3 白の書き損じ
「ネタ切れだ!」
リットの叫びが執務室に響く。
「嘘でしょう? リット様」
トウリが食い下がる。
「あなた様の羽根ペンをもってすれば――」
「ええい、俺を何だと思っている? ネタ切れだってあるぞ!」
「威張らないでください」
ガタン、とリットが席を立つ。
「ないものは、ない」
「珍しく正論ですね」
トウリが手にしていた書物を閉じる。主人の前で、それについて熱弁を振るっていた。
「しかし、リット様。愛読者たちは、待ち望んでいます」
真剣な表情で、トウリが言う。
「『白雪騎士物語』の最新刊を!」
書物を掲げて見せた。
「今や城内をはじめ、城下や地方まで。その人気は留まりません!」
リットは答えず、窓際へと移動する。昼下がりの穏やかな午後、城壁に蒼い旗が翻っている。
「嬉しいことだな。国外逃亡できる資金がたまったぞ」
「逃がしませんよ。地の果てでも追いかけます」
「怖い侍従を持って、俺は幸せ者だなあ」
「ジュデウス先代伯爵夫人から、紅茶が届いていますが」
「それを先に言え」
きらっと、リットの目が光る。
「逃げるんじゃないのですか?」
呆れるトウリに、リットが首を横に振った。
「職務を放棄して国外へ行くなど。畏れ多い」
「確実に、首チョンパですね」
「その前に紅茶が飲みたい」
「変わり身の早い」
トウリがため息をつく。
「今、湯をもらってきますから。大人しく待っていてください」
「うん」
リットが頷く。窓からの日差しを受けて、茶色の髪が金色に透ける。
「三十秒で戻ってこい」
「物理的に無理です」
えー? とリットが不満を漏らした。
「俺の侍従だぞ。できるだろう」
「『白雪騎士物語』の続きを今すぐ書いてくださるなら」
「湯で火傷したら危ないからな。ゆっくりでいい」
トウリが胡乱げに主人を見る。
執務室のドアがノックされた。
「邪魔するぞ、リット」
「ああ、ジンか」
リットが窓の近くの椅子に座り、小卓で書き物をしている。書き上げた洋紙が、床の上に落ちる。
「仕事は執務机でやったらどうだ?」
「んー? 仕事じゃないから、どこでもいい」
パサリ、パサリ。
床に落ちる一枚を、ジンが拾う。
「これは……」
流麗な文字で綴られていたのは、恋文ではない。
「ん? 読んでの通り」
「『白雪騎士物語』の続編か?」
「そー」
言葉だけでリットが頷く。その手が止まることはない。
「読んでも?」
「いいけど。俺に用があったんじゃないのか? ジン」
「急ぎじゃない。それに、これとも関係がある」
「そうか?」
パサリ。
また一枚、書き上げた原稿が床に落ちる。
「お待たせしました!」
湯の入ったポットを持ち、トウリが戻って来た。
「あっ、ジン様!」
トウリが笑顔になる。
「やあ、トウリ。邪魔しているぞ」
「少しお待ちください。今、紅茶を淹れ――」
トウリの言葉が途切れた。
その瞳は、小卓に向かう主人の姿に釘付けになる。
「リット様!」
「んー?」
「か、書いているのですね!」
「トウリ。見ての通りだ」
リットが羽根ペンを止める。
「それで、紅茶は?」
「お、お待ちを!」
湯のポットを部屋の隅のテーブルに置く。
紅茶の準備をしながら、トウリが言う。
「ネタ切れ、解消したのですね!」
ジンが首を捻る。
「ん? ネタ切れだったのか」
「まーな。一時的な」
くるくると、リットが羽根ペンを円を宙に書く。
「それで、ジン。急ぎじゃない用事とは、なんだ」
ジンが床に散らばった洋紙を拾い集め、リットへ手渡した。
「弟妹が、『白雪騎士物語』を読みたいそうだ」
「ほう」
リットの翡翠色の目が瞬く。
「インク屋に行けばいい。クードなら、格安で売ってくれるぞ」
「いや。既刊は、すでに読んでいる」
ジンがため息をついた。
「……最新刊を心待ちにしている」
「うおう」
リットが眉を寄せた。手の中の、書き上げた原稿に目を落とす。
「もしかしなくとも、催促に来たのか?」
「いや、その。えーと」
ジンの視線が泳ぐ。
「よ、予定だけ。聞きに来たんだ……」
「ジン! ああ、お前もか!」
芝居がかった様子で、リットが嘆いた。
「夜空を統べる月神よ! ご照覧あれ! 哀れな物書きがインクで手を汚し――」
「きれいな手だな」
ジンが呟いた。
羽根ペンを持つリットの手に、インク汚れは一切ない。
「……少しは嘆かせてくれ、友よ」
