筆の神は見ている その2
「わが君に頼んで、先に帰らせてもらったのだよ。わが君は益徳(張飛)どのらがうまくやっているか心配なさっていたが、まったく問題なかった。益徳どのと劉封どのと、たがいに協力し合ってうまくやっていたよ。わたしの出番はなさそうだった」
「ということは、曹操の動きもないか」
「曹賊も、山賊も、水賊も、なんにも動きはない。平和なものさ」
「平和ならよかった。こんな状況で攻め込まれたら、どうにもならぬからな」
「まったくだ。早く風邪の流行が収まるといいのに。無事なのは、予防薬を飲んでいたわたしたちと、後堂の女人たちと、わが君だけだな」
「子方(麋芳)も、だ。ところで、どうしてわが君は、こんな状態で、おまえを州境に連れて行ったのだろう」
隠すつもりであったが、声色に思った以上に棘が出てしまった。
まずったな、と趙雲は思った。
孔明は意外そうに眼を開く。
「曹操との戦いを、わたしは経験したことがないからな。わが君はわたしに、戦場での経験を積ませてやろうと思われたのだ。子龍、よほど参っているようだな」
「すまぬ。慣れない仕事ばかりで、どうにも具合がよくない」
孔明はふむ、となにか一人合点した。
「あなたにしては珍しく弱音を吐いているな。では、すこし気持ちの和らぐ話をしようよ」
「うん?」
「つねづねわたしは気になっていたのだが」
「なんだ」
孔明は急に顔を覗き込んできて、ちょいと手を伸ばすと、趙雲の鼻の下あたりを突いてきた。
「なぜあなたは髭を生やさないのだ」
何を言い出したのか、こいつは。
うろたえつつ、趙雲は答える。
「それは、決まっているだろう」
「決まっている? なにが?」
「わが君が……その、わからぬか」
言い淀む趙雲に、察しのいい孔明は、ああ、そういうことかと相槌を打った。
関羽と張飛がぼうぼうの髭を生やしているのに対し、なぜだか劉備にはほとんど髭がなかった。
まったくないわけではないが、口の周りに申し訳程度に生えている程度なのだ。
劉備自身は気にしない素振りをしているが、じつはとても気にしているのを、もっとも側に仕えている趙雲は知っている。
そこで、趙雲は自分も髭を生やさないことで、劉備の自尊心を守ることにつとめているのだ。
「つきあいのいいことだ。雲長どのや益徳どのはまったく気を遣っていないというのに」
「あの二人に、わが君に悪いと思わないのかと尋ねたことがある」
「思い切ったことをよく聞けたな」
「二人がべろんべろんに酔っぱらっているときに聞いたのさ。そしたら『兄者のぶんまで髭を生やしている』と言うのだ」
それを聞いて、孔明は声を立てて笑った。
「あの二人らしいな。あなたが髭を生やさないことについては、なにか向こうは言ってきたか」
「言ってきた。なので、『軍師も生やしていないだろう』と答えておいた」
「なんだ、最近のはなしなのか。ちなみに子龍、申し訳ないが、わたしが髭を生やさない理由は、わが君ではないぞ」
「うん?」
意外な答えに、趙雲は目の前の青年軍師をまじまじと見た。
中性的な美貌をほこる青年だけに、まさか、「おのれの美を損ねないため」とか言うのでは。
趙雲が危ぶんでいると、孔明はなぜだか誇らしげに言った。
「わたしは天才だからだ」
「率直に言って意味が分からぬ。天才だと髭を生やさないのか。すると、宦官のたぐいはみな天才か」
「へりくつを言うものじゃないよ。あなたは史記を読まなかったのか」
「読んだ」
「なら、張子房(張良)の容姿についての話はおぼえているだろう。張子房の肖像画を見た司馬遷が何と書いていたか?」
「よほどいかつい男かとおもったら、美女とみまごうと容姿だったとかなんとか書いていた」
「それだ」
「どれ」
「察しの悪い。よほど事務仕事で疲れていると見える。天才軍師というものは、美女のような容姿をしているものなのだ。わたしはあいにく司馬遷が見たという張子房の肖像を見たことがないが、きっと『美女』などと形容されるくらいだから、髭がなかったのだ。そうにちがいない」
「そう思い込んで、髭を生やしていないのか?」
「思い込みとは失礼な。きっとそうに決まっている」
なぜ断言できる、と言いかけて、言葉を呑み込んだ。
口論になりそうな気配があったからだ。
「それともうひとつ。妻が、わたしは髭がないほうがいいと言ったからだ」
「ふん?」
「髭がないほうが、顔立ちの上品さが際立つと褒めてくれたのだよ」
