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拾った野良猫が、呪われた王子様でした  作者: S@Y@


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2/2

第二話 王子様、猫の生活に屈する


 朝。


 アレクシスは、人生で最も屈辱的な目覚めを迎えた。


「……ニャ?」


 目を開けると、目の前に赤い布地があった。


 柔らかく、温かい。


 しかも、なんだかいい匂いがする。


 状況を理解するまで、数秒かかった。


 自分は今、誰かの胸元に顔を埋めている。


 正確には――ローゼリアの腕の中で眠っていた。


「…………」


 アレクシスは固まった。


(なぜだ)


 昨夜は確か、彼女に拾われた。


 それから魚を食べさせられ、屋敷に連れてこられ、気づけば眠っていた。


 そこまでは覚えている。


 だが、なぜ今、彼女に抱きしめられているのだ。


 王族としての尊厳はどこへいった。


 そもそも、自分は男だ。


 いや、今は猫だが。


 そういう問題ではない。


(起きろ! 離れろ! いや、離してもらえ!)


 心の中で必死に命じる。


 しかし、身体は思うように動かなかった。


 ローゼリアの腕が、思いのほか心地よかったからだ。


 しかも、彼女は寝ぼけているらしい。


「んー……チビ、あったけぇ……」


 ぎゅうっ。


「ニャアッ!?」


 抱きしめられた。


(おい! 苦しい! 離せ!)


「……もうちょっとだけ……」


 ローゼリアは幸せそうに寝息を立てている。


 アレクシスは暴れようとした。


 だが、彼女の顔が目に入った瞬間、動きが止まった。


 普段は気の強そうな顔をしている少女だ。


 口を開けば乱暴な言葉ばかり。


 誰に対しても遠慮がなく、恐れ知らずで、まるで何も怖くないかのように振る舞う。


 けれど、眠っている彼女は違った。


 眉間にかすかな皺が寄っている。


 まるで、夢の中でも何かと戦っているようだった。


「……」


 アレクシスは、そっと彼女の顔を見上げた。


 そのとき。


「……ごめんね」


 小さな声が聞こえた。


 ローゼリアの唇からこぼれた言葉だった。


「ごめん……」


 誰に謝っているのか。


 何を謝っているのか。


 アレクシスにはわからない。


 ただ、その声がひどく悲しそうだったことだけはわかった。


 やがて彼女の表情から力が抜け、静かな寝息が戻ってくる。


 アレクシスはしばらく考えたあと、彼女の腕の中で目を閉じた。


(……今だけだ)


 そう自分に言い聞かせる。


(今だけ、ここにいてやる)


 誰にも聞かれない言い訳をしながら。


 彼はもう一度、眠りに落ちた。


     *


「おい、チビ。起きろ」


 それから一時間後。


 アレクシスは、無情にもベッドから引きずり出された。


「ニャアアアッ!」


「なんだよ。飯だぞ」


「……ニャ?」


 飯。


 その言葉に、彼の耳がぴくりと動いた。


「ほら、こっち」


 ローゼリアが指さした先には、小さな皿があった。


 中身は、昨夜と同じ魚。


 ただし、今度は少し冷めている。


 アレクシスは皿の前に座った。


(……まあ、仕方ない)


 王宮に戻るまでの辛抱だ。


 食事が質素なのも、椅子がないのも、猫扱いされるのも、すべて一時的なこと。


 そう思いながら魚に口をつけた、そのとき。


「チビ、ちょっと待て」


「ニャ?」


 ローゼリアが何かを持ってきた。


 首輪だった。


 赤い革に、小さな金色の鈴がついている。


「…………」


 アレクシスは、ゆっくりと顔を上げた。


 そして、首輪を見た。


 もう一度、ローゼリアを見た。


「ニャアアアッ!!」


「うわっ、なんだよ!?」


 アレクシスは全力で逃げた。


 首輪など、断固拒否だ。


 王子が首輪をつけるなど、あってはならない。


 しかも鈴つき。


 歩くたびに音が鳴るではないか。


 そんなものをつけられたら、威厳も何もあったものではない。


「おい、待て!」


「フシャーッ!」


「誰がそんなに嫌がれって言ったよ!」


 ローゼリアは猫を追いかけ、アレクシスは部屋中を逃げ回った。


 テーブルの下。


 ソファの裏。


 カーテンの陰。


 最後には、本棚の上にまで登った。


「……お前、運動神経いいな」


(誰のせいだと思っている!)


「でも、そこじゃ首輪つけられねえな……」


(つけるな!)


