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君と、終わりの向こう側へ  作者: 亀


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第一章 明日の悩みは、明日考える

第七街区の雨は、いつだって理由がない。


石畳を濡らす雨粒は、昼も夜も関係なく降り続ける。


雨に洗われた道は鈍く光り、街角に並ぶ古い店々の軒先から、細い水の筋がいくつも垂れていた。


その一角に、色の褪せた木製の看板を掲げた店がある。


――万事修理店。


名前だけは立派だが、店そのものは決して立派ではない。


入口の看板は半分ほど外れかけ、窓ガラスには細かな傷が入り、店内には古い機械部品や工具が所狭しと積み上げられている。


それでも、店の前には今日も湯気が立っていた。


豚骨ラーメンの匂いだった。


「店主さん。あんたの看板、もう落ちる寸前じゃないかい」


隣の雑貨屋のおばさんが、傘を差したまま呆れた顔で言った。


店の入口では、一人の青年がしゃがみ込んでいる。


手には、折れた竹串。


それで食後の歯を適当に掃除しながら、青年は面倒くさそうに顔を上げた。


林夏。


この店の店主である。


色の褪せた作業着には、ところどころ機械油が染みついている。


寝癖のついた髪。


少しだらしない格好。


そして、いつ見ても緊張感のない笑顔。


「張おばさん、それは違うよ」


「何が違うんだい」


「これはね、『古びた美学』ってやつ」


林夏は折れた竹串を指でくるくる回しながら、看板を見上げた。


「それに、釘なんて壊れたら打ち直せばいいんだよ」


「だったら早く直しな」


「でもさ」


林夏は、店の中に置かれた空のラーメン丼をちらりと見た。


「看板を直すために、この熱々のラーメンを食べる時間がなくなったら、それこそ人生の意味がなくなるだろ?」


「……あんた、本当にどうしようもないね」


張おばさんは呆れたように首を振った。


「外の話、聞いてないのかい?」


「外?」


「北のほう。最近、また変なことが起きてるらしいよ」


林夏は少しだけ眉を上げた。


「なんでも、命軌の支流がいくつかおかしくなってるとか。人の記憶が飛んだり、同じ一日を繰り返したり……」


「へえ」


「へえ、じゃないよ」


張おばさんは声を落とした。


「このままだと、第七街区まで影響が来るかもしれないって話だ」


林夏はしばらく黙っていた。


それから、残っていたスープを一気に飲み干した。


「まあ、その話は明日考えよう」


「またそれかい」


林夏は笑った。


「明日のことは、明日考えればいいんだよ」


「まったく……」


張おばさんはため息をつきながら、雨の向こうへ歩いていった。


林夏はその背中を見送った。


笑顔は、まだ残っている。


けれど、ほんの一瞬だけ。


その目から、軽さが消えた。


北の空を見上げる。


雨雲の向こう。


何かが起きている。


それくらいのことは、林夏にも分かっていた。


――だが。


「……まあ、今日は今日だ」


小さく呟いて、彼は店の中へ戻ろうとした。


その瞬間だった。


バタバタバタッ――。


激しい足音が、雨音の向こうから近づいてきた。


林夏が振り返る。


「ん?」


次の瞬間。


一人の少女が、店の入口へ転がり込むように倒れ込んだ。


「うわっ」


林夏が慌てて一歩下がる。


少女は数歩よろめいたあと、冷たいカウンターに手をついた。


息が荒い。


肩で呼吸をしている。


濃い色のコートは何かに切り裂かれたように大きく破れ、その隙間から白い肌が覗いていた。


左肩を右手で強く押さえている。


指の間から、赤い血が流れていた。


林夏の笑顔が消えた。


「……大丈夫?」


少女は答えない。


ただ、ゆっくりと顔を上げた。


その瞳は、驚くほど澄んでいた。


冷たい。


静かで。


そして、何かをとうに諦めてしまったような目だった。


その瞬間。


店の奥から、


――キィィィィン!


甲高い警報音が響いた。


林夏が振り返る。


古びた機械式の測定器。


普段は壊れかけた部品を調べるためだけに使っている機械だ。


その針が、ありえない速度で逆方向へ回転している。


「……え?」


林夏が近づく。


針は止まらない。


カタカタカタカタッ――。


機械全体が震え始めた。


店内の空気が、ほんの少しだけ歪んだ。


少女はその音を聞いて、苦しそうに目を閉じた。


「……やっぱり」


「何が?」


少女は林夏を見る。


「ここも……駄目だった」


「いや、まだ何も壊れてないけど」


「あなた」


「うん?」


「ここは……どこ?」


林夏は一瞬考えた。


そして、店の入口に掛かっている看板を指差した。


「万事修理店」


少女は黙って看板を見る。


「……修理店?」


「そう」


林夏は頷いた。


「ただし、人間は専門外」


「……」


「でも、怪我の手当くらいならできる」


少女は何かを言おうとした。


だが、その前に身体がふらついた。


林夏が慌てて支える。


「おっと」


少女の身体は驚くほど軽かった。


そして、近づいた瞬間。


林夏ははっきりと血の匂いを感じた。


「これは……病院に行ったほうがいいな」


「駄目」


「即答?」


「私を追っている人たちがいる」


「なるほど」


林夏は少女の顔を見た。


「じゃあ、なおさらここにいるのは危ないんじゃない?」


少女は首を横に振った。


「あなたも危ない」


「俺?」


「私に近づかないで」


声は弱い。


それでも、その言葉だけは妙に強かった。


「私の命軌は……もう正常じゃない」


林夏は黙って聞いていた。


「私に関わった人は、命運修正機構に異常因子として認識される」


少女は息を整えながら続ける。


「そして、修正される」


林夏はしばらく黙っていた。


それから少女の肩を見た。


次に、床に落ちた血を見る。


そしてもう一度、少女を見る。


「……つまり」


「何?」


「かなり面倒くさい状況ってこと?」


少女の表情が固まった。


「……あなた、本当に分かってる?」


「分かってるよ」


林夏は笑った。


「死ぬかもしれないんだろ?」


少女は答えなかった。


「だったら――」


林夏は店の奥へ歩いていく。


棚を開ける。


中から埃をかぶった救急箱を取り出した。


「まず血を止めよう」


「……どうして?」


「どうしてって?」


林夏は不思議そうに首を傾げた。


「怪我してる人が目の前にいたら、普通そうするだろ」


「でも……」


「命軌とか修正機構とか、難しい話は後でいい」


林夏は救急箱をカウンターに置いた。


その中から包帯と消毒液を取り出す。


そして、小さな椅子を少女の前に置いた。


「座って」


「……」


「大丈夫」


林夏は笑う。


「手当の料金は取らないよ」


「……本当に?」


「うん」


少し考えてから、付け加える。


「ただし、店の床を血で汚した分は、あとで掃除してもらう」


少女は目を見開いた。


それから――


ほんの一瞬だけ。


口元が動いた。


笑ったのか。


それとも、ただ力が抜けただけなのか。


林夏には分からなかった。


窓の外では、雨がさらに強くなっていた。


第七街区の風鈴が、風に揺れている。


チリン。


チリン。


その音に混じって、古い測定器の針が再び動いた。


誰にも見えない場所で。


少女の命軌と、林夏の命軌が。


本来なら交わるはずのなかった二つの線が――


静かに、重なり始めていた。

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