夏のさかりの町田(2)
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一学期の講義は次々と終わり、二回目の全国模擬試験を受ければ、夏期講習が始まる。
受験生にとって大事な夏だった。夏場の学力アップのためにも、一学期に勉強した内容をよく復習しておく必要があった。TOPビル六階の自習室にこもって、黙々と復習をこなしていた。
休憩をとろうと、六階の自習室を出た。窓のない階段ホールには澱んだような熱が感じられた。五階まで下りた。
五階フロアの講師控え室の前に、テキストとノートだけをもった五星塔子が立っていた。
「あれ? 五星さん。先生に質問?」
「うん。英文法のオオスミ先生にね。でも中でだいぶ並んじゃってて。少し待たないと……」
「そうか」
塔子は続けて言った。
「ねえ、ヤマトくん。そばにいてくれない?」
甘い響きにも聴こえた塔子の言葉に一瞬心が動揺する。頭の中が真っ白になった。それがこちらの表情にも出てしまったのか、塔子が慌てて言葉を足した。
「……し、しばらく一緒にいて。あの、その、オオスミ先生の手が空くまでって意味で……」
「あ、もちろん。もちろん大丈夫だよ」
心を落ちつかせながら答えた。動揺を隠すように、さらに思いつきの話題を塔子に振った。
「そ、そういえば、オオスミ先生のこないだの話って、聞いた? 夏の間は長野の牧場にいるんだってさ。
ヒューガ先生はミュージシャンなのに山登りが趣味とか言ってたし、予備校の講師ってよく分からないよな」
「そ、そうね。ちょっと変わった人が多いのかも」
(『ねえ、ヤマトくん。そばにいてくれない?』か……。)
何人か講師控え室から学生が出てくる。それを見ても、五星塔子はドアを開けて中を覗こうとしない。中ではまだ何人もオオスミのところに学生が並んでいるようだった。塔子が訊いてきた。
「ヤマトくんの通ってた霧峰学園ってどんな学校?」
「霧峰? うーん、そうだね。雰囲気的に、厳しい学校だったかな。登校と下校の時間には校庭のポールに日の丸が上げ下げされるんだけど、
校内放送が流れて、『君が代』が流れはじめたら、たとえ何をしてても、校庭の方に向かって『気をつけ』をしなくちゃならない」
「見えない場所でも?」
「そう。校舎の陰とかで、校庭のポールが見えないところでも。
雰囲気的な厳しさを醸し出させるのが好きだったみたいで、冬のスキー合宿を、前は『スキー団体訓練』と呼んでたとかいう噂もあったな。
あと、授業の前は必ず一分間の黙想。昔は座禅教室とかもあったらしいね」
「私の学校はカソリックの女子校だったので、やっぱりお祈りの時間とかは、結構あって。私は自宅から通ってたんだけど、寄宿舎に入ってた子なんかは色々と厳しかったみたい」
「寄宿舎? なんかヨーロッパの学校みたいだね」
五星塔子の出身校・静岡の聖学館女子高校がカソリックの学校と聞いて、頭に浮かんだのは、高校時代に読んだ遠藤周作の『沈黙』という小説だった。
久しぶりに読み返してみたくなり、塔子が講師控え室に入っていった後、そのまま階段を下りてTOPビル三階の古本屋に行ってみることにした。
三階フロアに足を踏み入れると、古本屋特有の埃っぽい紙の匂いがした。文庫コーナーに高校時代に読んだ文庫版はなく、単行本のコーナーも見てみたが、そこにも『沈黙』はなかった。
遠藤周作の単行本が並んでいる棚の近くに、人気作家・和泉順三郎の小説がいくつか並んでいたので、手にとってページをめくっていた。
背中から声をかけられた。振り返ると、英語長文読解の講師・日向マゴヒコが立っていた。
「お、和泉順三郎の小説か。読むのか?」
「はい。高校の時に、好きで、何冊か読みました」
「和泉順三郎は翻訳ものも結構いいぞ。元々、英米文学の翻訳家だからね」
日向のアドバイスを受け、和泉順三郎の翻訳作品を探した。オリジナル小説作品が並んでいる中に一冊だけ翻訳ものの単行本があった。
ドナルド・ウォーカー・スミスという名前のアメリカ人が書いた『New York Suburbia ―ニューヨーク郊外―』という本で、軽くめくってみると、小説ではなく評論とエッセイの中間のような文章だった。
古書でも結構いい値段がしたので、ひとまず眺めるだけにして、古本屋を後にした。
夕方、小腹が減ったので、TOPビル六階の自習室を出た。
一階に下りて本校舎の前まで歩いた。アスファルトの上を覆いつくした昼間の暑さは、もうこの時間にはだいぶ落ちついてきていた。
コンビニに入ると、中に土佐ミチスエがいた。パンと飲み物を買い、二人でコンビニの裏の小さな駐車場のフェンスに寄りかかった。
「近江チューターいいわあ」パンをかじりながらミチスエがつぶやくように言った。「いいわあ。すげー可愛いんだよなあ」
「なんだ、そういう意味で?」
「何歳かなあ? 若いから大学生みたいなんだよな。こないだもシャツの胸元がちょっと危うい感じでさ。たまんなかったな。
