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奇想三国志 英華伝 短編集  作者: 牧 知花
筆の神は見ている
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15/16

筆の神は見ている その1

新野城を舞台にした、長編「臥龍的陣」の前の話です。

どうぞお楽しみください。

建安十三年 春。


趙雲には、劉備のこころがわからなくなることが、たまにある。

いまがまさにそれで、

「なぜ、この空前絶後の人手不足の状態で、州境の視察に孔明も同行させたのか」

ということがわからない。

いま、新野城(しんやじょう)の中はてんやわんや……を通り越して、不気味な静けさに包まれている。

というのも、家臣のうち、文官のほとんどが風邪で倒れてしまって、城の執務室にいないからだ。

まず、文官をたばねている麋竺(びじく)(たち)の悪い風邪をひいたのが原因だった。

しかも麋竺が無理をして城に出てきたのがいけない。

かれを発信源として、風邪はどんどんまわりに移っていき、孫乾(そんけん)簡雍(かんよう)とひろがって、孔明と趙雲たちを飛び越して、最終的には関羽にまでたどり着いた。

趙雲たちが難を逃れたのは、趙雲もよく知らない孔明の謎の妻女が残していった風邪の予防薬とやらをあらかじめ飲んでいたからだ。


ともかく、文武両官の束ねである関羽が抜けたことで、人手不足は深刻化したのだが、間が悪いことに、夏侯惇(かこうとん)の軍がまたちょっかいをかけてきそうだという噂が荊州の州境から流れてきた。

すると劉備は、州境の見張りが張飛と劉封だけというのが心もとないと言い出した。

張飛たちは関羽の代わりに州境にいるのである。

どうやら、劉備のこころのなかには、張飛が酒盛りをしたために呂布(りょふ)に城を奪われたことが頭にあったらしい。

劉封は張飛に調子を合わせがちな若者だったので、不安になったのだろう……そこまでは趙雲も理解できるのだが、なぜ孔明を連れて行ったのか。

ほんとうに、わからない。


出発が急だったので、孔明も仕事を片付けきることができなかったのだろう。

たまりにたまった事務仕事を手の空いているすべての読み書きのできる者がやることになり、武官の趙雲とその副将の陳到(ちんとう)も、とうとう動員されることとなった、というわけだ。



いつもの仕事なら鼻歌()じりに片付けられるが、慣れない事務仕事はそうはいかない。

誤りがあってはみなに迷惑がかかるという重圧もあるし、いい加減な仕事は趙雲の性格上、できない。

それは副将の陳到もおなじようで、かれは借りた執務室の趙雲の隣の席で、懸命に筆を動かしている。

陳到もかなりいっぱいいっぱいのようだ。

それが証拠に、すでに仕事の終わりを告げる太鼓がドンと鳴ったのに、席を立てないでいる。

家族の元へ帰ることだけが至上命題となっているような男が、金縛りに遭ったように机の前に座らざるを得なくなっているのだ。

それほど、片付けても片付けても、仕事がなくならないのである。


「軍師はいつもほとんどおひとりで事務をさばいておられたはず。いったいどんな魔法を使っていたのでしょうな」

と、疲れた様子で陳到がぼやく。

いま、趙雲と陳到は、常日頃は孔明たちが使用している新野城内の一室で、もくもくと手を動かしている。

使い慣れない仮の部屋のため、どうも勝手が悪い。

茣蓙(ござ)の座り心地もよくないし、風邪の流行のせいで人が少ないためやけに静かだし、たまに見張りの麋芳(びほう)が顔をだして上役のようなお小言をいってくるのもうっとうしいし。

自分が孔明の代理をするのは、事情が事情のためしかたないとはいえ、麋芳が上役面をしているのは、なぜなのか。

麋芳は、ちょいちょい趙雲のたちの仮の部屋に来ては、

「うむ、遊んでおらぬな、ご苦労、ご苦労」

などと偉そうなことを言って去っていく。


「あいつめ、今度来たら殴ってやる」

めったに人に対して恨みつらみを口にしない趙雲だが、慣れない仕事を前に疲れが出て、つい本音が出た。

「子龍どの、お気持ちはよーくわかりますが、これ以上、人が減ると、ますますわれらの仕事が増えるだけですぞ」

「あいつは何もしておらぬぞ」

「そこはそれ、ぐっと我慢でございます。これも仕事の内と思って」

仕方ない。

陳到のことばがもっともなだけに、余計に腹が立った。

もちろん、麋芳に対して。

麋芳は、趙雲たちを見張っていないときは、ここぞとばかりに『わが君の義兄』なる立場を利用して、麋夫人(びふじん)らを守るとの名目の元、後堂で、阿斗(あと)を相手にてきとうに遊んでいるようだ。

正しくは、阿斗をあやしている乳母たちと。


よけいなことを言ってくるお節介がいて、

子方(しほう)(麋芳)さまは、子龍さまのしておられる主騎の仕事は楽だな、毎日、わが君や妹のまわりをうろうろしているだけでいいなら、わしにもできるわい、などとうそぶいてらっしゃいますよ」