 ローゼリアは腕を組み、しばらく考えた。


 そして、にやりと笑った。


「よし。魚と交換だ」


「……ニャ?」


 彼女が差し出したのは、焼きたての魚だった。


 香ばしい匂いが漂う。


 アレクシスの視線が、魚に釘づけになった。


 いや、待て。


 これは罠だ。


 王族としての誇りを思い出せ。


 魚などで釣られるわけには――。


「ほら、チビ。おいで」


「…………」


 アレクシスは、本棚から降りた。


 魚のほうへ、一歩。


 もう一歩。


 そして。


「よし、捕まえた!」


「ニャアアアッ!?」


 首輪がついた。


 チリン。


 小さな鈴が鳴った。


 アレクシスは絶望した。


 ローゼリアは腹を抱えて笑っている。


「はははっ! 似合うじゃねえか!」


「…………」


「なんだよ、その顔!」


 アレクシスは彼女を睨みつけた。


 この女。


 絶対に覚えていろ。


 いつか人間に戻ったら、必ずこの屈辱を――。


「かわいいな、チビ」


 ローゼリアが、彼の頭を撫でた。


「よしよし」


「…………」


 アレクシスは、何も言えなくなった。


 猫の身体は正直だった。


 撫でられると、どうにも気持ちがいい。


 喉の奥から、勝手に音が出た。


 ゴロゴロゴロ……。


「……ん?」


 ローゼリアが手を止める。


「お前、今、喉鳴らしたか?」


「……!」


 アレクシスは飛び上がった。


 違う。


 これは違う。


 断じて、喜んでいるわけではない。


 猫の身体が勝手に反応しただけだ。


 そうだ。


 そうに決まっている。


「ははっ。なんだよ、甘えん坊じゃねえか」


「ニャッ!」


 アレクシスは、彼女の手に軽く噛みついた。


「いてっ! こら!」


 ようやく、少しだけ溜飲が下がった。


     *


 昼過ぎ。


 ローゼリアは身支度を整えていた。


 黒いジャケットを羽織り、髪を結び直し、手袋をはめる。


 朝の寝ぼけた姿とは打って変わって、鋭い雰囲気が戻っていた。


「さて、出かけるか」


「……ニャ?」


 アレクシスは首を傾げた。


 どこへ行くのだろう。


「お前は留守番な。変なもん食うなよ」


(誰がそんなことをするか!)


 ローゼリアは玄関へ向かった。


 しかし、扉を開ける直前で足を止めた。


「……ああ、そうだ」


 振り返る。


「誰も来ても、開けるなよ」


 もちろん、猫にそんなことを言っても仕方がない。


 それでも彼女は、念を押すように繰り返した。


「絶対だぞ」


 その声に、アレクシスは妙な違和感を覚えた。


 ただの留守番を頼んでいるにしては、妙に真剣だった。


「じゃ、行ってくる」


 扉が閉まる。


 屋敷は静かになった。


 アレクシスは窓辺へ移動し、外を眺めた。


 庭には雑草が生えている。


 手入れの行き届いていない花壇。


 壊れかけた噴水。


 公爵家の別邸とは思えないほど、寂れた屋敷だった。


(……なぜ、こんな場所に一人で住んでいるんだ?)


 公爵令嬢なら、普通は家族と暮らすものだ。


 侍女も、執事も、護衛もいるはず。


 だが、この屋敷には誰もいない。


 少なくとも、アレクシスが見た限りでは。


 彼は窓辺で考え込んだ。


 そのときだった。


 玄関の外から、声が聞こえた。


「ローゼリア様はいらっしゃいますか?」


 男の声だ。


 アレクシスは耳を立てた。


「ヴァレンタイン公爵家の者です。少々、お話がありまして」


 ローゼリアは、誰が来ても開けるなと言った。


 だが。


(公爵家の人間なら、彼女の知り合いかもしれない)


 アレクシスは玄関へ向かった。


 猫の姿でも、王子としての判断力は失われていない。


 相手が信用できる人物かどうか、確かめるくらいはできる。


 扉の隙間から外を覗こうとした、その瞬間。


「……ああ、いないのか」


 男が、低く呟いた。


「なら、ちょうどいい」


 その声色が変わった。


「例の件、そろそろ決着をつけてもらわなければ困るんだがな」


 アレクシスの背筋に、冷たいものが走った。


 例の件。


 決着。


 男の声には、明らかな苛立ちが滲んでいた。


 そして、続く言葉。


「……あの女も、いつまで強情を張るつもりだ」


 アレクシスは息を潜めた。


 男は扉を叩いた。


 返事はない。


 しばらくすると、足音が遠ざかっていった。


 アレクシスは、ゆっくりと後ずさった。


(……何者だ?)