もうオレ、丹波チューターの担当から近江チューターの担当にFA移籍したいよ。なあ、近江チューター、いいと思わない?」
近江は若い女性チューターだったので、男子学生たちから人気があった。
「どうかな。確かに可愛いけど、ちょっと頼りない感じじゃないか?」
「そこがまた可愛くていいんじゃないの。ちょっと天然入ってるところがさ」
ミチスエは自信たっぷりにそう答え、さらに続けて言った。
「ところで。ヤマちゃん、彼女は?」
ふいに訊かれたので、動揺しながら答えた。
「いないよ、そんなもん」
「そんなもんって……。硬いなあ。まじめすぎるっていうか……。適度にガス抜きしないと、受験だって上手くいかないんじゃないの? 霧峰学園って結構モテるって聞いたけどなあ」
「活発なやつはね。近くに女子部もあるから。でも内にこもっちゃったら、そこはまあ、完全なる男子校だから。モテるも何も、それ以前に女子との交流自体がないよ」
「はあ。三年間も? まったく?」
そうだと答えると、ミチスエはため息をつくような声を発した。
「ふうん。じゃ、ヤマちゃんは、まだ未使用なわけ?」
「未使用?」
「要するに、まだ童貞なんでしょ」
ミチスエに嘘をついても仕方がないので、正直に答えた。
「ま、その……、未使用だな」
ミチスエは呆れたような表情を見せ、諭す口調で言った。
「あのね、ヤマちゃん。『童貞は一刻も早く捨てるべし』って三島由紀夫も何かの本に書いてたよ。
童貞の男の頭の中なんて、ワイセツな妄想でいっぱいになって、いつも余計なことばかり考えてるもんだから、童貞でいるうちは透明な精神なんてもてっこないってさ」
「三島由紀夫がそんなこと書いてるのか?」
(ワイセツな妄想で頭がいっぱいになって透明な精神がもてない……。)
思い当たるふしがあった。このところ、そんな妄想で心が満たされてしまう瞬間が、確かに時々訪れるようになっていた。
ミチスエが先輩風を吹かすように、ポンポンと肩を叩きながら言ってくる。
「まあなんというのか、開き直れるというのか、一皮むけるというのか。こう重心がぐっと下がったようなね、落ちついた感じになるっていうのは、確かに実感としてあるかもねえ」
「……」
「ヤマちゃんも、モテないわけじゃないんだからさ。余計な重荷はさっさと捨てて、『透明な精神』で受験に臨んだらどうよ。
誰か身近にいないもんかね? 三島由紀夫が言うところの、少年の自尊心をいたわりつつ優しくリードしてくれるような『菩薩』みたいな女の人が」
瞬間、菊原美月のことが思い浮かんだ。
通用路でぶつかった時、微かに触れていたように感じた胸のふくらみ。ハタキをかけながら身体をぶつけてくる腰つき。
小ばかにしたような言葉の中に、好意の影をにじませるような思わせぶりな態度。肌色の二の腕。近づくと香る柔らかな匂い。
脳裏に、妄想でしかない菊原美月の裸体のイメージがちらついて渦巻いた。
しかしその直後、身体中に広がりかけていた菊原美月の官能的なイメージは、ミチスエが発した言葉で弾けとんだ。
「オレの予想だけど。ヤマちゃんって、五星さんを狙ってるんじゃないの?」
二人の女性のイメージが頭の中で激しく混乱した。整理がつかず、一瞬何も考えられなくなり、答えに窮した。
「……」
「やっぱり。まったく分かりやすいなあ」
ようやく妄想が鎮まり、頭の中が整理できてくる。ミチスエが言うように、五星塔子の存在がずっと気になっているのは、間違いのないことだった。
「それで? 彼氏いるかどうか訊いたの?」ミチスエが言った。
「バカ。そんなこと訊いたら、こっちから『狙ってます』って言ってるようなもんだろ。オレたちは受験生なの。もう後がない浪人生なのよ。わかる?」
ミチスエがにやけながら聞いているので、さらに続けて言った。
「入試が終わるまで、浮かれたこと言ってられる余裕はないわけ。それに、いま五星さんにうかつにアプローチして、幻滅されたり、避けられでもしたらさ、もうオレの心が冬の試験本番までもたないって」
「ふーむ、本気なんだね……。そうか。オレの見たところ、五星さんみたいなタイプはねえ……」
「イヤらしい想像はよせ」
「分析だよ、性格の分析。たぶん五星さんは、余裕がある感じの男に惹かれるタイプかもねえ。だから今のうちに、適度に経験を積んでおく方がいいんじゃないかと思うよ。身近に誰かいないかね?」
話が堂々めぐりになりそうだったので、適当にミチスエとの会話を切り上げて自習室に戻った。
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【参考文献】
三島由紀夫(2001) 『不道徳教育講座』 角川書店(角川文庫版)
〈著者・秋沢ヒトシのプロフィール〉
秋沢一氏 /コピーライター、作家。小説『見えない光の夏』で第3回立川文学賞・佳作。ラジオCMコンテストでの受賞歴少々。お問い合わせは、「作家 秋沢」で検索するか、以下のアドレスでアクセスできる、ウェブサイトのフォームから。https://akisawa14.jimdo.com/