などと伝えてきた。

これがまた腹が立つ。

「くそっ」

ついつい腹立ちまぎれに筆を乱暴に扱ってしまった。

ぼちゃんと、筆が(すずり)に突っ込む。

すると、筆の神なるものがいるのかわからないが、その祟りらしく、趙雲の顔に盛大に墨がはねかえってきた。

つくづく、ついていない。


ついてしまった墨を手の甲でぬぐって、それでもしばらく筆を動かしていたが、やがて、我慢しきれなくなって、趙雲は立ち上がった。

「どちらへ」

もはや集中しすぎて、顔を上げることもしなくなった陳到が聞いてくる。

趙雲は低く唸るように答える。

「どうにも気が収まらぬ。水でもかぶって、頭を冷やしてくる」

「それがようございます」

陳到の許可を得るかたちで、趙雲は座を立ち、水場へむかった。



新野城内に、やはり人は少なかった。

どうやら麋竺がかかった風邪は、思った以上に悪質なものだったらしく、文官武官はもちろん、下っ端の奴婢(ぬひ)から夫人たちに仕える女たちにまで、くまなく猛威をふるっているらしい。

みな、早く回復すればいいと思いつつ、水場を目指していたのだが……

おかしい。

たまに廊下で人とすれ違うが、なんだか笑われているような?

奴婢たちは趙雲を見るなり顔を赤くしてさっと顔を背け、女たちはあからさまに口元を袖で隠してお辞儀をしてくる。

なんだろうと声をかけようとすると、足早に逃げてしまう。

ただでさえむしゃくしゃしているなかで、人から笑われているかもしれないと思うのは、不愉快きわまりなかった。

めずらしくおれが事務仕事をしているのがおかしいのかな?

それはおかしいではないか。

頑張っている人間を捕まえて笑うとは、なんてやつらだ。

だんだん、腹が減った冬眠明けのクマのような顔になっていく。


孔明の私室の前を通りがかったときだった。

無人のはずの私室の扉がぱっとひらいた。

そして、部屋のあるじの孔明そのひとが、姿を見せた。

「子龍、いま帰って来たぞ。わたしの仕事をしてくれていると聞いたよ、すまなかった……な?」

愛想よく言ってきた孔明だったが、趙雲の表情を見て、顔をこわばらせた。

「どうした、子龍。その顔は」

さすが遠慮なく聞いてくるところも孔明だった。

趙雲はにこりと笑う気力もなかったので、不愛想に答える。

「疲れたので、水をかぶろうと思ったのだが、なぜか人に笑われている」

「水なんかかぶると流行っている風邪に襲われるぞ。それと人に笑われるのは仕方ないな」

「なぜ」

「そう目を吊り上げるものじゃないよ。ともかく、わたしの部屋へ入るがいい」


誘われるまま、部屋に入る。

孔明はすぐさま寝台のそばに置いてあった手鏡を取り出して、趙雲に向けて見せた。

「ほれ」

おれは骨をもらう犬か、とひがみつつ、にらむように鏡の中の自分の顔を見る。

すると。

「なぜおれに(ひげ)がある」

鼻の下に、ちょこんと髭らしきもの。

「それはわたしが聞きたい。見たところ墨で汚れたようだが」

墨で汚れた、と聞いて、すぐに筆をいじめて祟られたことを思いだした。

跳ね返った墨を手の甲で拭いたとき、鼻の下に髭のような汚れができたようである。

ほんとうに、つくづく、ついていない。

だから廊下ですれ違う者たちが笑っていたのだ。

しかし、趙雲がめずらしく不機嫌そうだったので、だれもが怖がって教えてくれなかったのだろう。

「思い当たることがあったようだな。ともかく、いま拭いてやるから、水場で水をかぶるのはよせ」


言うと、孔明は部屋の片隅にある水差しからちいさな(たらい)に水をつぎ、きれいな布をひたして、しぼる。

そして、趙雲の顔に絞った布を当てようとするので、趙雲は思わず顔をそむけた。

鼻の下に髭のような墨のあと。

これをぬぐうためには、鼻の下を伸ばした間抜けな顔をしなければならない。

なぜだかそのとき、いつだったか現行犯で捕まえた新野を騒がせた覗き魔の顔がぽんと浮かび、おれもあいつみたいなおかしな顔をしないといけないのか、という気持ちになった。

覗き魔はまさに捕まったとき、鼻の下を伸ばした顔をしていたのだ。


「軍師、自分でやる」

「そうか? うまくとれるかな?」

「そのための鏡だろう」

悪態にも似た言葉を聞いて、孔明は、やれやれ、ご機嫌斜めだな、とぼやいている。

孔明の鏡をつかって鼻の下の墨をとった。

すっきりした。

ついでにいくらか気分もよくなった。

指摘してくれたのが、こいつでよかったなという気持ちにもなってきた。

礼を言ったほうがいいか?

いや、それよりも、州境にいるはずの孔明が、なぜ新野城に戻っているのか。


つづく


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