「悲劇は嫌いなんじゃないのか、友よ」
リットとジンが、揃って肩をすくめた。
「お待たせしました」
トウリが片手でトレーを運ぶ。
「ジン様も、どうぞ座ってください」
「ああ。すまないな、トウリ」
トウリが、小卓の上に湯気の立つカップを置く。華やかな香りが漂う。
「ん」
「はい。リット様」
差し出された原稿を受け取り、トウリは執務机の上に置いた。
「あと何枚ですか?」
そう訊ねれば、カップを持ったリットの手が止まる。
「……まだ、三分の一」
「やれます、書けます、頑張れます!」
トウリの応援に、リットが乾いた笑いを浮かべる。
「はっはっは。愛読者からの応援は、力になるなあ」
「お望みならば、いくらでも!」
「勘弁してくれ。トウリ」
ずずず、とリットが紅茶に口をつける。
「美味いな、これ」
同じように、一口飲んだジンが呟いた。
「ジュデウス先代伯爵夫人からの、もらい物だ」
「ジュデウス伯?」
ジンの灰青色の目が瞬いた。
「急な病で亡くなられた、あのジュデウス伯か」
「そのご夫人、アイナ様からだ」
「何故」
「んー? かくかく、しかじか」
「いや。わからん」
ジンが眉を寄せる。
「恋文の代筆のことで、ちょっとな。あとは言えん」
「そうか」
あっさりとジンが引き下がる。紅茶を飲む。
「それで。お前は、恋人と進展あったのか」
リットの言葉に、ジンが紅茶を吹き出しそうになる。
「ぐっふ……。な、なんの話だ」
「だから、恋人と――」
「シズナどのとは、そんな関係じゃない!」
耳まで赤くして、ジンが叫ぶ。
「ほー?」
にやり、とリットが嗤った。
「俺は一言も、シズナどのとは言っていないんだが」
「うぐっ」
「どうして隣国シンバルの、第一王女付き騎士どのの名が出てくる?」
「そ、それは……」
ジンが盛大に目を逸らす。
「さ、最近、手紙をやり取りしている、唯一の、女性だから……」
「ほーう?」
リットは追撃の手を緩めない。
「あまたのご令嬢から恋文が来て、お断り返事書きに半泣きだったお前がなぁ」
「泣いてはいない」
凛とした表情で、ジンが否定する。
「ぶっは!」
リットが噴き出した。
「気にするのは、そこか!」
「断じて、泣いていない」
壁際に控えたトウリが、笑うのを堪えてぷるぷる震えている。
「騎士の矜持に懸けて。泣いてはいないぞ?」
「いや、懸けるなよ」
はー、と深い息をついて、リットが椅子の背もたれに身を預けた。
「その様子じゃ、甘い言葉一つ、手紙に書いていないようだ」
「必要か?」
ジンがリットを軽く睨む。
「『凛々しい騎士の姿も素敵だが、あなたのドレス姿も見てみたい。夜会で愛のヴァツルを踊ろう。また二人きりで』――ぐらい書け」
ジンが考え込むように、口元を手で押さえた。
「……いや、ちょっと」
「俺は見たいぞ」
さらりとリットが言う。
「シズナどののドレス姿」
「何!」
ガタタッ、とジンが腰を浮かしかける。
「なあ、トウリ」
「僕に話を振らないでください」
「見たい、見たくない。二択だ」
「見たいです!」
表情を輝かせてトウリが言った。
「きっと、お美しいですよ」
「だ、そうだ。ジン」
リットの言葉に、ジンがゆっくりと椅子に座る。
「……それは、おれ、だって」
「見たいんだな? シズナどののドレス姿」
「しかし……、シズナどのは騎士だ。たとえ夜会が開かれたとしても、騎士の正装だろう」
「まーな。それが現実的だが」
リットが紅茶を飲む。
「その内、機会があるだろ」
「……そう願いたい」
ジンが息をつき、天井を仰ぐ。
「また、書き損じの日々だ……」
「恋文の?」
「違う」
茶化したリットが笑った。
「便箋を百枚用意しないと、書き上げられないかな」
「悔しいが、その通りだ」
がしがしと、ジンが頭を掻く。
「前途多難だな」
「お前が羨ましいよ。リット」
「うん?」
「書き損じることは、ないだろう?」
「まーな。これでも宮廷書記官だからな」
リットが紅茶を飲み干す。
「おれの方がインクで手を汚しているな」
ジンの盛大なため息が、執務室に響く。
リットの目がキラリと光る。
「ああ、夜空を統べる月神よ! ご照覧あれ! 哀れな恋の囚われ人がインクで手を汚し――」
「おれは恋の囚われ人じゃない!」
ジンが頭を抱える。
「そうか。それなら、悲劇にならないように励め、友よ」
リットが笑う。