こんな時、この場にフィノがいてくれれば恐らくはこんな人ごみなどものともせずアテルの身を確保してくれるのだろうが、残念ながらこの場にフィノはいないし、今から呼ぶ事については出来ない事もないが、今一緒にいるはずのラビアをその場に残し、すぐに来るように、などとは頼めない。
つまり、この場はユウだけで何とかしなければならないという事になる。
アテルとユウとの距離は、少し近づいたような、そうでも無い様な、微妙な距離がいまだに続いていて、ユウはその距離を詰め切らないでいる。
それがわかるのは、人混みの合間にアテルの姿が時折見える事があるからだ。
逆に言えば、時々しか姿は見えない訳で、見えてもすぐに姿が消えてしまうというのはどういう事かと不審に思っていたのだが、ずっと追いかけているうちにその理由がわかって来た。
アテルは走りながらちょくちょく身を屈めているようなのだ。
しかもよく見ると、時折、前にいる人を必要以上に大きく迂回していく事がある。
その度にユウとの距離がぐっと詰まってくるので、助かると言えば助かるのだが、なぜそんな動き方をするのかはわからない。
更に行くと、人通りも徐々に少なくなってきた。
そのおかげで、アテルの姿がはっきり見える様になってくる。
アテルはやはり一人のようだ。
近くにアテルと並んで走る者はいない。
いや、いた。
アテルが走る少し先に、小さな黒い影が見え隠れしている。
猫だ。
アテルは猫を追いかけていたらしい。
奇妙な動きをしていたのは猫が左右に振れていたからで、ちょくちょく姿が見えなくなっていたのは、その猫を捕まえるべく姿勢を低くしていたからのようだ。
しかし、よく見るとその猫は本気で逃げている訳ではないようにも見える。
必死で追いかけるアテルの事をあざ笑うかのように、少し行っては止まる、行っては止まるを繰り返し、捕まえる事の出来ない絶妙の距離を保っている。
ユウは、だいぶ人通りが少なくなってきたその道の、アテルと猫が追いかけっこをしているのとは反対側の端を走り、アテルに追いつかれそうになった猫が、前から歩いて来た通行人の周りをぐるっと回って逃げているその間に、彼等を追い越し、彼らの前方へと回り込んだ。
そして、再び真っ直ぐ走り始めた猫の前に立ち、猫を捕まえるべく両手を広げた。
意外な事に、猫はユウの事を避ける訳でもなく、正面からユウの胸に真っ直ぐ飛びこんできた。
こうしてユウは、ユウ自身でも驚くほどあっけなくその猫を捕まえる事に成功したのだった。
猫にしてみれば、加速し始めた所に、急にユウが現れた格好になった為、避けきれなかっただけなのかもしれないが、猫はユウに捕まってからも、特に激しく逃げようとしたりはしていない。
何処かの飼い猫なのか、人には慣れているという印象だ。
ずっと追いかけていた猫を突然現れたユウに攫われた格好になったアテルは、明らかに動揺しているようだった。
「ユウさん、どうしてここに…」
「どうしても何もないだろう。アテルがいなくなったから、追いかけて来たんじゃないか。アテルの事を行方不明にしたりしたら、フィルスに何と言って詫びたらいいかわからないだろ」
ユウが少し強い口調でアテルを諭すと、アテルは申し訳なさそうに背中を屈め小さくなった。
「ごめんなさい。だけど…」
「だけどじゃないだろ。人ごみで手を離したらダメじゃないか」
ユウが更に一押しすると、アテルは渋々静かになった。
だが、アテルの目はどこか恨めしそうな光を携えている。
しかし、その目はユウに向けられている訳ではないようだった。
視線が微妙に合わないのだ。
改めて冷静にその視線を追いかけてみると、アテルの視線はユウの胸の辺りに留まっている。
そこにいるのは、猫だ。
「ひょっとして、アテルはこの猫が飼いたかったのか?」
この猫は、妙に馴れ馴れしくして来る事から、もしかしたらどこかの家の飼い猫かもしれないと、ユウは思っていた。
なので、ユウとしてはなるべく飼う事を前提としないような言い方でアテルに聞いてみたつもりだった。
が、アテルから返ってきたのは意外な言葉だった。
「そいつの名前はルナ。ラビアの猫だよ」
思わずユウは胸に抱いていたその黒猫に視線を落とした。




