しゃれこうべの辻 その7
春。
あと数ヶ月しかない。
まだ雪すら迎えていない季節にあって、雲は近い未来の自分の姿を想像することができなかった。
「雲よ、わたしは明日には発つだろう」
さりげなく、敬がつぶやいた。
「母上が、戦場になどいくなと、うるさいからな。いまも、まだ泣いておる」
正妻のことはあまり好きではないが、さすがに泣いていると聞けば、同情の気持ちが出てくる。
雲が眉をしかめると、敬は雲と同様に土塁のうえに膝をかかえて、眼下にある趙家をながめた。
「おまえの気性はだれに似たのかな。嫌いなはずのわが母にまで同情できるのだから、たいしたものだよ。おまえならば、あちらの婿になってもこの家を見捨てずに、守っていけるだろう」
そんなの、ちっともうれしくない。
雲は思ったが、孝行の観点からすれば、口に出してはならないことであったので、我慢した。
「うれしくないという、その気持ちもわかるが」
敬は、雲の心を見透かしたように、そう言った。
雲はあらためて、この次兄のことを不思議に思った。
なぜ、ほかの兄弟たちを差し置いて、末っ子である自分を、これほど気にかけてくれるのか。
「なぜに、わたしがお前にお節介を焼くのか、ふしぎに思っている顔だな。単にわたしはお節介が好きなのだ。それで納得できるか?」
納得できない、と首を振ると、敬は肩をすくめた。
「気むずかしいな。まあ、単なるお節介、というのは、半分は嘘だ。うむ、そんな顔をするな。わたしの嘘、というのは、要するに、法螺ということだ。悪意があってのことではないのだぞ。説明をうまくするのはむずかしい。まあ、お前のことが気になるからだ、ということにしておくか」
それでも、いくら兄弟とはいえ、ほぼ初対面なのである。
それなのに、やたらと自分を贔屓してくれる次兄に、違和感をおぼえてしまうのも仕方のないことであった。
どういうつもりだろうといぶかしむ雲に、敬は手を伸ばすと、雲の頭をくしゃくしゃと撫でて、言った。
「では、こうしよう。お前は、兄弟の中でいちばん、わたしによく似ているからだ。わたしの顔をよく眺めておけ。将来はこういう顔になる」
冗談はともかくとして、たしかに、次兄の言うとおりにはなるだろう、と雲は思った。
敬は、趙家の人間とは思われぬほどに、明るい気性の持ち主なので、雰囲気はちがうだろうが。
だが、目と鼻のかたち、唇の厚さなど、つくりは実によく似ている。
自分も、似たような年になったなら、面差しは、こんなふうになるかもしれない。
「さて、ついでに、なぜ夜中に呼び出したかを教えてやろうか。もちろん、おまえの縁談に関しての祝辞を述べるためさ。おまえが祝言を挙げるころ、わたしは戦場にいるだろうからな。おめでとう、末っ子。おまえの未来は約束されたようなものだ。大手を振って、幸運に向かって歩いていくことができる。わたしのように、遊学を理由に、この家から逃げなくて済むのだ」
逃げる、の言葉に雲はどきりとした。
この兄は侮れない。
「わたしは逃げたのさ。父上がああなる以前から、この家は埃っぽい、退屈な家だった」
突然に話が切り替わり、雲は兄のほうを見ると、さきほどまでの笑みは消え、まじめな顔をしていた。
そうして、ひざをかかえたまま、雲と、しゃれこうべのとなりにならび、闇のなかの故郷を、何物も見逃すまいといったふうに見つめていた。
「とはいえ、母上が許さなかったので、わたしは常山真定から出られなかった。いや、出ようと考えもしなかった。だが、あるとき、旅の一座が、ここをおとずれたことがあってな。いまのおまえと同じ、十四のころだった。ほんの数日だったが、常山真定しか知らなかったわたしには、かれらが、とても力のある、まぶしい光のような存在に見えたよ。
かれらが常山真定を出て行く日、わたしはかれらを見送って、集落のはずれの辻まで行った。おまえも知っているだろう、あの辻は、集落と外界を隔てる、ちょうど境界線になっている。それまでなんとも思わないできたのに、そこに立ったとたん、自分の可能性というものに気がついた。
わたしだって、やろうと思えば、かれらのように、この二本の足で、どこまでも行くことができるのだ。地の果て、海の彼方にだっていける。常山真定に留まっていなければならない理由はなんだ? 祖霊を祀るためか? 父のため? 母のため?
答えはでなかった。ただ、外へ出ようと思ったのだ。そうしてけんめいに母上を口説き落として、きっと孝廉になって見せるからと嘘までついて、十六の年に洛陽へ行ったのだよ」
洛陽。
きらびやかなところなのだろうと想像してみるが、常山真定から出たことのない雲にとっては、どれほどの規模なのかすらわからない。
その洛陽から戻って来た敬が、きゅうに都会人に見えてくる。
雲の目の表情が変わったのに気づいたか、敬は苦笑した。
「洛陽などと聞いても、いまのおまえには千里の彼方に思えるだろうな。だが、行こうと思って、行けない土地はないぞ。洛陽は楽しい所だ。美人もいっぱいいる。学友もできた。だが、奇妙なもので、年を経るごとに、この家から逃げたのだという負い目は、どんどん大きくなっていった。離れた瞬間は、翼でも生えたような心地がして、二度と戻りたくないとさえ思った故郷なのに、それでも、一日たりとも忘れることができなかったのだよ。だから、最期にどうしても戻ってきたかったのさ。だが、もう十分だ」
敬はそう言って、目を伏せる。
表に仮面のようについていた笑顔が消えると、憂愁をおびたその表情は、気味が悪くなるくらいに、自分の未来の姿のように見えた。
「さて、わたしの話を辛抱強く聞いたおまえに、褒美として、おもしろいものを見せてやろう。静かにしているのだぞ。ごらん!」
敬が指さす先には、趙家のそれぞれの夫人の住まう家屋が並んでいる。
冬枯れした木々のあいだに見える土壁の建物は、どれも、どこかうら寂しい。
それぞれの棟には、おおきな窓があり、明かりがともると、中の様子が、手に取るように見えた。
覗き見をしているのだ、という背徳感がうすいのは、浮かび上がる光景から、遠いところにいるために、音声がいっさいないからだろうか。
土塁から、おのれの屋敷までの距離がかなりあるのに、窓の向こうの光景が、こうもはっきり見えることを不思議に思わなかった。
そのときの雲には、見えるのが当然なのだと、そういう気がしていた。
最初に、闇にぽっかりと浮かび上がる光景には、息子の義勇軍参加を嘆いているらしい、老いた正妻の姿があった。
それを侍女と、取り巻きの夫人たちが、けんめいになだめている。
夫人たちのなかには、雲の母親の姿もあった。
競り合うようにして、正妻の寵をあらそう。
母の戦場がそこに展開していた。
母はここで、一生を過ごす覚悟を決めているのだなと、その姿を見て、雲は思った。
母の幸福がなんなのか、それはよくわからない。
ただ、母の幸福に、あまり自分が関わっていないだろうことはわかった。
母の視野のほとんどを正妻が占めいている。
正妻もまた、雲の母を頼りにしているようだ。
その手を取って、しきりに切々と何かを訴えており、雲の母は我慢強く、それを聞いている。
ほかの夫人たちを向こうにまわし、母は母なりに、正妻と、奇妙な友情を育んでいるのだ。
つづく