今度はのろけか。
あきれていると、孔明はさらにうれしそうに言った。
「妻が言うに、四十を過ぎたら生やしたらいいとのことだ。四十になったら、男は顔に陰影が出てくるからというのが妻の言い分だ」
「そうか?」
「というわけで、あなたも四十になったら生やすといいよ。わたしもあなたも髭がなくても宦官と間違えられることはなさそうだし、わが君への忠誠心を示すことにもなるし、いいのじゃないかな」
なんだか話がうまくまとまってきた。
これ以上、のろけだの自慢だのを聞かされるのは、たとえ孔明の話でも面白くなかったので、
「おまえの言うとおりだろう」
と答えて、話をまとめることにした。
すると、ちょうど孔明の部屋の外から、わざとらしい咳払いが聞こえてきた。
なんだろうと見ると、麋芳が立っている。
「子龍よ、なぜ仕事をほっぽりだして軍師とぺちゃくちゃおしゃべりをしているのかな。軍師どのも、帰ってきたのなら、すぐにたまった仕事を片付けられよ。もとは貴殿の仕事だぞ」
趙雲は、おまえも口を動かさずに手を動かして見ろ、と言いたくなったが、ぐっと我慢した。
口周りを水でぬぐったことで、いくらか気分が落ち着いていたのである。
せっかく落ち着いた気分が、またくさくさし始めては面白くない。
孔明は眉をかるくひそめていたが、麋芳と喧嘩をするつもりはないようで、すぐに、
「ちんたらしていて申し訳ない、すぐに仕事を片付けましょう」
と答えていた。
「おまえにしては大人しいな」
麋芳が去ったあと、趙雲が言うと、孔明は肩をすくめて、答える。
「口論する力を仕事に注ぎたいだけさ。さあ、そろそろ監督官どののいうとおり動こうか。仕事は山ほどあるのだから」
そうして、ふたりは部屋を出て、陳到の待つ部屋へむかう。
廊下をあるきがてら、ちらりと、となりの孔明を盗み見る。
すると、孔明のほうもこちらを観察しているようだった。
そこで趙雲はやっと理解した。
孔明が、張子房がどうの、妻がどうのと、ばかな話をしたのは、趙雲の気持ちをほぐすためだったのだ。
「気遣いをさせたようだな。すまなかった」
口にすると、ふしぎなもので、ほんとうに申し訳ない気持ちになる。
孔明をして、思わず気を遣わせるほどにひどい顔をしていたのだろう。
すると孔明は、軽く笑いながら、
「状況が状況だから、気にしないでくれ。しかし子龍、筆には神が宿るぞ。もう筆をいじめないように」
「筆に謝っておく」
「それがいい。さて、叔至(陳到)はだいじょうぶかな……おやおや、とうとう疲れ果てて、突っ伏して眠っているよ。起こすか寝かせておくべきか、迷うところだな」
孔明の言うとおり、陳到はすっかり音を上げてしまったようで、机の上に器用に突っ伏して居眠りをしてしまっている。
起こそうかと思ったが、孔明はそれを手ぶりで止めてきた。
どうするのかと見ていたら、孔明は陳到の受け持っていた分の竹簡をすべて自分の机に持ってくると、ものすさまじい勢いでさばきはじめた。
魔法、と陳到は言ったが、どちらかというと神業だ。
みるみる竹簡の山が消えていく。
「子龍、筆に謝ったら、あなたも手を動かしてくれ。さすがにこれを一人でやるのはきつい」
孔明にうながされ、趙雲もまたふたたび手をうごかしはじめた。
ともに孔明がいる、というのが心強さにつながったのか、その後の作業は楽だった。
やがて起きてきた陳到とともに書類をさばきにさばき、事務仕事は無事に、すべて終わらせることができた。
※
その後、風邪は大流行したうえ、だんだん重症化していって、さいごに麋芳がかかっておさまった。
さいごの風邪の症状はきついの三文字ではとても表せないようなものだったらしく、麋芳は仕事をなまけたことを後悔したとか、しないとか。
「なまけ者は許さない。これは筆の神の采配だよ。筆の神はすべて見ておられるのだ」
とは、孔明が趙雲に言った、冗談か本気かわからないことばである。
おしまい
最後まで読んでくださったみなさま、どうもありがとうございました。
いまは無きgooブログ「はさみの世界・出張版」6000日目記念に、ブログのみで発表した作品を推敲したものになります。
楽しんでいただけたなら、幸いです♪
いいねも押していただけると、今後の創作の励みになります!
今後も短編・中編の更新は続きます。
ブックマークなどしていただけますと、うれしいです。