 ローゼリアの知り合いではないのか。


 それとも、彼女が隠している何かに関係しているのか。


 考え込んでいると、玄関の扉が開いた。


「ただいまー」


「ニャッ!?」


 ローゼリアが帰ってきた。


 アレクシスは慌てて駆け寄った。


「ん? どうした、チビ」


 彼は彼女の足元で鳴いた。


 玄関を見ろ。


 誰かが来た。


 妙なことを言っていた。


 そう伝えようとする。


「ニャッ、ニャニャッ!」


「……なんだ?」


 ローゼリアは首を傾げた。


「腹減ったのか?」


「ニャアアッ!」


「はいはい。今、飯にするから」


(違う!!)


 彼女は気づかない。


 いや、気づけるはずもない。


 アレクシスは悔しさに尻尾を振った。


 だが、次の瞬間。


 ローゼリアの表情が、ほんのわずかに曇った。


「……誰か、来た?」


「……!」


 アレクシスは顔を上げた。


 彼女は玄関の扉を見つめていた。


「……気のせいか」


 そう呟き、笑顔を作る。


「ま、いいや。チビ、今日はいい魚が手に入ったぞ!」


 彼女はいつも通りだった。


 いつも通り、明るく。


 いつも通り、乱暴で。


 いつも通り、何もなかったように振る舞っている。


 けれどアレクシスには、わかった。


 彼女は何かを隠している。


 そして、その何かは決して軽いものではない。


     *


 その夜。


 ローゼリアは窓辺に座っていた。


 膝の上には、黒猫が一匹。


 アレクシスは、彼女の横顔を見上げていた。


 昼間の男のことを聞きたかった。


 何があったのか。


 なぜ、一人で暮らしているのか。


 なぜ、あんな寂しい屋敷に住んでいるのか。


 けれど、言葉が通じない。


 何も聞けない。


「……なあ、チビ」


 ローゼリアが口を開いた。


「お前、ずっとここにいるのか?」


「……ニャ?」


「いや。いつか飼い主が見つかったら、返さなきゃいけねえだろ」


 彼女は、窓の外を見つめていた。


「……そのときは、ちゃんと送り出してやるからな」


 アレクシスは、彼女の顔を見た。


 その表情は笑っているようで、どこか寂しそうだった。


「……なんてな」


 ローゼリアは、彼の頭を撫でた。


「お前、案外気に入ったわ」


 アレクシスの心臓が、小さく跳ねた。


「生意気だし、態度でかいし、首輪は嫌がるし」


「……ニャ」


「でも、なんか……」


 彼女の手が止まった。


「……一人じゃないって、いいもんだな」


 その言葉は、ひどく小さかった。


 聞き逃してしまいそうなほど。


 けれど、アレクシスにははっきりと聞こえた。


 ローゼリアは、笑っていた。


 いつものように、強気な顔で。


 誰にも弱みを見せない少女の顔で。


 それでも。


 彼女の指先は、ほんの少し震えていた。


 アレクシスは、そっと彼女の手に頭を擦り寄せた。


「……ん?」


 ローゼリアが目を丸くする。


「なんだよ。甘えたいのか?」


「ニャ」


「ははっ。仕方ねえな」


 彼女は笑い、黒猫を抱きしめた。


 今朝と同じように、温かい腕の中。


 けれど今度は、アレクシスのほうから離れようとは思わなかった。


 王宮に戻らなければならない。


 呪いを解かなければならない。


 自分を陥れた者を見つけなければならない。


 それは変わらない。


 だが。


 この屋敷を離れることを考えると、なぜか胸の奥がざわついた。


 まだ二日も経っていない。


 それなのに。


(……私は、何を考えているんだ)


 アレクシスは目を閉じた。


 今はまだ、猫の姿でいるしかない。


 そう自分に言い聞かせながら。


 ローゼリアの腕の中で、静かに喉を鳴らした。


 チリン。


 首輪の鈴が、小さく響く。


 ローゼリアはその音を聞いて、くすりと笑った。


「おやすみ、チビ」


 アレクシスは答える代わりに、彼女の指先へ頬を寄せた。


 ――このとき、彼はまだ知らなかった。


 自分を呪った者の手が、すでにローゼリアの人生にも伸びていることを。


 そして、彼女が一人で抱え続けてきた秘密が、やがて二人を逃げ場のない運命へと導くことを。


 ただ一つ、確かなことがあった。


 この夜。


 アレクシスは初めて、自分から彼女のそばにいたいと思ったのだった。

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